2021年7月28日水曜日

オリムピク雑感その2

  ワイらが、あぁ~あのころ開かれた東京オリムピクはよかったなぁ、といってもそれは57年もの昔、今現役の世代で枢要な仕事をしている人はおおむね60歳以下だとすると、その人たちには東京オリムピクの体験もなきゃぁ、記憶もない、日本近代史の歴史の一コマくらいの認識しかない。あのオリムピクがわれらにとってどのようなものだったか、それは体験したものでなければわからないんじゃないかと思う。

 いい悪いはおくとして、あの当時、多くの人々は何か大きな出来事、国家行事、国家的関心事があると、みんな心を一つに寄せ合った。昭和30年代日本の家庭の電化は進み、昭和30年代の最後の年39年にはかなり貧しい家庭も含めほぼほぼ白黒14インチのテレビが普及し、茶の間で全国同一の番組が同時に見られるようになったことは、よりみんなが心を一つに寄せ合うことを促進した。大晦日はどこのうちでもテレビでNHK「紅白歌合戦」を視聴し、世代男女の違いをこえてみんな同一の歌を聞き楽しんだ。

 四国の奥の奥にすむ田舎もんが、一体どれくらい東京大阪間を高速移動する必要性を感じていたか全く疑問だが、しかし、東京オリムピクに合わせ「夢の超特急」、今日の新幹線が誕生することをわがことのように喜び、開通式を(TVを通して)寿いだ。

 その時ワイはまだ中学生だったが、大人たちの関心が東京オリムピクに向いて、その開会を楽しみにしているのは感じられた。世界各地から一流の選手を招き、この日本でその場所や施設を提供して行われることは、ワイ自身中学生ではあってもなんとなく誇らしかった。

 この年、貧乏だったオイラのうちにもようやとテレビが入った(親類から中古テレビを下げ渡してくれた)ので開会式も見た。トーチを持って走り込んでくる選手、そして階段を上がり聖火台に火をともしたのは今も印象深く残っている。しかしワイが一番感動したのは開会を宣するファンファーレだった。短いながらも、オリムピクの、祝い、誇らしさ、偉大さ、を胸を張って堂々と宣するようなあのファンファーレは後にも先にもこれほど感銘を与えてくれたものはなかった。

 みんなが東京オリムピクにうかれていたが、ワイにとってはその上にさらに浮かれ楽しいことが重なった。開会式の数日後、4泊(なんと二泊は船中泊である)の九州への修学旅行が始まったのである。我が家では白黒でしか見られなかったオリムピクの競技を宿舎のホールで当時はまだ珍しかったカラーテレビで鑑賞したのを覚えている。

 阿蘇の草千里あたりを走るバスの中でみんなで手拍子とともに三波 春夫の「東京五輪音頭」を歌ったのも思い出す。なんぼうオリムピクが開催中とはいってもクラス全員が五輪音頭を手拍子で斉唱するなどとは今の中学生からしたらかんがえられんやろが、57年もの大昔である。そうそう同じバスの中で東京五輪音頭どころか、クラスの中に意外に歌の上手な子がいて、初めてバスのマイクでその美声を披露して、みんなを唸らせたその曲が「お座敷小唄」であるから当時の中学生はそんな歌も歌っていたのである。

 ジジイの思い出のアルバムより「中学修学旅行・別府温泉地獄めぐり」、恥ずかしながら左上がワイ


 拡大して日付を見ると昭和39年10月16日とあるから、東京オリムピクのちょうど中日やわ。

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