2021年7月17日土曜日

今はない隅瀬の渡し跡

 前のブログで紹介した江戸時代のお四国めぐりのガイドブックはベストセラーで版を重ね、実用としては明治まで用いられていた。初版は貞享四年(1687年)だから元禄の前である。このころまでには八十八ヵ寺が確定し、現代まで続いている札所番号も全く変わらずつけられている。一番が霊山寺そして八十八番が大窪寺である。

 当然、この江戸期のガイドブックも一番霊山寺から説明が始まっているが、回るコースについてうち立ての最初の寺として積極的には勧めていない。原則としては一番霊山寺だがうち立ての寺としては十七番井戸寺から始めるのがよいと進めているのである。原文ではこのように書いてある。

『阿州霊山寺より札はじめは大師御巡行の次第といわる、但十七番の井戸寺より札はじめすれば勝手よし・・・』

 これはなぜか?当時の海路、河川交通の変化が影響を与えていると考えている。中世までは四国とくに阿波への海の玄関口は鳴門の大毛島に守られた内海の泊り・鳴門の黒崎あたりであった。中世歌謡の「閑吟集」に小歌として「♪~身は鳴門船かや 逢はでこがるる~ 」というのがあるが、古代~中世までは上方から四国通いの船は、船が小さいこともあってまず淡路沿岸をとおり鳴門に入ったのである。それらの船を鳴門舟と一般的に読んでいたのが中世歌謡に言葉として残っている。玄関口が鳴門ならそこから歩いていかほどもない一番霊山寺を札はじめとするのは何ら不都合はなかったしそれが自然であった。

 ところが江戸の藩政期に入ると、船は大型化し千石船などは徳島藩の城下町である「徳嶋」と大坂を海路で直接行き来できるようになった。さらに徳島藩は換金作物として「藍」作りを奨励し、藍玉を商品として大坂に売り込み始めたので徳島城下の外港から大坂への海路流通はますます盛んになった。そんなことから商品とともに付録のように乗りあう旅客は大坂から直接徳島の外港へ向かったのである。上陸地である徳島で一泊し(遍路宿や大滝山の持明院などの寺にとまった、上記のガイドブックには遍路宿の具体名も書いてある)、翌朝そこが歩き始めの第一歩となる。ここを起点とすると一番近いのが十七番井戸寺である。直線的には霊山寺は井戸寺より若干遠いがとんでもなく離れているわけではない。ただし、大河吉野川をはじめ中河川も多く小河川をのぞいて橋はない。渡るには渡し船に頼るしかない。

 この結果、徳島へ着いた四国巡礼者は2つのコースの選択を迫られる。順序通り一番から始めるか、それとも十七番から始めるか(17番⇒16⇒15⇒13番ときて次は12番焼山寺にはならず、13番の大日寺(一宮寺)から石井への山道・地蔵峠を越え、鴨島山路に向かい11番藤井寺から12番焼山寺となる、そこから佐那河内、八多を経、18番恩山寺からは順序通りとなる、残った1~10番は讃岐の88番大窪寺のあと10番⇒9・・・⇒1番霊山寺となり、巡礼は終わる)。多くの巡礼者は、大河吉野川や中河川を渡し船で渡らなければならない1番から始めるコースより歩きかってのよい17番井戸寺から始めるコースをとった。このガイドブックも正規のルートを提示しながら、17番から始めるほうが「勝手よし」と暗に勧めている。

 その遍路コースのいずれをとるにしても(徳島を起点とする場合)最初あるいは終わった後に渡らなければならない吉野川の渡し場が「隅瀬の渡し」である。今はもちろんないが史跡に指定されているので先日、徳島から自転車で四国三郎橋を渡って「隅瀬の渡し跡」を見学してきた。四国三郎橋を渡って土手を少し東に行ったところにある。



  今は体練場になっていて護岸工事もされ、ここが渡し場であったという面影は全くない。(四国三郎橋上から撮る、左方の岸あたりが渡し場であったところ)。


 鳥瞰図で見た「隅瀬の渡し」(黄色矢印)と霊山寺(赤いしるし)その二つを結んだ直線を伸ばすと下方に徳島市中心地が見える。

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