2021年8月14日土曜日

檜瑛司さんの写真展を見る

  今日も雨の一日、シビックセンター3階で檜瑛司さんの残された阿波の民俗芸能の写真展が開かれていたので見学した。


 立て看板のポスターにも書いてあるように「山に多くの人がいて 祭りに熱のこもった時代、彼の視線の先にはこんなにも豊かな阿波がありました」とある。過去形で語らねばならぬのは悲しいことである。檜さんは平成8年にお亡くなりになり、すでに四半世紀もたちますが生前すでに檜さんは、民俗芸能を写真に撮ったり採譜したりするのを「骨拾い」と称していました。それらは近年あまりにも滅び去る速度が速く、やがて跡形もなく滅び去る予感がしていたのでしょう、せめて今なら骨だけかもしれないが、それが世にあった証としてなんとか拾い、後世に残せるのではないかという意思の表れがそのような言葉になったのだろうと思う。

 古いモノクロの写真の前でそれらを見歩きながら、確かめるまでもなくその過半はすでに廃れ、今や行われていないであろうことは強く推察された。わが町のことに引きつけて考えてもすぐ近くのお宮の祭礼が今どうなっているか考えてもそれは知れる。

 徳島は山村、海岸部の僻地が多い。もう限界集落どころか、部落自体消滅したところが多い。消滅せぬまでも高齢化が進み若者がほとんどいないのが現状である。そのような部落の神社の祭礼がもはや維持できるはずもない。檜さんの写真はそんな山村が元気だったころ(戦後、ベビーブームに沸き、若者が部落にも多くいた時代)である。民俗芸能に関して言えば小さな山村、漁村にも確かにこんな豊かな阿波があったのである。

 貴重な多くの写真展示である。どれも引き込まれるものばかりである。すべてに「滅び」の予兆があるためか、一つ一つについて、もっと知りたい、調べたい、という気持ちが沸き起こってくるが、民俗学の研究家でもない私にはそれらすべてを知ることはできない。その中で一枚の写真に目が留まった。


 躍動する若者、これは何だろう、1968年とある、私が17歳の時だ。見ると中学生か高校生くらいだから私とそう違わない。若者が田舎にも多かった時代である。西由岐・八幡神社の祭礼「おねり」とある。同じシビックセンター6階にある図書館で由岐町史を調べると、これは大名行列の先頭の奴(やっこ)が行う「槍投げ」の神事とわかった。神は昔から、白髭の「翁」(じいさん)と童(少年)に宿るといわれる。写真のように槍を投げ、躍動する少年の体からは荒ぶる神のイメージを受ける。

 この神事も滅び去ったのか?図書館の本と館内のネットでさらに調べると、この西由岐・八幡神社はJR「由岐駅」のすぐ近くにあることが分かった。また旧役場も近い、すると人も多く住んでおり、祭礼も維持できている可能性がある。ネットのユーチューブで「西由岐・八幡神社祭礼」で検索すると、平成21年の祭りの動画があった。見るとこの「おねり・やりなげ」の神事も幸いなことに行われていた。ネットにはそれより新しい時代の動画はなかった。平成21年から12年たち今は令和の御代であるが、まだ廃れてはいないと信じたい。

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