一昨日の日曜日、勝浦・生名から鶴林寺をへてお松大権現まで歩きました。生名バス停で降りたのが午前10時半、鶴林寺へ登り、険しい遍路道を加茂谷へ下り、那賀川に沿って歩いて、お松大権現のバス停からバスに乗ったのが午後4時20分、約6時間、11~12kmの歩き遍路でした(区切り遍路)
今日は動画でご紹介します。
一昨日の日曜日、勝浦・生名から鶴林寺をへてお松大権現まで歩きました。生名バス停で降りたのが午前10時半、鶴林寺へ登り、険しい遍路道を加茂谷へ下り、那賀川に沿って歩いて、お松大権現のバス停からバスに乗ったのが午後4時20分、約6時間、11~12kmの歩き遍路でした(区切り遍路)
今日は動画でご紹介します。
5月22日、道なき岬を回ってきました。
陸地の海に向かって伸びている突端は「岬」と言う。この日行ったのはあまり知られていない、そして岬めぐりが難しい岬でした。その名も「大磯崎」、大きな岬ではないが、灯台もある立派な岬です。岬めぐりが難しいと言いましたが、鳴門のサイクリングロードがこの岬近くをかすめ、横切っているので、その道を行けば、まぁ、岬めぐりしたと言えるのでしょうが、突端までいって巡ってくるのは道もなく、磯伝いに行くしかありません。足場となる岩礁をあそこここと見つけつつ、大股で行く、あるいはポンと次の岩礁に飛び移る、しかも大波なんどを避けつつ行かねばならないのでちょっと大変です。だから普通の人は近くを通るそのサイクリングロードを行って岬まわりをしたことにしているのです。(ただし磯釣りの好きな人には良い場所見られていて突端の磯に行く人は多い)
まずその大磯崎といわれる岬を見てみましょう。
鳥瞰図とサイクリングロードの案内図も添えておきます
岡崎でバスを降りてサイクリングロードをテクテク歩き、磯に下りて岬を回り、再びサイクリングロードから農道を入り、りゅうきいも(琉球芋)畑(鳴門金時という品種を栽培している)が延々と続く道をさらに歩き、市街に入り市役所前でバスに乗るまで約8km歩きました。
サイクリングロードから浜に下りたところ、ここらあたりは小砂利の浜が続くので比較的歩きやすい。向こうに白い灯台が見えているがあの真下あたりが岬突端となる。
今日、5月15日、加茂谷のお松大権現から歩き始め、約7km歩くと阿瀬比町にでた。ここはいわく因縁のあるところなのである。
まずは道々撮影した数枚の写真をご覧ください。
お松大権現はんの近くでバスを降りる。下はお松大権現はん、実は猫を祀った神社である。
その前にある加茂谷中学校の横を通って県道に抜けるとこのような表示がある。ここから6kmの山道を歩く
加茂谷という地名のように谷川に沿って集落があり、谷の最底部には清流が流れている。またここは昔石灰岩の採れたところで、ところどころ岩肌が露出しているところは石灰岩で白く見える。
半分進むと、太龍寺への分岐道があるが、今日はそちらへは行かず、阿瀬比に向かう、分岐点には山の中にかかわらず民宿と喫茶店があった。
さて、なぜいわく因縁の阿瀬比町なのかというと、今から5年前、太龍寺を参拝して、遍路道を下っていた時、すべって足をベシ折ってしまったのだ。しかし、その場所は急な山道、救急車どころか、急坂で担架も担ぎあげるのは無理だろう。自分で何とかする以外ない、這うようにしてようよう遍路道が国道と交わる救急車の入れる地点にたどり着いた、そこが阿瀬比町なのである。そこから自分で救急車を呼んで、阿南の総合病院へ搬送され、手術、入院となったのだ。そのやっとの思いでたどり着くいたところにあったのが、阿瀬比町のお社である。救急車を待つ間、そこで休み、そのお社に回復を祈った。それから5年もたち、遅まきながら今日、お礼参りをしたのである。下がそのお社。(なお5年前の骨折の顛末はこちらのブログ、ここクリック)
約、二時間半の歩きであった。阿瀬比町にはバス停があるので、さらに一時間余バス待ちをし、そこからバスで阿南市橘町を経て帰る。乗ったバスは、さらに奥にあるほとんど僻地校と言える某高校の生徒の帰宅便なのであろう、ぎゅうぎゅう詰であったが、髭ジイで杖をついていたためか、女子高校生が席を親切にも譲ってくれた。感謝!
