2021年9月29日水曜日

ちょっと弱音を吐かせてもらいます

 華厳教に「すべては(仏も含め)人の心が作り出すものである」とある。華厳経の「唯心偈」というのが同様のことを言っているのであながち的外れなものではないだろう。なるほど辞世の句などを見ると「・・一生は夢幻の・・云々カンヌン」などというものが有名なものだけでも複数句あるから、そのようにとらえている人もいるのだろう。

 しかし入院して手術後の耐えられない痛みに呻吟していた時、このなんとも耐えられない痛みは、妙な理屈かもしれないが、現実根ざして人は生きているんだ、という実感を呼び起こす。そうでなければこんなやるせない死んだほいがましだとも思わせるような痛みが、自分の内奥から沸き起こってくるはずはないと思ったりする。

 デカルトは「我考う、故に我あり」とほとんど悟りのような絶対「我」にたどり着いたが、無慈悲に沸き起こってくる痛みも、デカルトに劣らず、「激痛あり、故に我あり」の感を強くし、激痛を乗り越えるのも(乗り越えられないかもしれないが・・)その先にある「死」も夢幻ではない「我」を強く感じさせる。

  幸い退院して今は比較的安穏な日々を送っているが、いわゆる「睡眠障害」はずっと続いている、全然眠られないというのではない、寝ても眠りは浅く、すぐ忘れ思い出せないが、不快な(目覚めの気分が悪くなるような)とりとめもない夢をたくさん見る。前立腺の病気があるので小便に何度も起きるから、浅い眠り、不快な夢は、とぎれとぎれにずっと続いて朝を迎えるが、4時過ぎると寝れないので、精神安定剤を一錠その時間帯にだいたい服用する、そうすると明るくなって最後の目覚めが来る。

 当然朝は気分がすごく悪い(落ち込むなどとはまだ生易しい表現である)、体調もどん底のようである、こんなときは死にに向かいつつある自分を実存的に実感する、といってもこの感覚、70歳を過ぎた多病の爺でなければわからない、このような「死に向かいつつある自分を実存的に実感する」というのはそのような歳になって体験でもしてもらわなければ説明のしようがない。

 日々充実して楽しく過ごせればいいんだが、歳ぃいくと楽しみもなくなる、というか何をやってもそう楽しくないようになる、その中でも比較的自分の趣味に合った楽しみ娯楽、読書などに時間を割いているが、それも年々歳歳、読解も理解も浅くなり、高度なことは考えられなくなり、ぼんやりとほぼ空白な時を過ごすことが多くなっている。歳ぃ行くということはそうゆうことだな、と諦めな仕方ないが、それでも私のような貧なジジイと富裕なジジイとでは歳ぃいっても幸福度がちがう。金で老衰や死をあがなうことはできなくてもやはり金の力は歳ぃ行ってからの満足度、満ち足りた思いに対する影響は大きい。貧ではあっても家族に囲まれていればなかなか金ではあがなえない喜びを得ることができるが、独居老人でもあり「こなきジジイ」の私はそんな喜びもない。 

  週の初め札所4番の「大日寺」へ行った、真から信心しているとはいいがたいが若い時からお寺や神社は好きである。趣味の一つとしてこれからも足腰がたつうちはあちらこちらの神社仏閣に詣でたい。


 青不動


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