2019年10月19日土曜日

お経に出てくる聖地

 法華経の第一章序品、観無量寿経を読み、それから今、無量寿経を読んでいるが、三つのどのお経にもお釈迦様がその経を説かれた場所の耆闍崛山がでてくる。古代インドのマガダ国の首府、王舎城の郊外にある高くない山(というより小高い丘といって方がいいだろう)が「耆闍崛山」(ぎしゃくっせん)または「霊鷲山」(以下、霊鷲山と呼ぶ)である。どこにあるのか調べてみた。まずインドにおける王舎城の位置は赤丸で示してある。

 そしてその王舎城の郊外の霊鷲山の位置は

 古代のマガダの首府王舎城は2000年も前に廃墟となっていたがその位置は今に至るまでずっと知られていた。19世紀になって英国がインドを統治してからは考古学的な発掘やその研究も進められた。しかし、この地における仏教は1000年ほど前に廃れ、800年前にはインドそのものから仏教が消滅してしまった。そのため仏教の聖地である霊鷲山はもちろん崇められる対象ではなくなり、すっかり忘れられてしまっていた。

 その位置を同定したのは20世紀初頭、仏跡を求めて旅をした大谷エクスペディション御一行様と言われている。それまではおそらく廃れた仏教遺跡などを求めてはるばると異国から、1500年も前の玄奘三蔵はんのように旅する人もなかったのだろう。御一行は急ぎ足の仏跡めぐりであったが、以前からわかっていた旧王舎城に入り、わりと容易に霊鷲山を同定している。特に考古学的専門知識も必要なく、玄奘の表した大唐西域記などを手掛かりに「あそこだ!」とみつけている。トロヤを発掘したシュリマンと違いこちらは別に埋もれてもいないし、山肌にあるため幾星霜のうちに崩れ風化は進んだが、発掘しなくてよく、むき出しのままあるので見つけるのは容易である。それにどこやらわからぬトロヤと違い、大唐西域記には玄奘が詳しく方角から距離まで書いてある。文献を片手に旧王舎城に入れば同定は誰でもできそうである。ただその霊鷲山を見つけたいという強い思いの仏教徒が20世紀初頭までこの旧王舎城に現れなかっただけである。ただそれを大谷エクスペディション御一行様がなしたのである。

 ちなみに大唐西域記のその地理的描写、方位、距離を読んでみる。

 「・・・宮城より東北へ行くこと十四、五里で耆闍崛山(霊鷲山)に至る、北山の南に接してただ一つ特に高い、鷲も住みついているし、また高台にもなっている・・・ビンビサーラ王は(自らあるいは人々が)仏の説法を聞くために山麓から山頂まで石を畳んで階段をつくった・・・この山の頂は東西が長く南北が狭い・・・」

 とある。そこで上記の旧王舎城の地図を見てみる(19世紀には英国・インドの考古学的研究により王舎城の詳しい内部の配置もわかってきていた)。大唐西域記には宮城より東北へ十四、五里とある、玄奘が旧王舎城のどの地点で立ち止まって、霊鷲山の方位と距離を確かめたのだろうか、地図で見てわかるように旧王舎城の範囲は内壁内と考えてもかなりの広がりを持っているが、仏典で特に有名な王舎城内の牢獄、そして王舎城を出てから霊鷲山までの道程にジーバカ(ギバ)大臣(医師でもある)の園林の描写があるのを見ると、玄奘はんが起点とした王舎城は旧王舎城内壁内の南の部分(牢獄跡や東門のあたり)であろう。このあたりだと確かに霊鷲山は東北方向に見えている。しかし問題は距離である、十四、五里とある、はたしてどれだけの距離であろうか、日本の『里』は約3.9Kmであるが西域記の里の長さはもちろん違う。これには西域記の文献の研究があって、実は中国内地、インドの各地によって里の長さはそれぞれ違っているのである。その違いがどれほどの長さになるかについては遅くても19世紀末までにはその研究成果は公にされていた。それによると王舎城あたりの里の長さは、一里=約320m、である。そうすると14~15里は4.5Km~5Km未満くらいである。もちろん直線距離でなく霊鷲山山頂までの道程である。そして、北山の南に接してただ一つ特に高い、鷲も住みついているし、また高台にもなっている・・・の地勢描写を見ると、自ずから霊鷲山は同定できる。上記の地図の位置が玄奘の西域記の描写と同じであることがわかる。大唐西域記とその研究文献をもっていれば容易に霊鷲山は特定できる。

 大谷エクスペディション御一行様の隊長は日本屈指の大教団の教祖直系の御曹司である。この教団ではお釈迦さんが浄土信仰に基づいて説かれた場所の霊鷲山を特に神聖視し重要視している。御曹司さんも千年近く知られていないその霊鷲山の位置を特定して感動されたであろうと思われる。

