2023年5月10日水曜日

  夢は未来に向かって見ることもできるし、また過去に向かって見ることもできる。若者は未来に向かって大いに夢をみればいい。もしかすると実現する可能性もあるからだ。しかし本質的に夢は「心の作りだす幻(まぼろし)」と言っていいだろう。100パーセント実現することが無理でも、「夢」は、そうなったときのことを夢見ることができる。歳が行くと未来だけでなく過去に遡っても夢が見られる。すでに確定してしまった「過去」ながら、あのとき、こうであれば、こうなったかも知れない。とちょっぴりの悔悟を感じながら、過去を自分なりに少し手を加えて夢見られるし、あるいはまったく別の(人生だった)過去も夢見られる。ともかく心の作りです幻だから「自由奔放」に、そして「世間の道徳・規律」に関係なく夢はみられる。

 上に述べたことはいわゆる「白日夢」である。これは目覚めていながら頭の中でいろいろなことを表象しながら考えるのである。椅子に座って何もすることがないとき、あるいは寝そべってこれまたボンヤリしているとき、その「白昼夢」をみる。もともと私は子どもの時から、弱い性格だからか、厳しい生活環境からか、夢見がち(白昼夢にのめり込む)だった。もちろん良いシュチュエーションの「夢」を空想するから、気分がよかった。しかしこの歳になると子供の頃はよかった「白昼夢」もすぐ現実が侵食してきて、子どもの時のように手放しでイイ夢には没頭できない。それでもこんな爺になっても未だに実現不能な夢をみる。子どもの時と違うのは過去について夢を見ることが多いことである。そのことを「白昼夢」といったが、爺になってこのような白昼夢に浸ることは、言い換えると「過去の思い出についてあれこれ夢想する」といったほうがぴったりするかも知れない。

 夢は目覚めながらみる「白昼夢」と睡眠中にみる「夢」がある。「夢をみた」といえば、白昼夢よりむしろこの「睡眠中の夢」のほうをさすのが本来の夢であろう。睡眠中の夢はバーチャルなものでまるで映画を見るように風景、人物、本人も含めた特異なキャラが現れる、中には天然色の夢もあるから、白昼夢の場合でイイ夢を見たい場合は、ひたすら頭の中で表象しながらもくっきりとは描ききれない「夢想」より、「睡眠中の夢」のほうがくっきりとした現実感があるということで断然いい。

 しかし高齢になっての睡眠中の夢はほとんどが「イイ夢」でなくなっている。もっと別の言葉で言うと「寝覚めの悪い夢」である、悪夢とまでは言わないが、目覚めるとほとんど忘れてはいるが、なにか重苦しいような、切羽詰まったような、断片的な、筋の通らない、夢見ばかりであり、目覚めて数秒は覚えているが、脈絡のないものですぐ消えてしまう。しかし嫌な夢見の感覚は残っている。もともと鬱の傾向があり、安定剤のお世話になっている私である。朝はだいたい鬱が多いから、それと悪い夢見がかさなって気分は余計暗くなる。浅い睡眠と寝ても取れない疲れがその原因だろうな。

 高校の時見た(睡眠中)夢はドキドキするのもあったが、ジジイになってみる夢と比較すればみんなイイ夢であった、少なくとも重く沈潜するような夢はなかった。それは50数年たった今もその高校のときの夢の幾つかを覚えていることでもわかる。よく空を自由に飛ぶ夢をみた、急に墜落してハッと目覚めたときもあるが、目覚めの気分は良かった。他にも好意をもった人の夢もみた、あれやこれや・・。あぁ、歳ぃいくとそんなイイ夢なんど見ないわ。

 ところで自分は過去を夢見がちといったが、近未来にもある夢があった。それももしや実現するかもという夢である。それは歩いて四国八十八か所巡礼の通し打ちである。しかし今年になってそれを現実化しようと具体的に考え出すと、体力、気力、財力、また一人遍路をするにあたってのコミュニュケーション力、などを考えると、まず現実化することは無理と分かった。現実としては、せめて巡礼古道を日帰りで歩いたり、難所あるいは関所寺といわれるところを数か所回ることが実現可能な精一杯のことである。

 まず無理とは思いながらも、そのことを頭で考えていると「白日夢」に近くなる。以下は私の白日夢である。

 預金もすべて持って遍路の旅に出る。もう家へは帰らぬつもりだ。巡礼旅の途上、どこか山奥で行き倒れになり、死ねばよい。人の通らぬ山の細道で、夏なら丈の高い夏草が、秋なら積もる落ち葉が遺体を隠してくれれば理想的だ。旅に死んだ詩人は古来より多い。西行法師、一遍上人、松尾芭蕉、新しくは種田山頭火などもそうだ。ゆっくり歩いて、今までの生活ではじっくり見れなかった、海や川を見、そして寝ころびながら仰ぎ見る青空や雲、そして山奥の冴えわたる星空、など見つつ自然と一体となり、この身も朽ち果てればもう言うことなし・・・

 そんな理想的な「聖」のような生涯の終え方など無理とはわかっている、だから白日夢なのだ。

 今、夢ではなく、少し遠くの日帰りの札所参拝を計画している。今まで行ったことのない寺「弥谷寺」である。JRを利用し一番近くの駅から歩いていく、かなりの距離あるが、それくらいなら歩けそうだ。片道一時間半でいければいいと思っている。少し険しい場所にある寺で、ましてや県外(香川西部)にあるため、ほんとに日帰り参拝に出発できるかどうかまだわからない。私は先にも書いたように朝は極めて気分が悪く、鬱に近くなるので午前6時過ぎに家を出られる気力があるか、自信がない。このようにブログに書くとそれが既成となっり無言の強制力となって実現するかもしれないと、今ここにこうして書いているが、実のところ、行けるかどうかわからない。もし行けなかったら、これもまた夢で終わる。行けたらまたブログにアップしたいと思っていますが、うぅ~ん?実現は半々かな。

 下は弥谷寺鳥瞰図


1 件のコメント:

Teruyuki Arashi さんのコメント...

年齢を重ねると夢を持てなくなります。yamasanが凄いですね。是非 実現してください。