2022年8月12日金曜日

本を読む、平賀源内作の「根南志具佐」

 

 またぞろ仏教関係(特に地獄の信仰)の本を読んでいる。お盆だからというのではなく(少しはあるが)一番影響を受けたのが平賀源内作の「根南志具佐」(根無し草)を読んだからである。平賀源内と言えばダヴィンチのような万能の才を発揮した人と歴史でも紹介される。確かに冶金、鉱山技術、医学、科学技術のような理系の活躍ばかりでなく、西洋画、戯作(小説)、博物誌、地誌などの芸術、文系方面でも活躍している。

 「根南志具佐」は戯作のひとつである。これに影響を受けて仏教関係の本を読んでいるといったが、決して抹香臭い宗教の話ではない。江戸における大衆小説類いと言えるかもしれない。ある芝居俳優の水死事件をヒントにした物語仕立てである。しかし筋の展開は現代の小説とは全く違う。話があっちこっちへ飛んで今の小説になじみある人は読みにくい。その上内容はパロディー精神満載、全体に渡ってシャレのめしている(それがわからないと面白みはなくなる)。原文で読むと掛詞や縁語がうるさいが当時の政治批判、世相の様子などが史書ではまず得られないような記述があって江戸の当時の人の生き様を知りたい人にとっては貴重な資料ともなる。

 さて、私のブログを前回と前々回と読むと、その主題は「地獄」「河童」なっている。平賀源内作の「根南志具佐」の主舞台は地獄、そして主要なキャラは「地獄の閻魔大王」と河童である。つまり「根南志具佐」を読んで触発されて二つのブログの主題となった訳である。

 江戸戯作の特色と言うべきか、物語の発端はなんぼう架空の話でもあり得ないような馬鹿な話から始まる。

 江戸に(実在の歌舞伎の女形だが)瀬川菊之丞という絶世の美少年がいる(もちろん当時の女形として贔屓に対し男女に関わらず性的サーヴィスもする)、その色香に迷った坊主が地獄に落とされ、閻魔庁の審判を受けるため閻魔大王の前に引き出される。ご存じのように閻魔様は地獄の閻魔庁に引き出された亡者の罪を見定め、前のブログで紹介したような八大地獄のどの責め苦を負わせるか決める。閻魔様の考えは(まるで人間のような性行をもつが)男女の恋のみ認め、男同士の愛などは自然の摂理に背きもってのほかと考えるいわゆるノンケ(ホモの気がないという意味)、重い罪科が予想される。坊主が引き出されたとき、坊主の腰に何やら大事にくくりつけている風呂敷包みがある、なにかと獄卒がみればこれが坊主が地獄の底までもと、恋い慕う瀬川菊之丞の似せ絵、閻魔は激怒するが、閻魔庁の陪審たち十王や獄卒は興味津々、菊之丞の美形は地獄まで噂が聞こえてきている、見たくてたまらないから、閻魔にそれを見てから罪を定めても、とか理屈をつける。閻魔は見たいなら見てもよいが、ワシは見んぞ、目をつぶっている。みた陪審の十王や獄卒は全員、驚嘆の声を上げる。そのざわめきがあまりに大きかったので、閻魔もこらえきれず、薄目を開けて見てしまう、すると、なんと、一目で菊之丞に恋してしまうのである(似せ絵だが)

 さぁ、それからが大変!閻魔はのぼせ上がり、閻魔庁から、ふらふらと娑婆へ行こうとする、そして「ぜったい、菊之丞さまと一夜の枕をともにするぅ~」なんどと恐ろしい顔からは似合わない殊勝なことを言い出し、閻魔庁の仕事を放り出して出て行こうとする。職務放棄もさることながら、娑婆の人が一目見たら恐怖で気を失いかねないものすごい姿の閻魔が江戸市中に現れては大惨事となる。十王はじめ獄卒は必死で止めるが、聞きそうにない。

