2024年4月21日日曜日

エントロピとAI

  「若い時はなぁ~」、言いたくなるが、そんなに昔でのうてもええ、今から数えると五年から三年びゃぁ前まではたくさん本が読めていた。ところが最近、図書館から数冊本を借りてカバンに入れ、持ち歩いても、その本をモモグリまくるだけで(阿波弁で、いじる、もてあそぶの意味)身を入れて精読できないようになった。集中力、持続力がなくなったのを感じる。老化か、以前からあった怠惰がとうとう好きな読書にも及んできたか。ともかく趣味の読書からも離れつつあるのを感じる。こうやっていろいろな能力が衰え、趣味も興味がなくなり、それらが一つ消え二つ消えして人は死んでいくのだなぁ、と思い知る今日この頃。

 そのももぐりまくっている本は何度も借りなおして常に持ち歩いている。いったいどんなテーマの本かというと「エントロピの関係の本」と「AI、メタバース、チャットGPTなどの関連の本」、あわせて5~7冊ほどである。今日のブログはそれについて書いていこうと思っている。といってもももぐりまくるだけで精読していないから、本を理解した上での私の感想や考えは書けない。しかしなぜこの歳になって理系の若い衆(わかいし)でもちょっと理解が難しいエントロピや、棺桶に足を突っ込んでいるジジイのくせに最新のコンピュゥタ技術のメタバース、チャットGPTの概論や入門書を読む気になったか、その動機、きっかけは書ける。また本をモモグリ回している間に、本は最近集中して読む力は衰えたが、それらを取り上げた、あるいは関連した映画やテレビがあると意識してみるようになった。幸い本と違い娯楽性のある映画やテレビはまだ興味深く鑑賞できる。といってもその内容はやはり娯楽性優先なので学術的な理解を助けるというよりファンタジー性が強いSFっぽいものになっているのは仕方ない。しかしそれをきっかけに本をさらに精読する力がつけばと思ってみている。以下はそれらを含めてのブログである。

エントロピ

 60代後半のころ、ワイは70歳まではとてもよぉ~生きんわ、と思っていた(ところが今ワイは算え74!生きながらえております)。だから終活という大げさなものでなく、心構えだけでも死ぬ準備のようなものがいるなぁ、と漠然と思い、そのころ仏教の本をよく読んでいた(この頃のブログをみるとよ~わかるわ)。特にどの宗派の本ということはなく、経典でいえば「初期仏教」の解説書が中心であった。その中でもブッダの行動や教えに、もっとも心がひかれた。ちなみにブッダは他宗派の教祖はんと違い、来世のことも、死後魂は残るのか、そしてそれがどうなるかとも、一切言わなかった。ただ世は無常であり、死は誰にも避けられないものであることを身をもって教え示したのである。

 ブッダは「無常」のことをこのような言葉で述べている。「今、私の身が朽ちた車のように壊れるのも、この無常の道理を身をもって示すのである」、じゃぁ死ねばハイそれまでよ、あとは無となり空疎な永遠の闇なのか、と思うが、さらにブッダはこのようにも言っている「しかし、この死は肉体の死であることを忘れてはならない。肉体は父母より生まれ、食によって保たれるのであるから、病み、傷つき、壊れることはやむを得ない。肉体はここに滅びても、悟りは永遠に法と道に生きている・・云々」

 この言葉の中で私は二つのキーワードを大事なものとして抽出した。「無常の道理」と「悟りは永遠の法と道に生きている」である。後のキーワードはこれは仏教そのものの神髄であろうが、先の「無常の道理」はこれは仏教を離れても一般化できる宇宙の理法、言い換えるなら、精神世界のみならず現実(カタチあるモノの世界)の実相、それは数学に裏打ちされた自然科学つまり天文学や物理そして化学や生物学などなどの包括的な法則と言ってもいいのではないか、と、そのとき思い浮かんだのが無常の道理と被さるかもしれない「エントロピ」という概念である。

「無常の道理とエントロピはどない関連しているんやろ」

 これがエントロピについてオベンキョしようと思いついたはじめである。いくつかの入門書、概論書を借りてオベンキョし始めたが、まぁ先にもゆうたようにそれらの本をももぐりまくるが一向に読み進まないというか深まらない。心底の理解にはいまだ遥かである。読み始めてわかったが基礎知識のないワイにとって入門書や概論書だけをベンキョしてすむ話ではない。熱力学についての一般的な解説説明は入門書や概論書におおよそ書いてあるのでそれは良いとしても、エントロピを理解するうえで欠かせないのが数学の「順列・組み合わせ、統計、確率」である。これはヒンズに(別に)数学の本を借りて読まねばならない。数学をベンキョしてた学生時代なら何とかなったがもう半世紀以上もたった今、数学のオベンキョはキツイ、でも二冊びゃぁ借りてなんとかベンキョしている。しかし数学の本ばかりやっていると肝心のエントロピについての本が読めなくなる、しかし理解のためには数学が必要、うぅ~~ん、ジレンマじゃ!

