2024年5月4日土曜日

岡崎海岸から

  大昔、帆船しかなかった時代、本州から阿波への路(みち)は、できるだけ海路が短くなるようにたどるのが無難とされた。そらそうだろう、天候に左右され、海難の恐れも多分にある木造の帆船である。旅人もそれを望んだ。それでいうと阿波へのもっとも短い海路は明石海峡を渡り、淡路島の陸路をたどり、島の南端の福良から鳴門海峡を渡り、鳴門の岡崎海岸当たりに上陸するコースである。文字通り淡路島は阿波への通路、「阿波路島」(あわじしま)である。大昔の旅人は、できるだけ陸路をたどり歩くのである。歩きのみでは金はかからない。しかし舟を利用すれば船賃が入用になる。とくに路銀などない遍路や巡礼者は必要最低限の船旅しかしなかった。だから淡路島から漁船などの小舟をたのみ鳴門の岡崎あたりに上陸したのである。


 連休の今日、岡崎海岸は多くの人でにぎわっていたが、現在ここから淡路に向けての船の発着はない。しかし四国巡礼が盛んになる江戸中期以降ここ岡崎はその玄関口の役割を果たした。


 海岸から数百メートル進むと、このような石の道しるべが立っている。四国へんろ道と読める。このみちをたどり一番札所霊山寺へ向かうのである。


 四国へんろ道の道しるべは残っているが、もう今はここから四国へんろを始める人はいない。だが昭和60年ころまでは淡路の福良港とここ岡崎を結ぶ巡行船があった。ちいさなポンポン船で旅客と自転車しか乗せなかった。まだそのころはお遍路さんもこのコースをたどり八十八か所の打ち立てをここから始めた人もいた。遍路ばかりでなく無銭旅行に近い長旅をする貧乏学生もいた。そんなことを考えながら歩いていると70mくらいの高さの妙見山が迫ってきた。山上に公園があるので登ろうと登り口を探しているとこんな看板があった。


 もう廃業してずいぶんになると思うがなぜまだあるのかユースホステルの看板である。安く旅行をしたいと考えている昭和の若者が利用した格安の全国的な宿泊施設である。私も全国あちらこちらのユースホステルでよく宿泊した。右に見える手すりのある石段を上っていくと妙見山公園に行くが、途中廃墟になったユースホステルがあるはずだ。しかし草木がずいぶん生い茂っており見つけることはできなかった。山上には妙見神社があった。

2 件のコメント:

トナカイ さんのコメント...

結構、鳴門に頻繁に来られてるんですね・・・

yamasan さんのコメント...

>>トナカイさんへ

 今日は本当にありがとうございました。わざわざ案内してくれた感謝以上に、こんな世捨て人みたいなジジイの話を丁寧に聞いてくださって、会話できたことに喜んでいます。こんなに人と長く話したのは久しぶりです。楽しい時間でした。

 鳴門訪問はそう頻繁ではないです。最近は数年に一度かな。トナカイさんとの話の中に出てきたように、この時の鳴門の訪問は岡崎に上陸したお遍路さんの路をたどるというのがメインでした。今はこの道、ちょうど今日、米屋の前で別れましたね、その道ですが、これは「旧遍路道」です。そこを歩くのがこの時の最大のテーマでした。明治大正昭和初期の遍路道ですから100年も前でしょうか。大昔、業病(不治の病)を抱えた人、世から見捨てられた人、様々な人生の辛苦を抱えながら四国へんろで生を終えようと思い、この岡崎から四国へんろに歩いた人々、そんな人に思いをはせながらこの日は歩きました。

 このように歴史をたどりながら小旅行をするのが好きです。鳴門はこの阿波の国では一番に歴史的に見るべきところがたくさんあり、昔はよく来ていました。中世から江戸期にかけては瀬戸内海航路の舟、北前船で撫養はずいぶん繁盛していたようです。今日もお話ししたように妙見神社の石の鳥居にその証拠(北海道松前の商人の名)があります。

 あ、そうそう、この北前船で搬出した「三白」は、いま思い出しました、塩、小麦粉(うどん粉)、それと和三盆(白砂糖)でした、これは讃岐から阿波にかけて江戸後期には名産になります。

 中世の鳴門の湊の繫盛は、中世歌謡の「閑吟集」にこのような小唄として残っています。

♪~身は鳴門船かや 阿波で漕がるる

 中世から鳴門は商業で京阪の先進地と結びついて湊は栄えていたんでしょうね。これを書いた私のブログは下です、よかったら読んでみてください。

http://koromonotate.blogspot.com/2022/08/blog-post_31.html

 今日は本当にありがとうございました。