 霊鷲山で説かれたお経で重要なものはいくつもある。上記の「浄土三部経」もそうだし、「法華経」もそうである。他にも幾多の経がある。千数百年にわたってこれらの経を受持してきた信仰厚い人々は幾千万いや幾億人いただろうか。信仰深ければ深いほどこの霊地・霊鷲山に対し、あこがれ以上の強い渇仰をもっていただろう。できることなら行きたい、でもその場所は天竺といわれる西方にはるかに隔たたったところである。いくら渇仰したところで行けるはずもない。せめてイメージだけでも(イメージだけでも救われるという信仰もあった)とその霊鷲山を観想しただろう。

 下は鎌倉時代に作られた絵巻物に現れる霊鷲山。まずは大唐西域記絵巻、
 王舎城は周りを五の峰を擁する城壁のような低い山脈に四周を囲まれた天然の要害地にある(むしろクレーターのような地形といったほうが理解しやすいだろう)、宮城はそのクレーターの盆地にある。下の絵巻ではその王舎城の盆地は霞がたなびき雉のような鳥が飛んでいる。そして霊鷲山はと見ると上方に、ワシの頭の形をした山が見える。
 西域記には鷲が住むとは書かれているが鷲の頭の形をした峰とも高台だとも書かれていないが文字から受ける「霊なるやまの鷲のみね」とでもイメージしたのだろうか、中世以来このワシ頭のかたちの霊鷲山が定型化する。

 次は法華経絵巻
 こちらは法華経にある二仏が空中に出現して光を放つところ、だから霊鷲山は下に見えている。やはり上記のようなワシ頭のかたちをしている。

 これを見ると異国である天竺の風景や霊鷲山をいくらイメージしようとしてもやはり日本的(やまと絵風)なイメージからは脱却できないのだなぁとわかる。

 イメージだけではなく、天竺の仏跡に対する思慕やみがたく実際に行こうと思った人もいた。大唐西域記は飛鳥時代には早くも本邦に伝わっていて読んだ人も多くいる。お隣の中国の人がはるばる天竺まで旅をした、日本人とて、中国へ渡航する人は古くより多数いたのだから、中国まで行けば天竺行きも何とかなるだろうと思ったとしても不思議ではない。古くは1,200年前平安初期、高岳親王が出家して中国経由で天竺に旅立ったが途中行方不明になっている(中国までは行けたらしいが、一説にはインドに入る前に虎に喰われたともいう)。

 800年ほど前の鎌倉初期には天竺の仏跡思慕の念止みがたく万難を排して旅立とうと思った高僧もいた。京都高山寺にゆかりの深い「明恵上人」である。高岳親王の方は知らない人が多いが(平城上皇の皇子)、明恵上人は高校の日本史の教科書には必ず取り上げられている高僧なので知っている人が多い。教科書でこの樹上の明恵上人図を見た人もいるだろう。

 彼は天竺までの旅立ちの準備を実際にしている。西域記をもとに西域各地方までの距離からいつまでに天竺まで行けるか、という計算までしている。下はその旅程、計算表、三年十か月で天竺まで行けると計算している、また行間の書き込みには、(万難を排してでも天竺へ)マイラバヤ(カナ文字で)、とも書いている。
 大唐天竺里程書

 明恵さんは本気だったのである。では出発したか?体調が整わずグズグズしているうちに、断念を勧める数度の神託があり、結局断念しているが、もしかするとこの神託、明恵さんほどの高僧をみすみす日本から送り出すのを心配し、あるいは残念に思う人たちが、天竺行きを断念させるため仕組んだものかもしれない。でも明恵さんは心底、天竺へ行きたかったのである。普段からお釈迦様や仏跡に対する思い入れは非常に強いものがあった。

 日本の古代中世(近世の江戸時代でもそう変わらないが)においてはたして人々はどれくらい天竺(インド)についての知識を持っていたのか、ほとんどなかったんじゃないかと思うかもしれないが、そうでもないのである。7世紀に書かれた「大唐西域記」は奈良時代以降、仏典に準ずるものとして広く読まれていた。インドの地理、各地域間の距離、風土、インドの国々のありさま、各地の人気、などかなり正確に描写されている。それを読むと7世紀ころのインドを彷彿とさせるものがある。明恵はんなんかは何度も読んだに違いない。結構、正確な(当時のインドの)知識を得ていたのである。

 僧侶でもない貴族、武士、庶民はどうか、彼らもまた天竺についてはかなりイメージできるものを持っていた。それは仏典もそうだがそれ以上に天竺をイメージするのに役立ったのは中世を中心に流行った「説話」である。今昔物語、宇治拾遺物語などには天竺に関する説話がたくさん載せられている。文字の読めない武士、庶民などは「語り部」や「説教師」、あるいは僧侶の法話を通じて天竺に関する仏教説話には接していたのである。説話を通じてだが天竺は結構身近に感じていたのである。だから明恵さんのようにお釈迦様に強い思い入れをいだき、天竺へぜひ行きたいと願った人は(なにせ仏教伝来から数えると江戸中期まででも1200年もあるから)大勢いるだろう。実際に行く準備をしたかどうかは別として。

 しかし思うのだが、天竺行きという夢や、その天竺の国を想像したイメージを膨らませるだけで結局は行けなかった方がよかった。夢は夢で終わったほうが幸せということもあるのである。もし万が一にも明恵はんが日本を出発して艱難辛苦の末、インドに到達したとしよう、言葉の障害も克服したとしよう、しかしその当時のインドはかなり以前から仏教は衰退の一路を辿り、明恵はんが天竺行きの覚悟を決めた数年前に、わずかに燈っていたインドにおける法灯は、イスラム勢が東インドまで進出し最後の仏教の拠点である僧院の僧侶をぶち殺し伽藍もぶち壊したことでインドにおける仏教は完全に消滅してしまったのである。仏教遺跡は破壊され、また積極的に破壊されなくても見捨てられ忘れさられていたのである。そこへ明恵はんがいっても絶望するだけであり、せめて仏跡巡りと思っても場所さえわからない状態であったろう。

 結局、日本人が仏跡巡りをしてその土地でお釈迦様に思いをはせることができるようになったのは明治になってからである。その流れのなかで大谷エクスペディション御一行様が王舎城の霊鷲山を特定したのである。明治期はインド仏跡巡りは汽船で行くことができるようになり、また当時インドを植民地支配していた英国が鉄道網を完備したおかげで上陸しても鉄道が利用できた。玄奘三蔵のような苦難に満ちた砂漠の旅をしなくてよくなり、ずっと楽にそして早く着けるようになったのである。そして今現在は航空機で一っ飛びでインドに行ける。ますます早く安全確実に行けるのである。

 そして今現在に生きるオイラ、最近、死期が迫ったせいか、インドのお釈迦様に対する思いが強くなっている。明恵はんほどではないが、インドに行ってみたい思いは募っている。先にも言ったように今、インドの仏跡巡りするのは容易い。○○宗の信徒会・印度仏跡巡りツァーなんかの参加メンバーを見てみると超高齢で足元もおぼつかないようなジイチャン、バアチャンが普段着で数珠を右手に左手にはゴロゴロトランクの取っ手を持ち、仏跡巡りの旗を持ったツァコンダクタについてぞろぞろと、まるで国内の温泉観光地に行くような感覚で参加しているのを見るとだれでも手ンごろ易くいけることは確かである。でもワイはそんな決まったコース、わずかな時間で制限されている仏跡のツアー巡りに参加するのは嫌だ。一人で自由に時間を取り、気の向くまま、仏跡をめぐりたい。どこでお経をあげようが、瞑想に耽ろうが、気ままに行動したい。

 しかし、なぜか現実のインドにいくのを躊躇する気持ちがある。一人旅に付きまとう、言葉の壁・風習の違い、衛生・治安の悪さ、ほかにもインド特有のトラブル、ということもその躊躇の一つだが、それが主ではない。インドで生まれた仏教に思い入れ、お釈迦様を慕って仏跡に行きたいわけだが、インドで生まれた仏教は滅びて久しい、またお釈迦様は2500年も過去の人である。今、日本にいて仏教やお釈迦様に思い入れが強いほど、インドに行って現実にさまざまな体験すればそれが壊れそうな気がするのである。誰だったかある詩人が『ふるさとは遠くにありて思ふもの』といったが、ワイもそんな気持である。現実には行けない、でも行きたい、しかし行かれず、その思いは募ってくる。そんな思慕するだけの「心の中のイメージの世界」のまま私の中にあるのがもっともいいのかもしれないと思っている。

 明恵さんは仏跡をどのような方法でイメージしたのだろうか、上記の絵巻物なんどの絵画あるいは彫刻などビジュアルなものは最もイメージするのを助けやすい反面、画一的になって自由な連想が妨げられそうである。仏典の記述に基づいてイメージするのがもっともよく、明恵さんもそのように観想したのだろう。明恵さんの時代と違って今はいい時代である。仏典も原書のサンスクリットの和訳、ついでにチベット語版の同種の仏典も、そして注釈現代語訳の漢籍仏典も図書館で容易に見ることができる。王舎城の遺跡や霊鷲山がどんなところか見たければパソコンを開いてググルビューをクリックすればその場所の360°大パノラマの風景が展開する。どれもこれも明恵はんの時代にはなかったツールである。これらは『観想』(仏典に述べられた世界をイメージする)する助けになるのである。

 ちょっとそれを使って王舎城や霊鷲山を見てみよう。最初にググルビュの鳥観図でこの王舎城の地形をみてみよう。
 王舎城鳥観図1 左が北になる、印のある少し右が北門付近になる、そして右方、山脈に囲まれたあたりが旧王舎城

 王舎城鳥観図2 北門付近は外輪山が開いている。上が南方、奥に密林の盆地が広がる、そこが旧王舎城

 上記の地図を見ながら遺跡を見てみる。
王舎城ジーバカ園

王舎城ビンビサーラー宝庫

王舎城城壁

王舎城七葉窟

王舎城轍跡

そして霊鷲山である
霊鷲山1

霊鷲山2

霊鷲山よりの眺め

霊鷲山ビンビサーラの道

 次に動画で王舎城を囲む外輪山から王舎城の跡地を見下ろしてみる。今、盆地の宮城あとはほとんどが密林になっている。

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