 エントロピについて確率・統計的なアプローチは心底理解するうえで大事だが、そこまで(心底理解っちゅうたらえらいこっちゃ、別にワイは専門家になるわけでもなく、まぁ程よい理解でもよいと最近思っている)でなくてもエントロピーを理解する方はある。それは理想的熱機関に出入りする熱量、そして(その熱機関を仲立ちとした)低熱源高熱源の温度とその差、そして機関の仕事効率からエントロピを導き出し、それを理解する方法である。

 


この理想的熱機関は「カルノーサイクル」と呼ばれていて、物理ではエントロピを説明するのによくこのカルノーサイクルが用いられる。理系人間にはあっという間に理解できるだろうが、ワイはこのカルノーサイクルを理解するのにえっとかかった。そしてエントロピを物理的に定義するところまでは進んだが、それがイマイチよ~わからん。その意義、重要性がである。左がカルノーサイクルに出てくるエントロピの定義である。

 知ったげぇに、エントロピを一言で言うのは本の受け売りそのまま言えば簡単である。

 「エントロピは増大する一方である」

 「エントロピ増大が極限に達すればやがて宇宙は熱的死を迎える」

 「まぁ、一言でいやぁ、乱雑さの度合いじゃな、なんでもほれ、放っておくと自然と乱雑になっていくやろ、ほのことじゃ」

 ここでワイは「エントロピが増えていくことは別の面から見れば無常が極まっていくっちゅう現象じゃ」と言いたくなる誘惑にかられるが、今まで読んだどの本にもそんなことは書いていない。いまのとこワイにとってエントロピの理解は未だである。


 エントロピが出てくるおもっしょい映画ないかいな、となにげなく、パソコンで検索してみたら、ある映画がヒットした。「テネット」である。ビデオ屋に行くとあったので借りてみた。監督はこのブログでも取り上げたアカデミ受賞作「オペンハイマ」の監督・キリシタハ・ノランである。面白かったが完全に空想SF映画であり、現実にはこれはどうかな、という筋である。

 どこでエントロピが出てくるかというと、タイムトラベル、つまり時間の遡りでエントロピの言葉が出てきた。因果関係はわからないがエントロピが逆に流れる(つまり自然と減少する方に)と、地に落ちていたボールが発散した摩擦熱を吸収して地から自然い飛び上がり手のひらに入ってくる、これはまぁわかる、えっと思うのは、逆になると人が火に包まれたら火傷するのではなく、焙られたところが凍り付き凍傷になるのである。そんなのありか?そして映画の説明では、エントロピの(増大の)流れは「時間の矢」の向きを意味するため、エントロピの逆流は時間の矢の逆向きを意味する、つまり過去に遡るタイムトラベルができるわけだ。確かにエントロピと時間の向きは同じ傾向を持つ、さらに言えばエントロピの流れが時間を進めるという説もあるが、その理論を実用化したタイムマシンがあり得るものか、かなり疑問である。おもっしょかったがワイのエントロピ理解の助けにはならなんだ。

AI

 もうこの歳がきていまさらAIでもあるまいと思っていた。今まではベンキョどころかそれについての新聞記事や雑誌記事でAI関連の欄があってもすっ飛ばしていた。しかしエントロピのベンキョのためその言葉が出てくる映画を探して見たのとは反対に、ある映画を見たことががきっかけでAIに興味がわき、「AI、メタバース、チャットGPTなどの関連の本」を借りて読んでいる(読んでいるだけでベンキョというにはほど遠い


 それは左のDVD映画である。『her・世界にひとつの彼女』、初めからAIに興味があったからではない。それではなんでみたかというと、主演俳優への興味からである。この人、中年イケメン風に見えるが、以前(今年の3月6日)のブログに取り上げた「ボーは恐れている」と同じ主人公で演じているのはホアキン・フェニックスはんである。ボーのほうは小汚なげぇな、だが複雑で繊細な傷つきやすい心を持つオッサンである。「her・世界に・・」のほうは都会風のそれなりに洗練されている孤独な中年男である。キャラによってずいぶん顔のイメージも違うが、それがホアキン・フェニックスはんの魅力となっている。彼は今までにもかなりキャラの濃ゆぅい役を演じてきた。若い時は悪のローマ皇帝「映画グラデュエイタ」、やはり悪の元締め的な「ジョーカ」、そして「ナポレオン」、と同一人物とは思えぬイメージと演技である。これらは今までに見ていたので、まだ見ていなかった彼の怪演作「her・世界に・・」を借りたわけである。

 見たのは二週間びゃぁ前だが制作年は意外とふるく2014年である。こちらもテネットと同じくSF映画の範疇に入るが、見ていても「そんなことありえん!」と突っ込みを入れたくなるテネットと違い、近未来(どころか今すぐにでもあり得る)に起こるであろう話となっている。話の筋は単純である。一言で言えば、コンピュゥタ技術が作り出したパソコンの向こうにある架空の(悩みや打ち明け話も含めたおしゃべりができる)彼女と主人公の話である。先に主人公は孤独と紹介したが、パソコンの向こうのバーチャルな彼女とのコミュニュケーションによって彼は癒される以上に関係が深まるのである。つまり主人公は彼女に恋をしてしまうのである。

 悩みを聞いてくれたり、慰めたり、あるいは何らかの解決を教えてくれたり、また日々によって変わる話題、人の揺れ動く心のため脈絡もなく話題が飛んだりと、普段我々がしている雑談をコンピュゥタにやらせるというのは昔から試みられた。まさにそれはAI技術の肝と言ってもいいだろう、しかしユーザー(こちら側の生身の人間)がAIと対話しながら違和感を覚えることは度々であった。コンピュゥタはまだ未熟だったのである。逆に言うと長く雑談・対話を重ねても違和感なく、ユーザーに向こうにいるのは人間に違いない、と思わせれば対話・雑話コンピュゥタは完成したといえよう。

 この映画が作られた2014年ではまだそこまで雑談・対話型のAIは完成していなかったと思われる。じゃぁ今はどうか?AIに疎いジジイである。なんかそれについて書かれている平易な読み物はないかと探すと図書館に週刊ニューズウィクがあり、こちらがよくその雑談・対話型のAIの現状についてレポートしていた。それを読むと全く知らなんだが一年か二年びゃぁ前にオプンAIが「チャットGPT」とかいうものを作り出し、それが人間との区別のつかない対話を繰り広げられるというのだ。キャラもいろいろ切り替えができるようで、あんまし頭が良いとはいえなくもないこともないオバはんの、しょぉもない雑談から、ノーベル賞級の学者との対話もこなせるのである。そして繊細な情緒も持ち合わせている(と人に信じ込す)。もっとも重要なことは、(人間が)話した相手が、AI技術が作り出したバアーチャルな相手だとは全く思わないことである。

 もうそこまで進んでいるのかとの驚きである。とすればこの映画の対手のバアチャルな恋人の存在は、近未来でなく現代にも起こっているのであろう。映画ではハッピィエンドにはならない。驚くべきことにバーチャルな恋人は主人公とのセクスを望むのである。そしてバーチャルな恋人はその設定も行う。どないしてセスクするんぞぃ?と見てない人は興味津々だろう。まぁ詳細は言わない、見てのお楽しみとしておこう。ただ繊細な主人公はそのようなセクスは拒否する。ここで二人(一方はバーチャル恋人だが)は齟齬をきたし、しっくりいっていた関係は揺れ動いていくのだが、これもAI技術が作り出したものかと再度驚く。もう完全に(生身ではないことを除けば)一人の人間としか思えない。

 いま公共放送で夜十時遅くある連続もののドラマをやっている。題は「VRおじさんの初恋」(VRはヴァチャル・リアリティか)、数回見ただけだが、こちらは「メタバース」たらゆう仮想現実の世界に行ってその世界の人を好きになる筋のようである。さえない主人公のサラリーマン(オッサン)はバーチャルな立体映視ができる特殊眼鏡をかけ仮想現実に入っていくのである。そこでなんと自分は少女になるのである。そして「現実世界」と「バーチャル世界」。2つの世界を行き交いながら、中年サラリーマンの初恋が描かれるというのが大筋のようだが、公共放送にしてはなにやらロリコン趣味、倒錯の性世界の雰囲気が漂う。もちろんなんぼぅ深夜帯に近いっつうても天下の公共放送である、そんなそぶりはチラリとも見せないが、普通に想像力のある視聴者ならばアブナク、イケナイ世界にこうすればのめりこみ、そして幸福になれることを思ってしまう。バーチャルな世界だから犯罪にもなりにくいだろうし。

