2023年7月29日土曜日

このごろ読んでいる本

  歳とともに体の不調がアッチャコッチャに表れ、しだいに増してくるのは仕方ない。生まれて72年間、「不摂生な!」と思われることをさんざんやってきたので、日本人の男子の平均寿命、あるいはそれより五年びゃぁ短い平均健康年齢(言い換えれば、自分で自由に歩けて行動できる、糞屎(ふんし)を自分で始末できる平均年齢)より短くったって、そりゃ、自業自得と思わなしゃぁない。

 しかし、オツム(脳の精神状態)が衰え、ぶっ壊れてくるのは正直勘弁してほしい。万物の霊長といわれる人間でも、心身はお互い切り離すことが出来ずに緊密に結び合っている所詮は「生き物」である。(しん)の衰えは即の衰えであることは自明である。だが、若いうちはそうは思わなかった。やがて老衰が来て、死を迎えることまでは予測できたが、それは体の衰えだけで、なぜか(根拠なく)頭のほうは歳ぃいっても、たとえ死ぬ間際でも、充分働いていると思っていた。

 最近、以前読んでいた昭和の文豪の本をまた読んだ。ハードカバーの文学本で「武田麟太郎・島木健作・織田作之助」の三人の作品集である。この三人、40歳になるやならずで病死している、二人は結核、一人は肝硬変で病死とある。戦前の文学者で結核死は他にも多い。それぞれの年譜を読むと、結核死の直前まで創作活動、いいかえると活発な精神的活動をしているのである。若いときにこれらの夭折した文豪の文学史を勉強していると、人間、死ぬ間際まで結構な精神活動ができるもんじゃなぁ、と思い込んでいた。しかし、それは死病にとりつかれても若さがあり、また結核という病気の性質にもいくぶんか理由があったからだろう、死の直前まで精神的な活動ができたのである。これは今から考えるとそういった誤解から、人は老衰し、病気もするが、心のほうは昔のままの心が続いていくとなんとなく思っていた。だが自分が70歳を過ぎて、身とともまた心も衰えることを、この歳になってまさに身をもって知ることになった。

 そうなるとワイ、今、72歳と半歳。心の衰亡をなんとかせにゃならない。なんとかといっても衰えるのはしゃぁない、と開き直りもできるが、心(脳といってもいいだろう)は不思議なもので、身よりずっと自由度が高く、可塑性もある。老朽な心身を持つ古希のジジイでも、いわゆる「心の持ちよう」によって、ある程度の精神の老衰は免れぬにしても、歳なりに満足のいく精神活動も続けられるのではないかと思う。ではその「心の持ちよう」をどないにするん?ちゅうことになろう。これについては「70歳を過ぎてからの・・・ナンチャラ」という表題の老人向け啓発本がたくさん出ているが、わたしゃぁ読まない!結局は自分の人生であり、貴重な余命の過ごし方である。自分で見つけ、自分に合った方法でやらなければならないと思っている。

 一般的な精神強化法方法として「禅」とか「瞑想法」によって精神を集中するのがあるが、わたしにゃぁどうも馴染まない。できるのは、歳ぃいくとボンヤリする時間が多くなり、(頭の)だらけが進んでくるので、そんな時間を無くし、とはいえ、脳のお休みタイムはしっかりとる、しかし頭を働かせるときはしっかりと働かせる、つまり精神的なメリハリをきちんとつけることだろうか。

 「頭を働かせる」っつぅたって、生まれてからこの歳まで、夢想的で現実離れしたことに頭を働かせることが多かったので、今更、現実と無理に関わって頭なんぞ働かしとぅない。やはり採り慣れた手段、しっかりと頭に浮かんだ主題や観念について考えをめぐらす(往々にして夢想となる)。また読書を通じて考える、考えたことを文章にしてみる(コレかなり頭使いまっせ)、が思いつく。

 特に「読書」については若いときから思い込みがあり、多種の本を多読するとなんか頭がいまイッチョ良くなる気がしていた。ジャンルにもよるが数学、自然科学系の本などは科学の知識が増えるし、小説や人文科学系の本は、一度しか送れぬ人生でありながら、それを読むことにより多様な人生の経験の一部を追体験できる。また社会科学系の本は、新聞やテレビで見る世相の分析に資するものがある。

 しかしいつ死ぬやらわからん今日この頃(?)、数学や自然科学、社会科学の知識はもうエエ、やはり高齢者にふさわしい本を読みたい。歳ぃ行くとド忘れ、物忘れがだんだん進んでいくので、消えて行っきょる「言葉」「言語」を取り戻したいので、漢字、あるいは語彙の再確認ということで漢文の本(難しい漢字が多出する)、英文の本(英語の語彙が最近、頭からずいぶん消失したのでそれを再び取り返す)を読み進めている。知識はこの歳になるともうエエといったが、語彙・言葉・言い回しなどの知識は、忘れつつあるのをもう一度取り返すということで、今でも本を読んで吸収したい。なにせ脳の精神活動の基盤は言語にあるからなぁ、言語は大切。あとは楽しめる小説かな、小説も若いとき読んだのを今になって複数回読んでいる傾向がある。

 英文は今、英語の小説一本と四国遍路に関する英語本を用意しているが鞄にいれて持ち歩いているだけでなかなか読み進めない。あと英訳の「新約聖書」も一本、中の黙示録の辺りはおもしろそうだがコレも家に置いてあるだけで読み進めていない。英訳世界史はなんとか読み終えた。ボチボチでも読み進めているのが漢文の本、私の場合はその漢文本の中でも特に「仏典」を選択した。


 今、鞄に入れて持ち歩いているの仏典本は『般若心経秘鍵』である。これは弘法大師が密教の立場から般若心経について読み解き、書いた本である。その般若心経(以下、心経と書く)は玄奘三蔵がインドから原典を持ち帰り漢語に訳した文字数(漢字)わずか262文字の小さなお経である。小さなお経ではあるが、これは600巻にも及ぶ「大般若経」経典群のエッセンス(神髄・本質)をまとめた価値のあるお経と言われている。短いため誰でも(文字を知らない人でも)音読をソラで覚えて唱えることができもっともポピュラーなお経である。ここ四国ではお寺ばかりでなく、神社でとなえる人もいる。音読をきいても何が何やらチンプンカンプンであるが、内容がわからなくても、むしろ呪文のようにその効き目を信じている。心経を覚えてとなえようとする人にとっては、ありがたいお経である。

 しかし心経の再末尾の部分は梵語からきている呪文であるが(ギャァテイギャァテイ・・)、そのほかの部分は漢文であり、読み下しにして、漢文の要領で読めば理解の助けになる。なるほど読み下しにすればどのようなことを述べているのかわかるが、それは述べているのがわかるだけで、内容の深い理解と把握にはとても到達できない。専門的な仏教用語も多出していて、その意味を知るのでも大変だが、心経では、その専門用語も含め、これも「空」、あれも「空」、空、空、空、と空が続く、これだけ何も彼も空と断じていくと、私が文章を読むときに行っている逐次的な理解がまさに「空」(むな)しくなってくる。なにが言いたいのかというと、要するに「難しぅてわからん」、「空っていったいなんぞ」ちゅうこつである。

 この歳まで、読み下しにした心経の漢文を理解しようとしてきた。理解を助けるために僧侶や仏教学者の書いた「般若心経の意味について」という新書本を何冊も読んだが、満足のいく理解は得られなかった。まずもって著者によって「空」の説明が違っているのである。そこで最近では、今風に書かれた心経の説明本を読むのはやめ、お釈迦様と同じように信仰の対象となっているお大師さん(空海)の書いた、それこそお経のような著作の一つ『般若心経秘鍵』(もちろん漢文)を読んでいる。四国では空海さんは真言宗の開祖といってもいい方で、各種仏像と同じように弘法大師の石仏が作られまつられている。般若心経秘鍵は当時の貴族や天皇が心経を理解するのを助けるために書かれたものであるが、1200年たち空海はんがお大師さんとして信仰の対象になった今、心経と同列の「お経」の一つとしてこれを読んでもいいのではないかと思っている。

 そもそもの心経は7世紀、あの三蔵法師はんが訳したもので、もしかすると「空」やそのほかの「宗教用語」の意味が空海はんの書いた般若心経秘鍵と違っているかもしれない。それは空海さんは真言密教の立場から心経の説明をされているのであるから当然である。弘法大師が信仰される今、四国札所や密教寺院で必ずと言っていいほどとなえられる般若心経を読み解くことは、般若心経秘鍵を読み解くことと同じであると考えている。

 それで「般若心経秘鍵」を読んでいる。原文(読み下し漢文)と現代語訳を参照しながら読み進んでいる、これも相当むつかしい、しかしこの般若心経秘鍵は、当時の平安貴族に空海さんが心経の意味をかみ砕いて漢文で説明しているので、そのむつかしさは心経とは質が違っている。時間をかければなんとか読めそうである。

1 件のコメント:

Teruyuki Arashi さんのコメント...

やまさんて、信仰心が深いので、いつも心が落ち着いていますね。最近、国民年金の免除申請が認められませんという通知が来ました。やまさんに人生の生き方を指南してほしいです。