2020年3月2日月曜日

永すぎた春

 上のこの題を聞いて何を思い浮かべるか?ワイら高齢者は三島由紀夫の「永すぎた春」の小説を思い浮かべる。この小説、昭和31年に発行されベストセラーとなり、この題の「永すぎた春」という言葉が昭和30年代を通じて流行語となったのでこの頃青春時代を迎えていたジジババの記憶にはとどまっている言葉だろう。しかし文字通りとれば、春が長い、という意味である。

 前のブログで何度も書いたかもしれないが、去年の暮れから今年にかけての季節の推移をみていると、晩秋から冬をすっ飛ばして初春になり、冬がなかった。12月の遅くまで紅葉が見られそれから寒波の訪れもなくいきなり初春になった感じである。今日などは三月初旬なのに四月頃の陽気である。午前十時ころには気温もかなり上がりポカポカ陽気に誘われ、急に海が見たくなり、小松島まで遠出した。寂れた埠頭から見る海は完全に春の海である。あたたかな海風、穏やかな波、のんびりと飛ぶカモメなど春の風情が漂っている。海に通じる街路樹の桜の花も満開である。


 今年は言ったように冬がなく晩秋の次に春が始まっていた。とすると、例年より異常に長い春ということになる。いや体感的な春だけではない。三月になった途端、坊ちゃん嬢ちゃん方はど~~~んと長い春休み(実質)に入ってしまった。いや病気の臨時休校じゃとか春休みの前倒しなんどというがたぶん長~~い春休みである。もうなんもかんも長く続くであろう春・春・春となっている。

 さて、もう一度、ブログの題にかえると「永すぎた・・」云々、というのはネガティブなイメージがある。これに対して「春」というのは青春という語を引き合いに出すまでもなくポジティブなイメージである。そのような相反した語が「永すぎた春」である。三島の小説では、相思相愛、親も認めた婚約中の恋人二人である。どちらも生まれも育ちもよく人もうらやむような境遇である。しかし、大学を終えるまでは、ということでかなり長い婚約期間を過ごすことになる。その長くなった期間に起る出来事、二人の心の葛藤などを描いているのである。

 いいことが長続きするならいいじゃないかともおもうが、好すぎることがあまりにも長引けば、飽きとは云わないまでもダレや怠慢に陥ることはなかろうか?またその反動はないか?好事魔多しという言葉もある。浮かれる人はスキも多くなる、何か思わぬ落とし穴が待っているのではないか?読まなくても三島の小説「永すぎた春」はそのような展開が予想されそうである。

 今年は、長すぎた、とまだ過去形では言えないが、なにかそういう意味を持った、長い春、が今進行中である。冬がなくいきなり春が始まって、うれちぃな、と思う間もなく勃発したのが春と歩調を合わせて進んできた武漢肺炎である。このまま春がたけて春爛漫になると同時にウィルスも爛漫になるんじゃなかろうか心配である。本来なら春は遊山に花見にと外に出てもうれしい季節ではあるが、今年は武漢ウィルスのせいで、賑やかな集団には参加しないように、それぞれ家に「籠り(こもり)」を勧められそうである。奈良朝の額田の女王は「冬ごもり春さりくれば・・」と歌い、籠り(こもり)は寒くて野外活動ができぬ冬であり、それを乗り越えればやがてうれしい春がくる・・という意味を和歌にしたものだが、令和二年は春ごもり・・、である。それも春の終わりとともに、籠り(こもり)から解放されるのかどうかは見通せない。

 中世は「連歌」が大流行した。心配な今年の春の行方がどうなるか?連歌師がそれについて発句を作るとすると次のようになるのじゃないだろうか。

 暮れてゆく、春の行方は 知らねども

 さて、連歌であるから、このあとふさわしい、脇句(第二句)、三句と次々に付けていくのであるが、今後現実にはどんな句が歌いつがれていくのだろうか。

 追伸、呆れが七分、怒りが三分

 小松島のホムセンタ、スゥパを数軒回ったが、どの売り場のティッシュ、トイレペパァも空、聞くところによると無くなるってゅうデマを流した奴がおってみんな惑わされて買いだめしてるらし。思わず、阿波弁が口をついて出てきたわ。

 「ほててんごのかわひろぐな!」

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