2021年6月27日日曜日

二つの涅槃経


上図は京都泉涌寺所蔵の涅槃図である

  極めて出会い難いことの例えをご存知だろうか?ある程度年配の人は聞かれたことがあるかもしれない。おそらくかなり古い時代劇、あるいは歌舞伎などの台詞で。シュチェイションは、巡り巡ってようやと、仇の相手を探し当てた敵討が仇に言う前台詞である。このようなものであることが多い。

 「盲亀の浮木、優曇華の花ぁ~、艱難辛苦の甲斐あって、ここであったが百年目、いざ、尋常に勝負!勝負ぅぅぅ~~~~!」

 聞いたことはあっても、この台詞の前半の意味はわかり難い。これは仏教から来ている引用である。「盲亀の浮木」次のような意味である。大海に住むウミガメがいる。その亀さん目が見えない。その亀がごくたまに海面にポッカリ顔を出す(数百年といわれる、息継ぎはどないすんねん、と心配だがおそらく仏教の説話に出てくる亀さんだから神亀なんだろう)。これとは別に大海には一片の流木が浮いている(浮木)その木片に小さな穴が開いて裏表に抜けている(ちょうど名簿の木の板にフックにかける穴が開いているようなものか)、流木だから大海のどこに漂うかもわからない。その大海で稀にしか頭を出さないしかも目の見えない亀がそのたった一片の木片に出会うのはもう不可能であるといってもいいくらいの確率の低さである。ましてやその亀の頭がその木片の穴に浮上した瞬間に突き抜けるのである。もう無限に近いくらい亀さんは浮上しなければそんなこと起こる筈もない(一度浮上したら次は百年後!)つまりこれは極めて起こりにくいことの例えである。次の「優曇華の花」もごくまれにしか咲かぬ花(数千年に一回と伝説で言われる)であり、これも起こりがたいことの例えである。前記の敵討ちの台詞、この言葉で敵討ちに極めて幸運にも出会ったことを言い表しているのである。

 仏典では、我々生き物(有情)が「仏の教え」に出会うことの難しさを「盲木の浮木」というたとえで示している。仏教的宇宙観では宇宙の生成から消滅まで「一劫」と数える(現代宇宙論ではどれくらいの長さだろうかおそらく数百億、あるいは数千億年か)、仏教的宇宙論では宇宙は生成~消滅を繰り返す、それが何十、何百と繰り返され、その中で「仏の教え」に出会うのはたった一回であるという。その極めて出会い難い仏の教えとの邂逅を「盲木の浮木」を例としているのである。またそうなることが極めて難しいのは「仏の教え」との邂逅以外にもある、と仏典は言っている。それは我々が人間として生まれたたことである。仏教では「有情」(生き物)は永遠に輪廻転生を繰り返す。前世の「業」に引かれさまざまな生き物に生まれ変わり転生していく。その中で難しいのは「人間に生まれること」である。仏典に

 「受けがたきは人身(ニンジンと読む)と知れ!」

 とある。若い時仏教系大学の通信教育をしていたが、その大学から送られてくる「月報誌」の見開きに上記のフレーズが書かれていた。その時は、いったいなんのこっちゃ?と理解できなかったがその後、専攻は日本史であったが仏教の概論や仏教入門書をいくつか読んでようやとわかった。煩悩から脱せず、悪業を積み重ねるワイら、たまたま前世でそうなる因縁でせっかく人間として生まれてものんべんだらりと過ごしていて果たして来世は?その戒めとして上記の「受けがたきは人身(ニンジンと読む)と知れ!」が言われるのである。

 動物の中では最上の知能ある「万物の霊長」として人に生まれたのであるから、なんとか良い「業」を積んで次回も少なくとも人間に生まれたい、と願うのが普通である。餓鬼道や畜生道(悪道)には落ちたくない。でも良い「業」とはなんだろう?それがわからず悪道に生まれ変わり転生を繰り返すのである。しかし「盲亀の浮木」といわれるようにあり得ない確率ながら、我々の(生成消滅を繰り返すこの宇宙)にブッダがたまたま現れた。ブッダは二千数百年前に亡くなったがまだ「仏の教え」は生きている。その教えでさえ数十劫の宇宙生成消滅をへての有りうることが難い邂逅である。我々はそれを機縁として良い「業」あるいは功徳がどのようなものか知ることができ、それを行い来世をよりよくできる。

 実は今まで述べたように、出会い難い仏の教えに出会い、今生においては、その教によって利益(リヤク)を得、来世にはそれの教えを機縁としてよりよく生まれる、というのはワイらのような凡俗(出家せずに世俗の生活をしている人々)に向けてのことである。前回のブログでブッダの最後の旅と涅槃(臨終)について「大パリニッバーナ経」という経典に基づいて述べたが、この中でブッダとアーナンダとのやり取りを通じても一般の凡俗(世俗の人々)がブッダの教えを守ることにより今生の利福、来世のより良い生まれを得ることが述べられている。しかし、人としてもっともよいのはそれ以上のこと、すなわちそのような生死の輪廻の円環から解放されることであり、悟りを得て輪廻転生の円環から解脱し、寂静なる涅槃の境地に達することであったはずである。しかし凡俗の人々に対してこの「大パリニッバーナ経」はそうなることを望んでもいないし、あり得ることとも思っていない。これに対し出家者は違う、出家者の修行の最終目標は、悟りに達し、完全な解脱、そして涅槃寂静の境地に達することである。両者とも仏の教えに導かれてもその最終のありようは凡俗と出家者では画然と峻別されているのである。これは「大パリニッバーナ経」の基本をなすものである。

 宗教が今生、来世も含めての魂の救済であるなら、凡俗と修行者を峻別し、完全解脱・涅槃寂静は凡俗にはハナから無理ぃ無理ぃ~ナイナイ、そんなこと考えたらあけへん!ちゅうのはあまりにも不公平ではなかろうか。確かに凡俗でも良い「業」、そして功徳を積み重ねれば「人の世」以上である六道の最上階の「天上界」に生まれ変わることができる。仏典の描写によれば耶蘇教や回教の聖典で約束されている善人が行く「天国」と同程度以上の素晴らしい楽園ではある。しかし天上界の天人ではあっても天人五衰は免れえず、極めて長い寿命ながら死を迎えなければならない。そして死後はやはり「業」によって六道を輪廻しそれが永遠に続くのである。そこには輪廻転生から抜け出て解放される「解脱」も「涅槃」もない。もし凡俗がそれを望むなら出家して仏の教えに従って修行する以外ない(しかし出家修行者が最終的に解脱し涅槃に入れるかは個々の努力であり、そうなることが保障されるわけではない

 しかし「大パリニッバーナ経」の根本はそうであっても古来からの日本仏教はその根本の上に築かれていない。日本仏教では出家者でない在家、在俗つまり世俗の凡人であっても、悟りに達し、解脱し、輪廻の生死から解放され、もっというと究極には「仏」(つまりブッダ)となることさえ可能性としては開かれているのである。

 仏教史を少し勉強した人にはだいたいお分かりだろうと思うが、「大パリニッバーナ経」のように出家者と在俗者の目指すところを全く分け、その行動を峻別するのは南伝仏教(上座部仏教ともいう)の考え方、教えである。「大パリニッバーナ経」は南伝仏教の経典であるのでパーリ語(古代西北インドの言語)でかかれていて近年に至るまで日本には伝わらず読まれなかった(ほぼ似ているのは長阿含経の中の遊行経であるが昔から日本では重視されなかった)。そのためこの「大パリニッバーナ経」は最近(20世紀後半になって)漢訳され、南伝(あるいは上座部)の「涅槃経」として知られるようになった。これが第一の南伝・涅槃経である。

 そして第二の「涅槃経」は古来よりあるものである(奈良朝以後移入された漢訳仏典)。我々が「涅槃経」という場合はこちらを指す。特に区別する場合は北伝あるいは大乗「涅槃経」と言っている。南伝「涅槃経」(「大パリニッバーナ経」)は前のブログでも言ったように短い旅日記とも思える平易なお経であり読みやすいのに対し、この大乗「涅槃経」はその内容は膨大な「巻」に分かれ、いかにもお経らしく経の漢文で書かれており難解である。当然、専門家でもない私に全文読みこなし理解できるはずもない。解説書のお世話になりその概略を理解するのにとどまることになる。しかしそのような浅薄な理解でも確実に分かったことはこの第二の大乗「涅槃経」は、日本仏教の根本的な考えかたが詰められていることである、それは先にもいった聖俗にかかわらず人にはすべて悟り、解脱、涅槃への道が開かれているのである。大乗「涅槃経」に「大乗」という言葉が冠されているのは、まさに聖俗ことごとくの人々を区別なく仏道によって済度つまり唯一の究極の境地に赴かせることができるからである。

 大乗「涅槃経」に書かかれているもっとも重要な二つのキーワードは『悉皆成仏』そして『如来常住』といわれている。『悉皆成仏』はすべての人に「仏性」が備わっていて、これが種となり、悟りを得て、先ほども言ったようにどんな人でも究極、ブッダ「仏」となる可能性があるということである。『如来常住』についての解釈は次のようなものである。ブッダが涅槃に入り、この世からいなくなってしまったとき、人々は偉大な指導者を失い嘆き悲しんだ、これは出家者も在俗者も変わりない、しかし出家者は修行をしブッダの教えをよく理解している。涅槃に入る前にブッダは出家者に対し「自らを指針とし、また法(仏の教え)のみを指針として怠ることなかれ」との遺言を残した。出家者には自ら、そして法を頼りに目的に向かって修行をしていく自信がある。しかし在俗者はどうだろうか、ブッダがこの世から消え、直接の指導者を失い、闇にくれたのである。何度も転生を繰り返し何万回生まれ変わっても先に言ったように再びブッダに出会う確率は極めて低い。いったい在俗者はどうすればいいのだろう?いわばその回答としてこの大乗「涅槃経」がいったのが『如来常住』である。生身のブッダはこの世から存在しなくなったかもしれないが、如来(法身)としてのブッダは常時この世に存在するというのである。目にも耳にも触れないかもしれないがこの世にはその法身としての如来様はいらっしゃって、しかもこの世にあまねく満ちていらっしゃる。だから何らかの仏教的な手段(修行、瞑想、崇拝信仰、絶対的帰依等々、)でそのブッダに触れることができ成仏の助けになるのである。南伝「涅槃経」(「大パリニッバーナ経」)と大乗「涅槃経」は同じブッダの涅槃の時(臨終時)のことを扱いながらもっとも根本的に違うのは『悉皆成仏』と『如来常住』の考えがあるかないかであり、それは大乗仏教(日本の仏教)と上座部仏教(スリランカや東南アジアの南方仏教)を分ける根本的な違いともなっている。

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