2022年2月18日金曜日

白雪考

  一昨日の夜から未明にかけて降った雪は最近にない積雪となった(徳島市で11年ぶりといっていた)、昨日も今日も快晴だったが気温が低いため今夜になってもまだそこここに積雪が残っている。今日午前十時ころに汽車にのったが車窓からは野原や畑にまだらになった雪が見えていた。気温は氷点下に近いとはいえ陽光は二月も中旬を過ぎ春のまばゆい光となっている。ムラ消えの雪が春の光に反射して白く輝いている。地色である枯れた草原の黄色やすでに伸びつつある若草の緑色とのコントラストが輝く雪の白さをより際立たせている。

 「白雪とはこういうのを言うんでないのかしらん、大雪に閉ざされた白一色の世界より、枯草の原や若草の原に残るムラ消えの雪のほうが、純白として認識されやすいのじゃないのかな、雪は白いのは当たり前、しかし他と比較対照するのがある方がより白が際立つため、さらに雪に白いをつけ、白雪にしたんじゃないのかな」

 「白雪」と聞いてまず皆さんは何をイメージするだろうか。やはり和歌や詩・俳句、歌の歌詞じゃないかしらん。あ、もしかして「白雪姫」?だが「白雪」は日常語としてはまず使わないだろう(普通の会話で、先日の大雪がまだ白雪で残っとるわ、とか、山にはまだ白雪がある、とはあんまり言わんだろう)。

 私はやはり歌である。

♪~・・蛍のともし火、積む白雪~♪

 何の歌かわかりますか?え!「蛍の光」、惜しい!これ最近は学校でもトンと歌わなくなったが「仰げば尊し」です。思い出しましたか。この歌の特にこのフレーズ「♪~蛍のともし火、積む白雪~♪」を聞くと私は今もホロリと涙が出てきます。今は生徒が歌わなくなったため「蛍のともし火」も「白雪」も、その意味が分からなくなっています。昔は「蛍雪の功」といわれ苦学・勉励の例えに使われました。昔、貧しくて灯し油が買えなくてもそれでも夜、学問をするため夏は蛍の光で、冬は輝く白雪の光で勉強したという中国の故事にちなんでいることは仰げば尊しを歌って卒業した年輩の人は覚えているでしょう。

 しかしこの話を現代っ子にすると一笑されます。おっさんアホか、蛍の光を集めてそれが電気スタンドの代わりになるとおもとんかい、白雪が夜輝いてそれで本が読めるんかい、と。中国の故事はそのような大袈裟とも思えることをもってしてある象徴することを表すんだ、といっても「中国故事」を勉強していなくては、そんなことを言ってもまともに受け取ってはくれません。

 しかし、昨夜、銭湯の帰りが遅くなって、路地にまだ大きな面積を占めて残る「白雪」を見たとき、夏の「蛍のともし火」はともかくとして、冬の「白雪の光」で本の文字を読んだのは本当じゃないかしらんと思いました。それは天心(ほぼ天頂付近)にある月の光を白雪が反射してあたりは実際に本が読めるほど明るかったのです。岩波の文庫本のような細かい字は無理としても大昔の毛筆で書いた和綴本の文字は充分読めそうです。

 今月の2月は旧暦の日と新暦の日が一月遅れでぴったり一致する珍しい月です。つまり今月2月1日は旧暦の1月1日、そして2月15日は旧暦1月15日です。ところで昨日は2月17日で旧暦でも17日です。満月は旧暦15日であるのですが、旧暦の暦の作成上、昨夜は旧暦の17日ではあっても「満月」なのです。そして月の季節によって違っている高度は太陽と反対に冬にもっとも高くなります(天頂付近を通る)、つまり冬の夜の満月はもっとも明るい光を地上に投げかけるのです。昨夜はその光が地上にある「白雪」を反射して異様に明るかったのです。

 勉学の労を象徴する「白雪」をまず第一に私は(仰げば尊しの歌として)思い浮かべましたが、「白雪」は和歌などにも美の対象としてよく取り上げられています。夜、皓皓として冴えわたる月の光に輝く白雪も美しいですが、最初に述べたように春の陽光に、ムラ消えになっている雪が白く輝くのも美しく、どちらも美を賛美する詩歌の素材としてよく取り上げられています。日本の詩歌の美の三大素材は「雪」「月」「花」といわれています。昨夜の銭湯帰りの道々はその中の二つ「月」と「雪」があったのですが、私はそれに幻想的な美しさと蛍雪の功の故事を思い出しただけで、詩才のない私はそれを和歌として表現することはできませんでした。先人が作った有名な「白雪」の和歌として二つあげれば

吉野山 峰の白雪 踏み分けて 入りにし人の 跡ぞ恋ひしき (源義経・妾、静御前

朝ぼらけ 有明の月と みるまでに 吉野の里に ふれる白雪 (百人一首より

そして今日、汽車の車窓からムラ消えの白雪をみて思い出したのが下の一首

薄く濃き野辺の緑の若草に跡まで見ゆる雪のむら消え (新古今より宮内卿

車窓から見る雪のムラ消え

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