鶴林寺と立江間のお遍路道の一部を歩いた。勝浦町の沼江バス停で降りると、沼江不動と称される石仏が立っている。お遍路さんもここで手を合わせたことだろう。ここから立江寺まで歩く、約7kmほど。
途中、このようなお遍路小屋があった。最近は素泊まりの遍路宿でも高額の宿泊料をとる。このようなところを利用すればタダで泊まれるが、歩き遍路さんでも有料のちゃんとした宿泊所に泊まる人が多い。しかし、歩き+野宿(このような遍路小屋も含む)が、伝統的な、ある意味本物のお遍路さんじゃないかなと思う。
道端では桜や桃の花が咲いていて目を楽しませてくれる。途中、6人の歩き遍路さんにあったが、なんと一人が日本人(または東洋系)だけであと5人は白人だった。逆に立江寺の駐車場からお参りする、車での参拝者はみんな日本人だった(境内や本堂でなんらかの言葉を発していたのでわかった)
昨日は、本州から淡路を通って鳴門に上陸した歩き遍路さんが歩いた遍路道を、岡崎港から撫養駅まで歩いた。岡崎の船着き場から数百メートル遍路道を進んだところに、こんな石柱があった。大昔、ここに遍路関所があったようだ(左端の石柱)。
撫養川沿いの水仙と真菰(マコモ)の群落、このような風景は現代ではあまり見られなくなったが、昭和の初めころまでは撫養(鳴門市)にはこのような場所が多くあり、お遍路さんもたびたび目にしたことだろう。
本日は徳島マラソンの日である。午前九時県庁前スタートとなる。下はスタート直後、九時過ぎ、検察庁の前で写真を撮る。
阿波踊り連の踊り子も応援していた。
短いコースのマラソンも同時開催された(チャレンジコース)、城山を一周する。子どもや車いすの人も参加していた。下は下乗橋(石橋)付近で撮影する。
今日は彼岸中日なのでお寺を三ヶ寺参拝した。霊山寺、極楽寺、金泉寺を霊山寺前バス停から板野南駅まで歩いてお参りした。4kmほど歩いただろうか。下が歩きの地図のコースである。
私が高校生くらいまでは祖父母と一緒に切幡寺へ毎年、春と秋の二回、お参りに行ったものである。当時「犬の墓」行きのバスがあってそれに乗っていったのだが、もうそのバスも廃止され、切幡寺に向かうバスは今はない。そのためバスで参拝できる上の三ヶ寺を選んだのである。
霊山寺の金の宝珠が見える
極楽寺ではしだれ梅がきれいだった。
そうそう極楽寺のお堂の前に須弥山宇宙(仏教の宇宙観)の石の模型があった。九つの界に分かれている。最下層は当然地獄界、最上階は菩薩界であるが、その上に究極の悟りの世界「仏界」がある。でもなんでお堂の前に?何を意図しているのだろう。
金泉寺山門
道々には春の花々が咲いていた。桜はまだ少し早いようだ。下は遍路道の路傍に咲く水仙である。
甥はいま八十八ヶ所参りで寺々を回っている。彼岸の中日の今日、もう伊予から讃岐へ進んだだろうか。
昨日、名古屋の甥が来た。母親の墓参りをすませた後、そのあと六泊七日で四国遍路を回る予定だという。早朝名古屋を車でたち、こちらへは午前中についた。一緒に墓参りのあと、近くのレストランで昼食とる。
車での六泊七日の四国遍路といっても、1番から88番まですべてまわるわけではない。一昨年まで甥は亡き母(私の妹)と一緒に、区切り遍路を時々やっていたので、お四国の半分以上はすましている。そして今回は、甥が一人で、そのまだ行っていない寺々を回るという。亡き母の意思を継いでの今回のお四国回りである。
レストランで食事をしながら話を聞くと、今日の一泊目は高知で、今回は高知市内の31番竹林寺から始めるという。チェックインまでに今日は少なくとも三ヶ寺回りたいといっている。それをききながら、そういえば私はまだ竹林寺へは参拝したことがなかったことを思い出した。
甥はここでの昼食のあと、すぐ高速道路にのり高知へ行く予定である。久しぶりに会った甥である、もう少し話がしたいのと、その竹林寺へ私は一度も行ったことがないので、竹林寺まで一緒に行こうと急に思い立った。甥も同意してくれたので、我が家に寄り、参拝のためのろうそくや線香、お札を用意する。ついでに、甥は納経帳以外は持ってきていないので、私が余分に持っていた菅笠や金剛杖、輪袈裟を彼に譲った。
三時過ぎに高知五台山の竹林寺につき甥と参拝を済ます。甥は次の32番の禅師峰寺へ行くため、そこで別れる。一人になった私であるが、急に思い立ってきたので計画も何もない。あとは徳島へ引き返すのみであるが、帰りの便の時刻さえわからない。とりあえず四時半のバスに乗って高知駅へ降りる(五台山は山なので)。帰るには高知から特急に乗り池田駅まで行きそこから徳島線の普通列車に(特急はない)乗り換えねばならない。しかし駅で調べるとちょうどよい接続の列車がなく、高知駅でかなり待った。けっきょく午後6時38分の特急に乗り、家に帰りついたのは午後十時近かった。
竹林寺の本堂前で撮影する。四国八十八ヶ寺の中で御本尊が文殊菩薩さまなのはこの寺のみ、文殊菩薩さまは私の守り本尊様でもある。
大きなお寺で五重の塔もある。
五台山(竹林寺)の額のかかった山門
高知には路面電車が走っている。帰りのバスの中から撮影する
高知駅前には、武市半平太、坂本龍馬、中岡慎太郎、幕末の三志士の大きな銅像がある。後方のかまぼこ型の屋根が高知駅である。モダンな新しい駅舎である。
駅で待ち時間がかなりあったので、せっかく高知へ来た記念に、カツオのたたき定食を食べた。