2022年3月5日土曜日

猶太教王国と摩尼教王国

  中央ユーラシア史(もちろん中央アジア史、中国北方民族史も含む)を勉強していて非常に珍しい王国を二つ発見した。発見などとは大袈裟だが、この歳まで歴史好きを標榜してきた私にとっては想像もしなかった発見である。その二つの王国とは「ハザール王国」と「ウイグル王国」である。一応「王国」とは書いてみたが遊牧騎馬民族の部族の集合体とも考えられるので「可汗国」あるいは部族連合王国とも言えるかもしれない。

 何がめずらしいっていうのか?それはこの二つの王国の国教(支配者が信じ、また国の主要な宗教)である。まずハザール王国はユダヤ(猶太)教。ウィグル王国の方はマニ(摩尼)教である。多くの人々の理解では、古代イスラエル王国と20世紀第二次世界大戦後に建国されたイスラエルの間ほぼ二千年間はユダヤ教を信じる人は世界中に散らばり(ディアスポラ)、国としてまとまることはなかったと思っていた。ユダヤ教は常にマイノリチィ、史上あっちゃこっちゃで迫害されこそすれ、国教にした国があろうとは!驚くべきことである。

 いったいどこのどなたがどちらに建てた国だろう。ではまず地図を見てもらおう。

 なな、なんと!いま全世界の注目の的、プーチンのオロシャがとりにいっている東ウクライナにあるではないか。でもあまり聞いたことのない王国、ちなみに高校で習う詳説世界史の教科書にもこの名はまず出ない。それくらい知られていない王国である。専門家かかなり通な歴史好き以外は知らんで当然であろう。建てた民族は6世紀のモンゴル北方から西へ西へと少しずつ民族移動を繰り返し、とうとうトルコまでたどり着いた「トルコ民族」である。トルコ民族が西漸する過程で中央アジアの各地に次々建てられた王国の一つであった。突厥が唐の圧迫を受け、分裂含みで西へ移動した一派が建てた王国とも言われているが、あまり研究が進んでいなくて詳しいことはわからないそうである。しかし建国の主はトルコ民族、そして国教をユダヤ教としたことは確実視されている。

 時は9世紀初期、上図のようにユダヤ教を国教とするハザール王国が栄えている頃、モンゴル高原ではウィグル可汗(王国)が栄えていた。下の図がその版図である。漢字で「回鶻」とあるのがウィグルである。


 このウィグル可汗国が先のハザール王国よりまだ一段と珍しいのは国教を「マニ教」としたことである。ユダヤ教の場合は迫害やそれに伴う離散はあったが滅びることなく現在まで存在しているがマニ教はすっかり滅びてしまって久しい。マニ教は3世紀にマニ(ペルシャとメソポタミアの間あたりが彼のテリトリーであった)によって始められた、ゾロアスター教、キリスト教、仏教の三つを折衷した人工の宗教といわれている。「人工の・・」とは宗教にふさわしくない形容詞かもしれないが、上記の三つの宗教をマニが比較検討し経典も自分で書き、天上の世界のようすも自ら描写した、まさにマニによって作られた宗教であるという意味で人工の、と言ったのである(キリスト、仏教、イスラムなどは教祖自ら経典を書くこともなく、また天上を描写するなんどということはなかった、経典はみんな弟子あるいは後世の信者の著作である)

 マニ教は一時は近東から地中海世界全体に広がり(あのキリスト教の教父アウグスティヌスも若い時マニ教を信じていた)、世界宗教に発展する可能性もあったと思われるのに西方では10世紀ころ、中国では16世紀ころ消滅したといわれている。そのマニ教を国教としたのが上記のウィグル国であった。このウィグル国の遺跡、遺物は今は辺境となっている砂漠や荒蕪地にあるためか少なく、特にマニ教に関する遺物は極めて少ない、その数少ないマニ教の絵入り経典の断片が下に示すものである。


 9世紀初期、西ユーラシアの黒海からカスピ海にかけてはユダヤ教を国教とする「ハザール王国」が栄え、同じころ東ユーラシアではマニ教を国教とする「ウィグル国」が栄えていたのである。ちなみに同時期、日本の平安京では唐帰りの空海によって真言密教が華々しく紹介され、以後、密教はしだいに隆盛してゆき、神道を始め他宗の仏教にまで大きく影響を与えていくのである。

 ここで私は思うのである。滅び去ったマニ教、教義などの詳細はそのためわかり難いが、三教折衷のためか決して狂信的でもなく、どっきゃらの宗教のように戦闘的でもなかった(そのため滅びたのかもしれないが)、東へ伝わるにつれ仏教的な穏やかさも見られるようである。滅びたものへの感傷的な哀惜かもしれないが、なんとか細々でも(ゾロアスター教は今もそのような形で存在する)つながって今あればなぁ、と思う。

 もし、もし、もしもであるが東の果てのどん詰まりのわが日本列島に伝わっていれば、宗教的寛容さではほかに例を見ない、そして古いものは有難がり後世に残した日本民族である。マニ教も仏教の一派として残されていたのではないかな、と日本に(唐から)伝わらなかったのを残念に思う次第である。

 ところがこのブログを書きながらネットを探っていて、現代日本で思わぬ発見があったことを知った。以下はそのニュースである。マニ教がこのような形ではあっても日本に到達していたのである。なんと嬉しいことであろうか。

国内にマニ教「宇宙図」 世界初、京大教授ら確認2010年9月26日)

 3世紀に誕生し、善悪二元論を教義として世界的な宗教に発展しながらも滅びたマニ教の宇宙観を描いたとみられる絵画が国内に存在することが26日までに、京都大の吉田豊教授(文献言語学)らの調査で分かった。「10層の天と8層の大地からなる」というマニ教の宇宙観の全体像が、ほぼ完全な形で確認されたのは世界で初めて。

 マニ教は布教に教典のほか絵図も使っていたとされるが、絵図は散逸。宇宙観は教えの根幹につながるもので、今回の発見を公表した国際マニ教学会で「画期的」と高い評価を受けた。吉田教授は「不明な点が多いマニ教の解明につながる」と話している。

 吉田教授が「宇宙図」と呼ぶこの絵画は、現在国内で個人が所蔵している。縦137・1センチ、横56・6センチで、絹布に彩色で描かれている。仏教絵画との比較などから、中国の元(1271~1368年)、またはその前後に、現在の浙江、福建両省など江南地方の絵師が制作したとみられるという。日本に渡った時期などは不明。

 吉田教授らは、マニ教僧侶の特徴である赤い縁取りの入った白いショールを着た人物が描かれていることや、中国・新疆ウイグル自治区で見つかっているマニ教史料(上図参照)との照合などから、マニ教の絵画と断定した。

マニ教の天上観の概説とその絵画

 マニ教の宇宙観は、天十層と大地八層からなり、布教にあたって経典のほか、これを図示した『宇宙図(アールダハング)およびその註釈』も使用していた。

『宇宙図』は散逸していたが、2010年、元代前後に描かれたとみられる『宇宙図』が日本で発見された。これは、京都大学の文献言語学教授吉田豊らの調査によるもので、世界で初めてマニ教の宇宙図がほぼ完全な形で確認され、極めて貴重な発見として国際的に高い評価を受けた。


部分拡大図







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