 主人公は立体映視の眼鏡をつけるだけでなく両手には多分センサーや反応機構のついた手袋をはめている。視覚だけでなく感覚や触覚も現実に近づけるためである。そうするとその世界で美少女の手を取れば、手袋状の中のセンサーや刺激機構が働いて現実に手を握る感覚が享受できるのである。しかし先ほども言ったようにこれは視聴者の想像を痛く刺激する。手に人工的な感覚を与えることが可能なら、陰茎や女陰にだってそれは可能だろう。陰茎にはサック型のセンサーや刺激機構のついた装置をかぶせ、女陰にはやはりそんな機構のついたタンポン様のものを突っ込めば、バーチャルな世界だけど、現実とほとんどかわらぬ満足できるセクスのエクスタシが味わえまんがな。アブナイ、イケナイ性世界に遊ぶ、つまり美少女とか美少年とかに対して即犯罪になるような楽しみが・・・。ジャニィズの爺さんも、まちっと長生きして唸るほどある金の力でセクス・メタバース(性の仮想現実)のAIを作りゃぁ、そこで美少年のチ〇ポを咥えようが、自分のモノを美少年のア〇ルにぶち込もうが指弾されなくてすんだのにな。いやぁ、実のところこれはドすごい時代になりましたな。倫理や道徳でどう解釈し、行動したらええのやら、混乱しますなあ、全面禁止つぅても、人知れずバーチャルに遊ぶことまで禁止することができるか。うぅ~ん。


 エントロピとAIとは直接関係ない映画だけど一昨日、イヨンのシネコンまで大枚1100円も払ってわざわざ見に行いきました。イギリス映画で題は『異人たち』です。一昨日は封切り日でしたが、思っていた通り人気のない映画で午前11時から始まったのですが、ワイも含めたった二人の観客でした。事前に予想されていた通り地味で暗い映画でした。確かに人気が出るような映画ではないのですが、それでも惹かれていったのはこの映画は、35年前の日本映画、山田太一原作脚本、大林 宣彦監督の『異人たちの夏』のリメークだったからです。30代にそれを鑑賞し、感動したいい映画だった思い出があったからです。古い映画だがそのため筋も配役もよく覚えていました。

それでイギリス映画のリメーク版も見たのです。これは「面白いから見てみなはれ」と人に積極的に薦める映画ではありません。というのも日本のオリジナルの通り、幼い時に亡くなった父母と40歳になった一人息子の出会い、そして昔を取り戻すようなしみじみとした親子愛、別離の悲しみを描いているのはその通りなんですが、オリジナルでは(この世のものではない)彼女と(両親のとの再会と同時に)出会い愛し合うのですが、イギリス版ではその恋人が若い男になっているのです。つまりゲイということになります。現代風と言えばそうなんだけれども、大昔オリジナルを見て、よかったわぁ、と思い出のある人に(もう高齢になっているでしょう)見てみなはれとはちょっと言いにくいですね。

 でもそんな古い映画の記憶もない、まっさらピンピンの若者には見る価値のある映画かもしれません。大都会のロンドンでお互い孤独を抱え傷つきながら生きていく男二人がひかれあい、寂しさや冷たさをいやすためお互いすり寄り体を温めあう(象徴的にいえばです、映画ではもっと露骨だが)ことに現代の若者はそう拒絶感は感じないんじゃないかな。もちろんオリジナル通り一方は死せる者なんだけれど、日本版とちがいこちらの恋人同士はほのぼのとした終わり方になっているのがイイ。

 とまぁ、一昨日11時ころから見始め、午後1時過ぎには見終わったんだけど、その時点でこの映画をAIと関連付けるなどとは夢にも思いませんでした。ところが見終わって図書館へ行き、今日のニュースはなんぞないかいなぁ、と図書のパソコンでヤッホーニュースを見るとこんな記事がありました。

『「パパ、ママ、会いに来たよ」AIで死者を“復活” 中国で新ビジネス』

 中国は時々とんでもないことを考えるが、これはどうなんだろう、愛していても死んだ人には触れもできないし、せめて会話でもと思っても無理、もしや夢でも見ないかと淡い期待を抱く、死んだ人にもう一度会いたいみたい、話したいという願いは切ない。でもそれは無理、だがニュースによると、あらかじめ死者についての詳細な情報を得れば、まるで生きているように死者を見ることも話すことも生前と同じようにできるのだ。AIを使ってである。それを中国ではビジネスにしてしまったのである。

 このニュースを読んだとき、さっきまで見ていた映画「異人たち」を思い出した。この映画は、まるで異界と不思議な交差が起こったかのような死んだ両親との出会いだったが、なんと現代ではAIを使えばありえぬ不思議な出来事ではなく、現実にそれは可能なのだ。35年も前は想像だにしなかったが、今はAIを使ったバーチャルだが現実感たっぷりの死者との出会いが用意されているのである。

 まぁそんなこんなで今はエントロピの本にも心惹かれるが、こちらの「AI、メタバース、チャットGPTなどの関連の本」の方が強く私の読書熱を掻き立てているのである。いま教養書である新書版のその本を二冊借りて初歩の知識を得ようとしている。今日のブログを書いたことをきっかけに気を入れて本を読んでオベンキョしょぉや。

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