2023年5月4日木曜日

立江八十八ヵ寺

 「立江町新四国八十八ヵ所霊場散策コース」という信心散策を兼ねた周遊路が定められている。下に地図をあげておく。


 昨日、その周遊道を回ってきた。その名の通り、各八十八ヵ寺の御本尊の石仏とそれとペアになったお大師さんの石仏が周遊路に配置されている。いつかは行きたい八十八ヵ寺歩き遍路を、と思っていたが気力、体力、金銭も十分でないこのジジイにはちょっと無理である。そこで本格的な歩き遍路はできない代わり今回この周遊路の八十八ヵ寺を参拝してきた。


 参拝の作法は左にあげてある本「四國徧禮道指南」しこくへんれいみちしるべ、と読む)によった。この本は貞享四年(1687年)に発行されたもっとも古い遍路のガイドブックである。著者は眞念(しんねん)、僧侶か修行者である。これによると各札所前で「光明真言、弘法大師の宝号を唱え、各札所の歌(御詠歌)を三回詠む」とあるので、各札所の石仏二体(ご本尊、御大師様)の前でその通り行った。



 立江寺から10分も歩かないうちにその入り口がある。


 少し行くと立江寺奥ノ院といわれる清水寺がある、寺というよりお堂である。


 そのすぐ横に一番札所霊山寺の御本尊・大師の石仏が祀られている、いよいよここから八十八ヵ寺参拝だ。


 道脇にヘビイチゴの真っ赤な槳果(ベリー)があった。名前のせいで嫌われるが、毒はなく、甘くはないが色が美しく、栄養価は高そうである。小鳥や昆虫などが食べている。


 ほとんどの周遊路はこのような竹林の中の道である。


 少し見晴らしの聞くところから立江の町と水を入れたばかりの田がみえる。


 周遊路のもっとも高い場所あたり、標高127m


 下っていると竹林の間から紀伊水道がみえる、沖には船もみえた。


 丁度三時間かけて最後の大窪寺札所の石仏の参拝を終える。最後の八十八番目は「景岩寺」の境内にある。下は周遊路の出口

 八十八ヵ寺、もれなく作法通り参拝した。一つ一つのご本尊様を光明真言、大師宝号、御詠歌をとなえ、特に薬師如来様のところでは、別に兄弟、友人、知人が壮健であるよう、あるいは病がいえるよう祈った。薬師様は数えてはいないが八十八ヵ寺のご本尊の半分くらいではないかと思った。
 
 瑠璃光薬師如来様 みんなが無病息災、あるいは病が癒えますように
 オンコココロ センダリ マトウギ ソワカ

3 件のコメント:

carlos さんのコメント...

仏教では「八十八」「百八」とかいう数字をよく使います。
この88や108という数そのものに意味はあるんだろうか?
77とか100ではだめなんだろうか。
ネットで軽く検索してもよくわからんかった。
数値そのものには、たいした意味はないとか書いてあるのもあった。
仏教発祥の国、インドでは88や108という数に意味があったんだろうか。
よくわかりません。
やまさんの見解はどうですか?

yamasan さんのコメント...

>>カルロスさんへ

 ほんとに歩いて四国遍路の通し打ちをしたかった。いろいろな条件から実現はほぼ無理と分かったとき、せめてそれに近いものを、と考えました。先日の恩山寺から立江寺までの巡礼古道を求めての歩き、そして、おそらく大昔から私のように行けないもののための「ミニ八十八ヵ寺簡略参拝」を体力の許す限りしようかなと思っています。

 またそれも無理となるなら、江戸時代前期(300年以上前)に書いた八十八ヵ寺の「旅日記」(二冊借りている)などを読んでその風景・人物風物などを頭の中で表象するようにしてます。ましてや今はパソコンのグーグルマップのストリートビューでほぼリアルな風景景色は楽しめます。そんなバーチャルな八十八ヵ寺参拝もできると考えています。工夫すればいろいろな別方法もあります。

 さておっしゃる仏教の「八」ですが、八も含め偶数より日本人は古来より奇数のほうが好みだったように思われます、例えば歌舞伎の外題はみんな奇数の文字ですし、二千年の歴史のある詩歌も「五」と「七」です。昔より断然、奇数が好まれました。今日は5月5日端午の節句ですね、五節句は1月7日、3月3日、5月5日、7月7日、9月9日、すべて例外なく奇数の重なる日です。

 ところがインド発祥の仏教関係はそれとは違うようで偶数が重要視されているようです。お釈迦様の教えの要諦の「四苦」、あるいは悟りへの道の「八正道」、仏の十大弟子、十六羅漢、六道輪廻、六根・・等々、他にも挙げればきりがないと思います。日本も仏教を受け入れましたから偶数も忌み嫌うのではなくそれに関連するものには偶数を用いたりします。

 なんで88(ヵ寺)や108(煩悩)なのか、私自身は人を説得できる根拠はありません、ただ、今、外国人向けの「四国遍路ガイドブック」(英語版)を読んでいます、外人向けだけにわかりやすく解説してあり、日本人の私が読んでも、あ、なるほど、知らなんだ、と感心することがあります。それによると88は「厄年」、子供は13歳。男は42歳、女は33歳ですがそれを足したら88になることが一つの根拠として書かれていました。外人向けのある意味合理的な説明だなぁとおもいました。

 また煩悩の108については実のところやよくわかりません、私の独断かもしれませんが、「煩悩」は普通の人なら数えきれないほどあるもの、非常にたくさんという意味で百を超えての煩悩の数となった上に、四苦八苦、あるいは十二(六根の六識で12)の4.8.12のどれの倍数にも108はなるからかな、と、素人考えですが思ったりしています。

 たぶんもっと深い意味があると思います。昨日テレビで織田裕二司会の「ヒューマニエンス」というのを見ていて、数字は古代文明の時代からあったが「0」はなんと7世紀になってインド人が発明されるまでなかったというのは驚きですよね、インド人の心の感性が仏教の「空」にみられるように他民族は思いもしなかった数字「0」を初めて発見したんでしょうね。あ、「0」もなぜか不思議だが偶数に入るようです。面白いですね。

 「0」の数字を素人ながら頭の中でひねくり返しているとずいぶん面白いです。

Teruyuki Arashi さんのコメント...

信仰心が深いですね。歩くことは健康にいいですね。