2022年4月25日月曜日

鍛冶屋原線廃線より50年

  昨日、上板町歴史民俗資料館で鍛冶屋廃線50周年を記念して「なつかしの鍛冶屋原線」の展示をしていたので見学してきました。

 昭和47年1月15日をもって鍛冶屋原線は廃線になりました。私は3~4歳くらいまで終着駅の「鍛冶屋原駅」のすぐ裏に両親と生まれたばかりの妹とすんでいましたが、あまりにも小さかったので実のところ駅の様子やどのような汽車が走っていたかは覚えていません、ただ家から見える夜の駅の信号機の赤や青のランプの光をぼんやり覚えているくらいです。その後吉野川を越えた南岸の町にある祖父母の家に引き取られたので廃線になるまで鍛冶屋原線には乗ることはなかった。

 鉄道路線廃線は利用客の減少がその主原因である。モオタリゼイションの波に多くの国民が乗り、廃線の一端は自家用車利用により列車に乗らなくなったことが原因である。しかし、いざ廃線となると感傷的になる人が多い。それならもっと乗っておけば、とまでは自家用車の便利さを考えればそうは思わない。しかし廃線の日には鉄道ファンだけでなく哀惜の念に駆られた人が大勢押しかける。

 今日その廃線記念展示をみて、その当時の哀惜の念に加えて、すでに50年という月日がたち、老体の我々はその半世紀のいろいろあった過去を感傷とともに振り返る。それに加えてわたしはさらにそれから20年近く遡り、鍛冶屋原駅裏にあった二度と帰ってこない一家団欒のおぼろな過去を思い出す。

 写真1 鍛冶屋原線最後の記念列車出発の様子(昭和47年1月15日)


 写真2 そのときのヘッドマークと日章旗が展示されていた


 写真3 在りし日の終着駅鍛冶屋原のホーム


 写真4 もう走ることのない板野から鍛冶屋原の行く先表示ボード


 写真5 当時の定期、切符、運賃をみると当時の物価がわかる

2 件のコメント:

Teruyuki Arashi さんのコメント...

鍛冶屋原線は名前でしか聞いたことありませんが、僕が中学生の頃、地蔵橋から徳島の塾に通うとき小松島線をよく利用しました。ほとんどお客が乗っていないのでよく使ったわけですが

コロナ禍、人口減で まして車社会の地方では公共交通機関は どうなるんでしょうか?

役所だけでなく、いろんな人を交えて意見交換すべきではないでしょうか。

バスもほとんど空っぽの状態で走っていますし

yamasan さんのコメント...

>>テルさんへ
 もう一つ思い出の廃線があります。小学校の頃、離れている親に会うため小松島港から阿摂航路に乗りました。なんともいえない旅愁を感じさせる終着駅でした。チッカ売りのおばさんが出発を待つ列車に入ってきて売ってましたね。その港線も昭和60年に廃線になりました。港線は10回くらい乗ったでしょうか、テルさんも子供の頃港線に乗った覚えがあるのでは。
 ガソリンが値上がりしているようですが、だからといって列車に客が戻ることもないでしょうね。古いものは廃れ消えていくのが定めなんでしょうね。