2019年8月9日金曜日

ミロクさまのはなし 常楽寺の石碑、上生佛

 先日行った常楽寺入り口にあるミロクさまの石碑をもう一度見てみよう。石碑には「上生佛 弥勒慈尊」と刻んである。弥勒はみろくさまのお名前だからわかるが、その他の文字の意味は何だろう。上生佛~慈尊とは?

 「上生」があるのだから「下生」もあるのかしらん。しかしもし「下生佛」という言葉があるとするとなんか上生に比べると下位・劣位のようなイメージがあるから下生なんかはありはすまいと思うが、調べるとなんと上生に対し下生もある。しかし弥勒信仰の上生、下生は上位、劣位という意味ではない。平たく言う救いを求めるわれらが弥勒様の元に行って救いに与かるのが上生、われらが行くのではなく弥勒様にこちらの方に来てもらって救いに与かるのが下生である。弥勒様は我々が住むこの世の遥か上方の兜率天といういわば天国にいらっしゃるので、われらがその弥勒様の天上界へ行くことはわれらが「上」方世界に「生」(往生)じることとなるので「上生」である。これに対し弥勒様がわれらのいるこの世に降りてきてわれらを救ってくださるのが下生の弥勒信仰である。弥勒様が天上界からこの世に「下」って救ってくださり、われらがこの世に居ながらにして「生」(往生)させてくださるので「下生」となる。

 弥勒様は未来仏である。現れるのは56億7千万年後である。これはあまりにも長すぎる。その間いったいどれだけの輪廻転生を繰り返すのだろうか、もっと早く救いにあずかれないのかしらん?人々がそう考えるのは自然である。その間、弥勒様はどこにおいでになる?弥勒様はその時が来るまで天界の「兜率天」というところで自らも修業したりその天界で利他行(他の人のために尽くす、もちろん人の救済、成道を助ける)を行ったりしている。それならばいっそその「兜率天」というところにわれわれは生まれ変わることができないか。それができると信じるのが弥勒の「上生信仰」である。そう考えるとこの石碑に刻んである「上生佛」とは上生信仰をかなえてくれる弥勒様という意味になる。

 そして「・・・慈尊」とは?「尊」はまさに仏様の尊称である。現代使われる「様」に当たるのが尊である。地蔵様のことを地蔵尊と呼ぶのは様=尊であるからである。そうなるとこの尊の前にあるのが名前となる。弥勒様のルーツはインドである。インドでは弥勒様を「マイトレーヤ」と呼んでいた。その音を中国で漢字に直したのが「弥勒」となる。そしてこの「マイトレーヤ」は梵語で「慈しみ」という意味から弥勒様の名前になったといわれている。中国語で音をうつして弥勒となったが、「慈しみ」の意味からの意訳で弥勒のことを別名中国では「慈」氏ともいう。つまり「・・弥勒慈・」は音をまねた「弥勒」とその梵語の意訳から「慈」という文字が弥勒様の名前を表すのに重ねて用いられているのである。

 上生信仰とは弥勒様のいらっしゃる「兜率天」に「上生」し云々、というのを聞くと、日本の中世以来盛んになり現代も優勢な宗派の根本教義として存在する「阿弥陀信仰」を思い浮かべる。弥勒様を阿弥陀様、「兜率天」を「極楽浄土」、「上生」を「往生」と読み替えれば阿弥陀信仰と同じではないか。しかし一見同じように見えるが調べると差異もある。まず大きな違いは弥勒様は菩薩であり、阿弥陀はんは如来である。仏としてのステージが違うのである。悟りを啓いた究極のステージは如来である(釈迦如来、薬師如来、大日如来など)。菩薩はその次のステージである(弥勒もそう、文殊、観音、など)。悟りの一歩手前、もう如来になることは約束されているようなものだがまだ一応修業中で究極の如来ではない。そういうとなんか人を救う力が弱いような気がして如来より頼りなさそうに見えるが、さにあらず、菩薩さんは利他行、慈悲行を積極的に行う(他人のために粉骨砕身してくださる)。瞑想してド~ンと座っている如来さまより、頼りがいがある。菩薩さまは立ち姿で(なかには片足を半歩踏み出してすぐにも救済に向かうぞ、と言わんばかりの菩薩さまもいる)、手には(二つ以上、中には百も手がある)いろんなお救い道具をもったりしている。そんな菩薩さんの方が救いを求める人にはありがたい。

 そのいらっしゃる世界も阿弥陀様は「極楽浄土」である。ここは究極の理想世界で、もう嫌な世界に落ちもしないし別の世界に行くこともない。阿弥陀のもとで「極楽!極楽!」といって永遠に楽しく過ごせる。対し弥勒様のいるところは「兜率天」で地獄からだんだん上がっていくいろんな世界の中ではかなり上方にある天界に属し、いいところだがその上にはもっと素晴らしい天界の世界もある。その中の「兜率天」で弥勒は菩薩として修業しているのである。「兜率天」の住人は天人であり、とても幸福な世界だが永遠では無く有限である。寿命も長いがやがては尽きる(万年単位)、そうして「業」に引かれて下の世界に落ちてしまうこともあるし、また上昇することもある。「兜率天」は決して極楽浄土のように究極の世界ではないのである。

 だから、もし弥勒菩薩様にすがって「兜率天」に上生してもその世界ではやはり弥勒様のおそばにいて教えを請い修業を重ねなければならないことになる。もちろん現世より万倍もいい天界の「兜率天」だし、弥勒様もまじかにいらっしゃるのでやがては「成道」間違いないだろうが、それでも蓮の台の上で永遠を過ごせる「極楽浄土」の世界ではない。

 この弥勒の「兜率天」上生と弥陀の「極楽浄土」往生、違いはあっても、救いの仏、救いの世界の呈示などはよく似ている。もしやそのルーツを遡れば重なるのでなないだろうか。いやもしかするとどちらか一方のほうが先に起り、その影響を受けてもう一方の信仰が出てきたことも考えられる。はたしてどちらだろうか。なお調べてみた。続きはまたブログにします。

 下は鳴門市大谷の東林院にある弥勒菩薩像。転法輪の印(手の形)をしている。これは説教するお姿。「兜率天」に上生した衆生になおも教えを垂れているのかもしれない。

0 件のコメント: