2022年8月14日日曜日

ウチの近くの十王堂(閻魔大王をお祀りしている)

   先のブログでは名東地蔵院の「十三仏堂」の閻魔さんを紹介したが、説明したようにお堂の中は十三の仏さんがズラズラ並んでいる。そのなかに閻魔王もいるが他の仏さんと大きさも顔の形も皆同じ。閻魔さんが特別な存在の仏様ではない。

 閻魔さんに特化して閻魔王だけが祀られている閻魔堂は、いろいろ調べたが県内にはないこともわかった(私が調べきれなかっただけかもしれないのでもしご存じの方は教えてください)、その過程でわかったのは閻魔さんに関するお堂はまず「閻魔堂」(これは徳島にはない)、そして先のブログの「十三仏堂」、それと「十王堂」というお堂もあり、そこにも閻魔さんが祀られていることがわかった。

 十三仏堂と十王堂は本地垂迹説によれば共通の仏さんでそれぞれ(13体と10体だが)対応一致している。ただし十三仏堂は三体だけ十王堂にはない仏さんがいる。その二つの堂の違いは何か?小難しい仏教の理屈より百聞は一見にしかずで二つの堂内の違いを見比べてみるとよくわかる。十三仏堂はそれぞれ仏像の大きさに違いはないが、十王堂では閻魔さまが中心で像が大きく、他の九体は脇持仏の扱いで像も小さい。

 平賀源内作の「根南志具佐」でも閻魔以外の十王(閻魔を除くと九王)が出てくるが、ここでは地獄の主君(支配者)は閻魔王で、他の十王は閻魔庁の審判に当たっては陪審の役、地獄の制度を幕府に例えると(実際に根南志具佐では地獄の階層制を幕府や藩に例えている)。閻魔は将軍、十王は御三家か老中という事になる。

 十三仏堂ではみんな等しい仏だったが、十王堂では閻魔が中心でそのため像も大きく立派で他は脇持仏の扱いとなっている。だから十王堂に対する礼拝はほとんど閻魔王にたいする信仰と変わりがないのではないかと思っている。

 十三仏堂の雰囲気にあまり地獄を思わせるものはないが(そもそもが十三仏はそれぞれの年忌供養に当たる仏なので)、十王堂は閻魔王が中心であり、また他の十王は地獄で亡者の審判の補佐に当たるのが役目である。礼拝で十王堂を訪れ、閻魔王中心の十王たちに向かい合っていると、ここは地獄のお裁きの場か?、という雰囲気が漂っている。いかにもここは地獄の審判庁であるとのイメージが膨らむお堂である。

 その十王堂を検索すると県内で三ヶ所がヒットした。海陽町、貞光町、そしてなんと鴨島町のウチの近くである。ググルのストリートビューを利用して調べるが、お堂が確認できたのは貞光町の端四国八十八ヶ所・九番十王堂だけであった。あと二つの海陽町とわが鴨島の「十王堂」が検索でヒットしたのはそれぞれの町内にある小字(こあざ)名、すなわち「地名」としてであった。

 しかし地名で十王堂という名が残っているということは、今は無くなったかもしれないが過去にはここに宗教施設としての「十王堂」があったことが強く推定される。その名残として小字名に残ったものだろう。(他県ではこのような神仏のいずれとも判然としないお堂は明治の廃仏毀釈の時にぶち壊され消え去ったものが多いから徳島でもそういうことが考えられる

 海陽町十王堂は遠くてちょっといけないが、鴨島町内原(小字)十王堂は幸い我がウチから近い、その地名の場所にいって古老(ワイも十分古老だがこんな地名があったのは知らなんだわ)に聞けば昔、どのあたりのそのお堂が建っていたかわかるかもしれないし、もしかしたら昔あったその信仰の実態も聞けるかもしれないと、暑い中、出向いた。

 下の地図に示してあるのがが鴨島町内原十王堂の地名


 国道192号線沿いに大病院の「鴨島病院」がある(先週、ここでワイはワクチンしたわ)その裏のほうが目当ての「十王堂」の地名場所である、このあたりは農家の多い(兼業も含む)広い田園地帯である。ググルマップで見ても田んぼや畑が広がる。目印になるのものとしては「荒神社」がある。十王堂の地名はそのあたりの南に広がっている。それを目当てにでかけた。はたして古老はいるか、お堂の廃墟跡くらいは見つかるだろうか?

 荒神社である。

 小字(こあざ)十王堂と名付けられた南の方を見る。しかし猛暑日の日中である、情報を聞ける古老どころか、農作業の人も出ていない。(横溝正史描く調査風景だと、この狛犬の台座のあたりに歯の抜けた加藤 嘉さん演じる古老が杖をもって座っていて、私が聞くと祟りを恐れるかのようなおどろおどろしい口調で、なにぃ~、十王堂じゃと・・と話し始めるのだが・・サスペンスのようにはいかん

 一応神社の南を自転車でくるりと回ったが、十王堂らしきものも跡地もなんもない。ぐるっと回ったあと諦めて帰ろうかと思ったが、再び神社に戻ってきたとき、上の最初の写真にある神社の玉垣の端に小さいが瓦葺きの小屋があるのに気づいた。最初は農作業小屋か神社の神輿いれる倉庫かな、と思っていたが、小さいながらも古い木造、かつ瓦葺きで、地蔵堂に似ている。「こりゃ、お堂建築じゃ、近くへ寄って調べてみよう」


 額もなにもかかっていない。しかし鈴と紐が下がっていて、格子戸をとおして拝礼するようになっている。これはお堂に間違いない。もしや今も存在する「十王堂」では?

 期待しながら、拝礼をすませたあと覗くと、お!まちがいない十王堂じゃ、真ん中の大きな像が閻魔大王、そして脇持仏が残りの十王(九王)だ。十王堂という額はかかっていないが白磁の花瓶には十王堂としっかり書かれている。

 十三仏堂よりず~っと閻魔信仰が強い十王堂が我が町にあったんや。暇だけはたっぷりあるこのジジイである、やがてお世話にならなあかん閻魔はんやから、このお堂もジジイの町内巡礼場所に加えとこや。

 さて徳島県内の十王堂にかんする私の貧弱な調査では以上3ヶ所である。そのうち実際に「お堂」があったのは鴨島町内原十王堂と貞光町辻の十王堂の2ヶ所である。海陽町の十王堂はググルのストリトビューでかなり隅々まで調べたがそれらしいお堂は無かった。

 お堂が残っている貞光町辻の十王堂は郷土資料によるとなぜかお祀りしているご本尊は「虚空蔵菩薩」となっている。結局本当の十王堂は、私の撮影した鴨島内原の十王堂の内部の写真を見たらわかるように、閻魔様が中央に鎮座し十王がそろっていたウチの十王堂だけのようである。
 左は貞光町辻の十王堂、しかしご本尊は虚空蔵菩薩となっている。

 ネットで安易に調べるのもはばかられるので、何か郷土のお堂についての資料は無いかと探していると昭和63年版・代表編集者沖田定信(阿波のお堂の習俗研究会編)さんの『阿波のお堂』があった。たくさんの県内のお堂が取り上げられていて、早速当たってみた。しかし上記の貞光の十王堂はあったが、鴨島も含めて他に十王堂として取り上げられたものはなかった。

 ※もし、県内で他に十王堂の情報をお持ちの方は教えていただければ幸いです。

0 件のコメント: