2024年6月30日日曜日

6月30日

  今日は6月の30日、明日からは7月だ。ちょうど一年の半分が今日で終わることになる。

「あ~ぁ、一年も半分過ぎたわ、早いもんじゃな、一年なんぞアッちゅまじゃわ」

 と言っている人もかなりいるんじゃないかな。だいたいこんなことを言う人はお年寄りが多い。私もその一人だ。若い人は「一年なんぞ、アッちゅうまじゃ」なんどとあまり言わない。若者は毎日いろいろなことがあり、年寄りげぇな平坦な日々を過ごしているのではない。青春には山あり、谷あり、恋も失恋も、そして程よい冒険も。しかし年寄りはちゃぁう、年金暮らしになり、仕事から離れると毎日変わらない日が続いていく。病気さえせにゃぁ、平安っちいやぁそうなんやけんど。

 この、「あっちゅうま」は歳ぃいくとなぜか強く感じるようになる。切ないのは年寄りは人生残り少ないのに、あっちゅうま、に時が過ぎればすぐ「死に時」がくるではないか!若者の真似をして、というより自分が若い時、そうであったことを思い出し、青春真っただ中のように、毎日を充実して過ごせば、ぼんやりと時の急流に身を任すこともあるまいとはおもうが、知力、体力、気力が思うにまかせない。まぁ、年寄りっちゅうても個人差がある、中には若い衆に負けない充実した日々を送っている御老体もいらっしゃるだろうが。

 今日、6月30日は昔から「夏越の大祓」神事を行った日である。大昔は平均寿命も短かったし、伝染病なども流行して、「ああ、無事に時が過ぎた」というのに一年の刻みはちょっと長すぎる気がする。そこでちょうど一年を半分に切った前半の最後の日、「ああ、半年、無事に時が過ぎた。そして残り半年も無事であるように」を祈念したのが夏越の大祓であろう。

 正式には大祓とあるように、神社の御神域などで禊(みそぎ)をしたり祓えをしたりするのだろうが、昔から庶民は「茅の輪くぐり」をおこなった。有名な神社なら少し前くらいから「茅の輪」を作っている(旧暦の6月の晦日もおこなうのでその日まで残しておくようだ

 大滝山の祇園社(八坂神社)の「茅の輪」


 祈願の作法も書いてある。私もその作法通り祈願した。(水無月の夏越の祓い、つまり今日、茅の輪くぐりをする人は千歳の命を延ぶと書いてある

2024年6月25日火曜日

土佐泊を少し歩いた

  アジサイ寺である潮明寺の山門を出て左にとればすぐ土佐泊漁港である。寺では夜、波荒い時などは潮騒の音もよく聞こえるに違いない。海鳥も寺の境内の上に舞うこともあろう。この寺は海辺の寺である。なるほど寺の名に潮が入っているのもうべなるかなである。下は土佐泊漁港のようす。


 漁港のはずれにこんなバス停待合所のような小屋があった。いったい何んぞいな、と近くによると・・ここ土佐泊から対岸の黒崎にわたる渡し舟の待合所である。20分ごとに出航と時刻表が貼ってあったが、客のいないときは出ないようだ。渡し賃は地元民の便宜を考慮し市が負担をして無料である。


 桟橋もなく、たぶん乗客が乗り降りするときに使うのだろう、ステップ台のようなものがポツンと置いてあった。


 そこから戻って、海沿いに造船所の方へ歩くと道横に「小宰相の局の墓」と書いてある棒杭と矢印があった。その矢印の方向を目指していくとかなり急な石段がある。そこを上がるとその墓があった。


 小宰相の局といっても、誰?私は知らない、またほとんどの人もそうだろう。調べると小宰相の局とは源平合戦の時代、一の谷(現在の神戸)の合戦で敗死した平通盛だった女性で、中世に作られた謡曲「通盛」に出てくる通盛妻の小宰相の局は、敵によってここ鳴門まで追われ、夫が討ち死にした絶望もあり、ここで入水したのである。これが史実かどうかはわからないが、その供養のため墓が作られている。下の写真は上の説明版を拡大したもの。


 墓は丘の上にあり、身を投じたといわれている小鳴門海峡の海が見える。


 その墓に上る石段の横には露草がたくさんあり、小さなかわいらしい花をつけていた。


 ツユクサの輝くような青色は「縹」(はなだ)色という。この色は緋色(赤)の撚糸とともに鎧の縅おどし)に使われている。縅とは鎧の材料(鉄の板など)を目立つ色で染めた撚糸でつづりとじてあることをいいます。その縹色の縅、あるいは緋色の縅の色鮮やかさが、日本の鎧を世界でもたぐいまれな美しさに仕上げているのです。ツユクサのあざやかな青を見ていると、その縹色の鎧を思い出しました。小宰相の局の夫である通盛は一の谷の合戦に参戦しました。きっと縹色の鎧を着た凛々しい若武者であったのだろうと想像します。


 もし私に芭蕉翁のような俳句の才能があったなら、小宰相の局の墓に詣でて見たツユクサの花、その縹色、それから連想して縹縅の鎧、その鎧を身に着けた平家の悲劇的な若武者とその後を追い入水した妻、などをイメージした俳句をつくるのだが残念。誰ぞ私に代わってここに詣でて一句つくりまへんか。

 植物とその花の色、そしてそれをもとに武者を詠みこんだ芭蕉の俳句に次のようなものがあります。

 卯の花に兼房見ゆる白毛かな

2024年6月24日月曜日

6月の花 その2 あじさい

  鳴門・大毛島(地名は土佐泊というにある潮明寺はあじさいの花で有名である。今、アジサイの季節でもあるので花の鑑賞に訪れた。ながいき定期券(老人専用のバスのフリーパス)を使い徳島から鳴門公園行きのバスに乗り、約一時間の乗車し、小鳴門橋を渡った三つ目の小さな停留所で降りた。

 停留所から歩いて7~8分で寺の山門に到着。外からでもたくさんのアジサイの花が見える。優美な花の寺の雰囲気がこのあたりから漂っている。


 境内は見事なアジサイの花々で埋め尽くされている。横方向ばかりでなく垂直に見上げる位置にもアジサイがあり、視界すべてををアジサイの花が覆っている感じである。




 雨を含んだ分厚く低い雲が垂れこめている今日の天気は陰鬱である。しかしアジサイの花はこんな陰鬱な天気の方が、晴天よりなぜかさえている。このような暗い曇天ではあるけれども、アジサイの紫の色は、陰鬱の「陰」に沈んでいるのではなく「陽」にかがやいてみえる。アジサイは紫陽花と書く、まさにその名にふさわしい紫陽花である。

 境内にはこの地、土佐泊にかかわりのある紀貫之の歌碑がある。

 彼の日記「土佐日記」は高校の古典で必ず取り上げられるほど有名であるが、その1月29日の日記に、この土佐泊でのことが書かれている。土佐から都への帰りの海路の途中であるここに泊まり、下のような和歌を残している。
 
 境内の動画

 他にも訪れた史跡があるのですが、それはまた次回のブログで

2024年6月23日日曜日

6月の花 その1 ゆり

  吉野川市を流れる江川沿いにユリ園があり、さまざまなユリの品種の花が楽しめます。ユリの花は野生でも大輪で、薫り高いですが、鑑賞品種のユリの花はそれよりもまだ大きく、強い香りを漂わせています。(場所は吉野川高校のグランドと江川に挟まれたところで100m以上にわたってユリの花が見られます

 白ユリなどは日本より西洋で好まれるようです。清純で美しい乙女のなどのたとえによく引かれます。そういえば万葉集や古今集などではユリの花は他の花と比べると登場頻度はうんと少ない。しかし西洋では詩や歌に古来から多くよまれ、聖書にも出てきます。教会の祭壇に飾られるのも白いユリの花です。現在、欧米や教会で用いられる白ユリでもっとも需要の多いのは日本原産(沖縄地方)のテッポウユリとのこと、西洋の花の神髄と思われている白ユリが日本原産であったとは意外な気がします。

 ああ、それから、美人の形容で「立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花」というのがありますね。今回ユリの花のブログを書くにあたって、ネットで確かめると、確かに今は美人の形容で間違いないのですが、本来は(江戸時代)生薬(漢方)の用い方をたとえたものだそうです。だから昔は芍薬、牡丹とともに百合(球根)は薬に用いられていました。百合根は茶碗蒸しの底に入っているのを食べたことはあり、おいしかったですが、薬にも用いられているんですね。ちなみに百合根は心身症に効くとあります。



2024年6月15日土曜日

三ヶ寺歩いた

  昨日、三番~二番~一番の札所を歩いた。板野でバスを降りたのが午前11時ごろ、暑い中歩き始めた。休息時間をたっぷりとり、一番札所霊山寺を参拝し終わったのは午後三時前だった。

 本当は五ヶ所参りのつもりだった(5番~1番)、しかし寝過ごしてしまったので三ヶ寺にしたわけだが、終わった時の疲れ具合を考えると三ヶ寺にしてよかったと思う。昨日の暑い中、地蔵寺から霊山寺までの道のりは遠すぎる。おそらく途中でリタイヤしたと思う。

 平日でもあり、季節も暑くなったからだろう、参拝者も数少なだった。歩きの遍路とは途中だれも会わなかった。

三番金泉寺山門












二番極楽寺山門










一番霊山寺山門







2024年6月13日木曜日

いずれあやめかかきつばた

  ここ数日、6月のもっとも強い太陽が顔をだし、暑い日が続いている。たしか5日びゃぁまえに四国地方は梅雨入りしたはずだが、気かんきのお天道はんである、人間界の気象庁の梅雨入り宣言など知らん顔で、雨は土曜日くらいまでなさそうだ。

 梅雨の季節の花と言えば代表格はアジサイ花しょうぶだろう。一昨日、羽ノ浦に花しょうぶを見に行ってきた。何日か前にローカル紙にこの菖蒲園の写真が載っていたので思い立ったわけである。

 徳バスの羽ノ浦南で降りればすぐ菖蒲園である。写真から想像していたよりはずっと面積が小さく、ちょっとショボい感じがしないわけでもないが、見学者は私一人であったので、私のためにこのように咲いてくれた花しょうぶとみれば、わるくない花見であった。


 菖蒲は水生植物である。水がたっぷりのところを好む、湿地帯のような菖蒲園である。園地を通る歩道を臨時に設けているが、当然ながらビシャビシャである。黒のビニルシートで人の通る道を覆っているが水が染み出て靴を濡らす。


 黄色い花しょうぶもある。


動画

 ところでここは花しょうぶ園だが、よく似たというかほとんど区別のつきにくい花にアヤメとカキツバタがある。違いがわかる人はそういないだろう。ネットで調べると詳しく載っている。下のように見分けるそうだ。これは、わかりにくい!いずれ劣らぬ美女ぞろいのことを、見分けのつきにくいこれらの花にたとえて「いずれアヤメかカキツバタ」というのもいわれのあることである。


2024年6月10日月曜日

県境の眺めの良いホテル

  土曜日、鳴門北灘の眺めの良いホテルに泊まった。海に面した広大な山野にホテル本館、プール、ゴルフ場、ロッヂ(ゴルフ宿泊客が中心)、大浴場などの建物が点在する。それぞれかなりの距離があるのでそれらを結ぶホテル専用のバスが巡回している。

 泊ったのは本館で、夕食はその本館で鳴門産の素材を使った日本料理のコースを食べた。手の込んだ彩り豊かな料理が次々と運ばれてくる。一刻、豪奢な気分を味わえた。大浴場は本館からはかなり離れた場所にあるため、巡回バスを利用して、食事前と後、二度入りに行った。大浴場は小高い山の上にあり、眺めが素晴らしく、瀬戸の海、海岸に沿った小集落、そして遠くには讃岐の引田の町が見渡せた。

 朝食はバイキング形式にしたため(朝、和食、洋食を選択した場合は本館)翌朝、また巡回バスで今度はロッジに行って食べた(このロッジはゴルフの宿泊客が多い)。食堂の窓から見えるのは全面ゴルフ場である。早朝、小雨であるにも関わらず何人かのゴルファーがでてプレイをしているようだ(事前練習かもしれん、というのは聞くところによれば、この日は理事長杯の決勝日だそうだ

 かなり高級感のあるホテルであった。ここは会員制と聞いている。私だけだととても泊まれるホテルではない。だがいっしょに泊まった甥の勤め先が会員企業として登録しているので私も泊まれたのである。

本館の建物


本館の部屋からの眺め

2024年6月5日水曜日

神経痛かとおもったら・・

  5月26日に我拝師山奥の院へ参拝して10日たった。足の筋肉痛は数日でなくなり、くたびれも同じころ元にもどった。長引いていた足の親指が紫色になって傷んでいるのも、ようよう痛みが引き、回復に向かっている。

 ところが帰ってきた翌日くらいから右肩の前後、肩にかけて神経痛のような症状が出始めた(6月1日のブログにも書いている)。今も続いている。神経に沿ってピリピリ痛み、筋肉も痛い。だんだんひどくなって夜、眠りを妨げられるようにまでなった。痛み止めを飲めば痛みは抑えられるが、これがいつまで続くものか不安だ。去年左上腕部あたりの神経痛様の痛みは、なくなるのに二ヶ月もかかった。

 そして痛み初めて一週間くらいたった一昨日、右肩の腋の下あたりに何気に手をやると、発疹が多数できているようだ。下着をめくり、鏡で見ると、発疹があつまって数センチの長方形になっている。発疹は粟粒から米粒くらいのぶつぶつになり赤くなっている。

 「あ、こりゃぁ、帯状疱疹じゃわ!」

 なんで素人の私が、この症状で一発でわかったかというと、実は(帯状疱疹なら二度目である。30年ちかく前の45~6歳のころにかかったのである(今日受診の先生が言うには二度かかる人は珍しいとのこと)。その時は左腿に発疹ができ、腿から腰にかけてやはり神経痛様の痛みが出たのである。まだ四十代で神経痛様の痛みなど経験したこともなかった。なんの病気かわからず不安だった。内科の先生にみてもらったら帯状疱疹じゃ、といわれ、総合病院なのですぐ皮膚科にまわされ、そこで治療を受けた。と言っても内服の薬をのんだのと軟膏を塗っただけだった。いつくらいに治ったか記憶は定かでないが、多分一ヶ月もしない間におさまったと思う。

 だから発疹を見た時、帯状疱疹を確信した。それで今日、皮膚科を受診し、抗ウィルス剤帯状疱疹は水疱瘡と同じウィルス)と軟膏をもらってきた。これはしばらくたったら治るだろう。しかし持病もいくつかあるし高齢者でもある。またものぐさな独居老人の衣食住など考えると、かなり劣悪な生活習慣が身についている、また新しい病気を発症する可能性は今後次第に高まるだろう。新しい病気にかかるのはいややなぁ。ちゅうてもしゃぁないか。

2024年6月3日月曜日

三好市山城町に水車をみた

  まずこの動画の歌を聞いてください。

 懐かしい歌です。小学校の時に歌った記憶があります。そして歌いながらリアルにこの水車が働いているところをイメージしました。というのも私が小学校のころ近くの江川に小屋かけの水車が二基実際に動いて穀物などを脱穀したり精米していました。なんどか見に行きました。歌のように断続的に大きな音をたてていました。この歌の擬音は軽快な「コトコトコットン」でしたが、もっと迫力のある「ゴットン、ゴットン」という音がふさわしい気がしました。

 子どもでしたがその流水によって動くメカニズムに大変興味を覚えました。見た子供はみんなそのメカニズム(水車の機構)に引き付けられたんじゃないかな。電動モーターや石油発動機と違い、その機構は単純で小学生にでも理解できるものでした。クラスの中には夏休みの工作で木で小さな水車小屋を作った子もいました。水を垂らすと模型ではあったが水車の車輪が回り、小屋の小さな杵が臼を搗く仕組みになっていました。自分もこんなものが作れたらなぁと羨ましく思ったことを思い出します。

 この私のようにリアルで水車が働いているのを見た人はもう70歳をとうに過ぎていることでしょう。若い人の中には「いんや、ほんなことあれへん、いろいろな水車がうごっきょるのを見たことがあるわ」という人もおられるでしょうが、「リアルな水車の働き」ということに焦点をあてたばあい、動力として水車を使い、水車小屋の中で何かの仕事をさせる、というような水車は今はほぼ絶滅しました。若い人が見ているのはまず観光用とかアトラクションの水車とみていいでしょう。

 水車は結構古く、平安時代から作られ働かされていました。平安時代の水車は「揚水」、つまり水を川から高い位置に上げるために用いられたのが主でした。今、大河ドラマ「光る君へ」で平安絵巻がくりひろげられています。寝殿造りとともに広大な屋敷の泉水・池も出て来ますが、川から屋敷までの高低差があるにもかかわらず、その泉水・池に水が流れこんでいるのは「揚水水車」が使われ、水を上げているからでした。大河ドラマでは牛車大車輪は出てきますが、揚水水車の車輪はチラとも見ませんね、これからも出ないでしょう。でたらおもっしょいが、ドラマの筋と関係ないから無理だろな。さて、この時代の揚水水車は次のようなものと思われます(これは鎌倉時代の絵巻物・石山寺縁起絵巻より


 江戸期になると大車輪の動力水車がたくさん作られるようになります。脱穀精米以外にも手工業(酒造、窯業)、また例は少ないですが繊維業(織物、紡績)にも用いられています。こんなのを見ると江戸期は産業革命の前段階を順当に踏んでいるのじゃないかと思ってしまいますね。下は北斎富岳三十六景より、隠田の水車、大掛かりで水の量も多く、かなり大きな馬力が出たのではないでしょうか。


 4~5日前のローカル紙に山城町頼広の黒谷川・半田岩の水車小屋が載っていました(この付近はホタルの見学・観光で売り出しているので新聞掲載はその広報活動の一環だろう)。もちろんいわゆるリアルな水車小屋ではないが、新聞で山間のこの水車小屋を見た時、子供のころを思い出して懐かしくなり、昨日友人をさそい見に行ってきました。

 残念なことに数日前の大雨で樋の導水管がつまって少量の水しか落ちていないので水車の車輪は回っていなかった。



動画も撮りました

 

 帰りは県境に近いドライブインにより祖谷そば定食を食べました。窓からは大歩危渓谷が見え、真下には急流に乗り出そうとしている観光船下りの船も見えます(このドライブインが発船場です)。

2024年6月1日土曜日

(我拝師山)奥の院の現代の鳥瞰図と江戸期の絵地図をみてみる

  出釈迦寺の奥の院である我拝師山の禅定院(いわゆる奥の院とよばれる)に参拝登山して(5月26日)ほぼ一週間たつ。足の筋肉痛は消えたが、急坂を下るとき足の先端部の靴擦れにより、足の親指の爪をずいぶん痛めた。痛いだけでなく爪の下部組織が紫色になり、爪が剝がれかねないほどになっている。おまけに翌日から右の二の腕から背中上部にかけて神経痛のような痛みが走り(以前あらわれた神経痛様の痛みが解消するのに数か月かかったように)しばらく続きそうな予感がある。これも老体が無理をした結果かなと思っている。しかし、老体を酷使し体も少々痛めたが、山の霊気に触れ、奥の院に参拝できたことで満ち足りた気持ちになったし、また修行というにはおこがましいが、菅笠に示されている「同行二人」のようにお大師様とともに巡礼行ができたと思っている(同行のは、「路・みちく」「修行の」と一体である

 奥の院のある我拝師山は標高の高い山ではないが鳥瞰図を見てもわかるようにかなり険しい。また送電線やコンクリトの土木建造物などの人工物もないため、ちょっと上るだけで深山感があり、山岳修行の場としてはふさわしい。お大師様が幼少の砌、ここに上り捨身行を行ったのもなるほどと頷ける。

 出釈迦寺の方面からの奥の院鳥瞰図 左の高い方の山が我拝師山


 我拝師山を少し右のほうに回り込み、捨身ヶ嶽の崖を見る


 江戸期17世紀末元禄期出版の巡礼行記絵図の木版画より ここで「塔跡」と書かれているところが現在の奥の院場所、右下、水茎岡みずくきのおか)とある場所が、先のブログで西行庵と紹介したところ。


 19世紀初期享和年代1801~1804年)出版の巡礼行記の絵図より、江戸期も後になると前者の絵図よりずっと写実的になっている。左上の峰の少し右、鞍部に奥の院がある。よく見ると小さなお堂が描かれている。


 26日参拝を終え下山し、善通寺へ向かって数キロ歩いて、ふりかえって撮った我拝師山の写真、三つ見えている真ん中の山が我拝師山である。「えらかったけんど、また行きたぁ~い」