2023年9月4日月曜日

大昔の巡礼遍路の移動手段あれこれ

 大正時代の風俗としての遍路・巡礼の姿が当時の新聞漫画に載っていた。下のようなものである。


 大正時代ともなると遍路・巡礼に汽車やあるいは自動車を移動手段として使う人もいたが、この時代でも主は「歩き」である。これは古代、中世も同じである。上の漫画でも大半の人は「歩き」であるが、車に乗って移動している人もいる。歩くより楽ちんだろうな、と思うが、そう単純なものではない。現代は遍路・巡礼する人は健康体、少なくとも歩きが苦にならない人が行っている。

 しかし大昔はそうではない人も多かった。治らない病を神仏に頼って治したいと願い巡礼遍路をする人もいたのである。当然四肢の不自由な人もいたためその人は「車」に乗って移動しなければならなかったのである。車と言っても箱に輪を付けた簡単なもので、介添え人に押すか牽いてもらう、あるいは手の自由がきく人は杖で地面を押し自ら車を動かす人もいた。上図右下の車の人は介添え人に牽いてもらっている。また足が不自由でも車に頼らずに上図の右上の人のように両手に履物を履き、いざりながら移動した人もいた。

 牽くあるいは押す車に乗って巡礼遍路する人は中世からいた。中世文学の説教節で有名な「小栗判官」の主人公は、四肢が動かぬ業病を紀州熊野の霊湯に浸かって癒すため、関東からいざり車にのって熊野までいくのである。下図は小栗判官がいざり車にのり、牽いてもらっているところ。


 足が不自由でも車を使わない人は手でいざりながら移動した。13世紀に作られた一遍上人絵伝の中には下図のように両手に履物を履きいざりながら移動する人がいる。


 また上図の大正時代遍路遍路風俗漫画の中に車輪付きの小屋の中にいる人が描かれている。車が移動手段仮寝の小屋ともなっている。これも中世から見られる。やはり一遍上人絵伝の中に同じものがある。下図がそれである。これなどをみると足が不自由だからというのではなく、仮寝の小屋が移動できるというメリットのため使っているのではないだろうか。どこまで長距離移動できるか、移動中壊れないかが気になるところだが、これらの人々は、だいたい寺社の門前で居る(乞食が生活手段であることが推測される)、そのため一つの寺社で長期滞在し、それから隣の寺社までゆっくり移動するため、このような車付き仮寝小屋でも十分な実用性はあったのだろう。


   中世から普通に歩けない人でもこのような手段で巡礼遍路(中世では遊行とも)を行ったのである。中には稀だが夫が動けない妻を、あるいは子が歩けない親を負ぶって歩くというケースもあった。

 そのほか、中世においても、巡礼のコースにもよるが、健脚の人でも歩かなくて楽できる移動手段があった。それは舟による移動である。紀州熊野の巡礼者は本宮から新宮へ向かうのは川下り舟を利用する人が多かった。四国巡礼でも高知の一部では船が利用された。下図は一遍上人絵伝の中の舟下りの図である。乗っている人は熊野詣の巡礼者である。


 大昔だからと言って歩いている人ばかりではなかったのである。

1 件のコメント:

Teruyuki Arashi さんのコメント...

お遍路は、歩きで回るのが本当でしょうが、体力が続くかどうか?船、バス、バイク、自転車、タクシー、バスを使う人が多いのでしょうか?