 すると大勢の地獄の陪審、獄卒の中から知恵者があらわれ、「ほなら、こうせんでか、閻魔はんが娑婆へ行く代わりに、菊之丞を地獄へ連れてこんでか、ほしたら閻魔はんが行かんですむでぇ」、それで閻魔はようよう納得するが、今度は「はよ、せぇや!すぐにでも枕を並べてウッフンしたい」と矢のような催促で陪審、獄卒どもを急かす。(あの、男好きの坊主はどうなったか?閻魔も菊之丞なら迷うのももっとも、と罪状はうんと軽くなり、地獄所払いの刑、つまりシャバへ送り返すこととなった

 じゃぁ、具体的に誰をやってどのように連れてくるか、次にはその緊急評議となる、これが結構むつかしい!なんせ、地獄と娑婆(この世)との境は「幽明相隔つ」と言われるように厳しき隔たりがある。秋田町からデリヘルのおねぇチャンを自分の家に引っ張ってくるようには行かない。こちら(地獄)に引き込むということは死人となって来ることに他ならない。そこでいそいで地獄からスパイを娑婆へ使わし、死ねそうな機会を探ると、暑中でもあり、菊之丞が大川で船遊びをするという情報が入り、それなら水に引き込み「溺死」でこちらに引っ張り込む、とまでは衆議が一致したが、それを誰にやらせるかで大もめにもめてしまう。荒々しいサメ、鱶、海坊主なんどにやらしては水に引き込みさらうときに美しい顔を傷つけ台無しにしてしまうかもしれない、さて、だれにやらせたら・・・

 で、最終的に選ばれ使命を受けたのが河童、ところが河童がえらばれた時点で、これはもうタダではすまない面白い展開が予想されている、とうぜん平賀源内もそのため河童というキャラを用意したのであろうが。

 前々回の河童のブログを見ればわかるように河童は男の子のお尻(もっと言うと肛門、穴)が大好き、一応の説明は肛門の奥にある一種の肝である尻子玉が大好物ということにはなっているが、源内さんの作った河童キャラはもう一筋に男色大好、これに菊之丞をさらいに行かせるのは、猫に鰹節の、狼に羊の番をさせるようなもの、河童と菊之丞が出会うとどのような化学作用が起きるのか?つけくわえると菊之丞ももちろん男色大好き、この「菊」という文字に「肛門の穴」という暗喩が込められているのは江戸の読者はとっくにご存じ、肛門はよく見ると(そんなんよ~みとうないわ!)菊の花の形をしているので「菊座」ともいうから。

 案の定、二人は(一方は河童だが)大川の船の上でシッポリとぬれてしまう(意味はおわかりですね

 と、ここまでで全体の三分の一くらいかな、私が説明するとなんかこの本、淫乱猥褻な内容と誤解されるかもしれませんが、江戸期の戯作は淫乱猥褻などと言うのはもう通り過ぎていて、パロディー、シャレの域に入っています、性だろうが聖だろうが何んもかんも、味噌も糞も一緒にこき混ぜての馬鹿馬鹿しいお笑いをもたらす読みのもなのです。江戸期の人は今の人よりずっと信心深かく、地獄関連の信仰も盛んでした。たとえば閻魔堂、十三仏、十王への礼拝、また地蔵信仰も地獄があるという前提での信仰でした。このように敬虔な信仰がある一方、それを裏切るように地獄や閻魔大王をダジャレで笑っていたのでした。江戸でこの本は大ベストセラーになることでもそのことがわかります。

 それで結局、閻魔さんは、切なる願いの菊之丞との契りが果たせたか、ここからは私のブログでの拙い説明より、実際に原文(訳文も出ている)に当たって読まれる方がいいと思います。続編ではなんと閻魔さんが地獄から駆け落ちまでしてしまうのですが、あまりにも面白すぎるお笑いの話をちゃんと伝えるとなると、とてもではないが私の文章力などでは及びませんので。

0 件のコメント: