2019年11月17日日曜日

廃寺の遺跡はどこに?(金剛光寺)

 これまでに廃寺をいくつか紹介したが、予想外に規模が大きく、また創建がこれまた意外に古く奈良期以前に推定される寺に美馬の郡里廃寺と川島の大日廃寺があった。昨日、見学に行った廃寺も規模といい古さといい、この二寺に匹敵するといわれている廃寺である。場所は八万村と上八万村の境界に近い(八万村に属している)字名が寺山というところである。もう名前からして寺があったと思わせるような地名である。以前からその地方の人の言い伝えで「大昔になぁ、ここにゃぁ大っきな寺があったんぞぉ」と伝承された記憶が自然と地名になったものであろう。そのような記憶が再びここに寺を、という希望になり、規模は小さいが、その廃寺の名前であった「金剛光寺」という名を冠した庵(金剛庵)を江戸時代に作っている。その庵の場所は当然昔あったであろう金剛光寺の寺域地であった。しかしその金剛庵も昭和三十五年に火災で焼失して今はない。

この金剛光寺廃寺は発掘も進んでおらず、礎石なども見つかっておらず、たまたま土中から見つかった個人所有の何枚かの古代瓦があるだけである。そのため寺域や伽藍の配置の確定もされていない。先に紹介した「郡里廃寺」や「川島廃寺」などは発掘物以外にも礎石も見つかっており、伽藍配置もほぼ確定されていてその遺跡には丁寧にその寺域や伽藍配置を示す説明板も設置されている。しかしこの金剛光寺廃寺はそのような説明板もない(寺域、伽藍配置が確定できないので当たり前である)。だからオイラが見学するといっても昔からの言い伝えで寺域の金堂付近に江戸末期に建てられた「金剛庵」を見るしかないがこれも60年も昔に焼失している。しかし庵の跡地は目に見える形で残っているためそこを見学するしかない。そこに古代、金堂がありそこを中心に伽藍が広がっていたと、自分で勝手にイメージするしかない。

 古代廃寺があったといっても物証はわずかの古代瓦くらいしかない。古代にこの地に瓦葺の立派な建造物があったと推定され、まず寺であったと思われるがそれ以上はわからない。しかしこの古代から続いたであろうこの金剛光寺が中世には確実に存在していたという物証はある。それはこの寺のために作られた梵鐘が発見されたからである。おそらく中世末に何らかの理由で転売され、再度移った結果今、京都市のはずれの(旧丹波国)峰定寺にその梵鐘はある。その銘にこう刻まれている(下はその拓本)

 永仁四年(1296年)というから鎌倉時代である。地名は阿波国以西郡八万とある。以西郡とは中世から近世初にかけて用いられた「名東郡」の別名である。そして八万はこの地である。寺名も「金剛光寺」と記されている。他にも願主や工人の名前も読み取れる。この頃に「金剛光寺」が存在していたことは確実である。ではいつ頃、どのような原因で廃寺になったか、これについては郷土史家の見解を聞くとおおむね戦国時代の争乱(長曾我部軍と在地勢力の)から戦火にかかり廃寺の原因となったといわれている(異論もある)。また戦国期のこの騒乱によって廃寺となり、その結果として梵鐘を手放したか、その前後・因果関係はわからない。ともかく近世以前(江戸期より前)に廃寺になっていた。

 このように推定できる資料、遺物、遺跡が少ない中でも郷土史家は熱心に調査研究をすすめいくつかの注目すべき見解を発表している。以下のようなものである。

● 寺域の具体的な広さや現在の地籍は確定していないが、「金剛庵」の跡地あたりが旧金堂の位置に推定される。

● 出土した奈良期の瓦から古代寺院と思われるが、創建時は茅葺であったことも考えられ、奈良期以前に遡れる可能性があること。

● 伽藍配置が次のように推定されること。

● 寺院は東面していたこと(普通、南面である)、ゆえに参道は東から西へ直進していたこと、その参道は佐那河内・入田へ行く道と交わっていたこと。

 上記の伽藍形式は阿波の廃寺の多くの場合が法起寺式であるのに対し、これは天王寺式伽藍によく似ているが天王寺式は講堂、金堂、塔、中門が一直線に並ぶのに対し、この金剛光寺は塔が中心線からずれているのが特徴である。また中心線が東西というのも変わっている。

 注意したいのは、古代の参道や往還(街道)は現代の道からは推定できないし、地形そのものも変わっている可能性すらある。もっとも山までは変わらないだろうが、微高地や低地は古代と比べ変化している可能性がある。というのもこのあたりは園瀬川と星河内川の二つの大きな川が流れているが、歴史時代においてたびたび流路を変えているのでその都度地形が抉られたり堆積したりを繰り返すからである。近世になって堤を築くようになって流路が安定する。

 以上のような予備知識を持って八万村寺山の廃寺跡を見学に行った。

 まず唯一の手掛かりになりそうな「金剛庵跡地」を地図で探して見当をつける。いろいろな地図を当たると「金剛庵」が載っている地図があった。下の地図で「金剛華寺」とあるのがその庵の跡地である。

 写真を撮ったいくつかのポイントと方角を以下の地図で示す。

 そのポイントの写真
 ①、堤防を挟んで園瀬川が流れている。左に潜水橋が見える。川を渡って右に見えている山のすそあたりに金剛光寺の伽藍が広がっていたと思われる。

 ②、潜水橋を渡り堤防を下りるとお不動さんの石仏があった。

 ③、今は農地が広がるばかり

 ④、⑤、このすそあたりに伽藍が並んでいたのだろうか。


 さて肝心の「金剛庵跡」であるが、焼失して60年もたつためか成長力の旺盛な竹林に浸食されて大藪、ジャングル状態が次の⑥、分け入って入るのに怖気をふるうよな状況である。

 ⑦、しかし無理して行けるところまで行ってみた。もはや礼拝されることのない供養塔が崩れて散乱していた。「大法師蓮〇・・」と読める。この辺りが「金剛庵跡」すると旧金堂の推定地か?

 寺域の広さはわからない、もしかすると今のバイパスあたりまで伸びていたかもしれない、というのも下の地図の青丸の部分に「金剛光寺跡」という石柱が立っているが、位置から考えると広大な寺域の最外郭にある大門(普通は南大門だが東西に中心軸があるので強いて言うなら東大門か)跡かもしれない。発掘調査も進まないからやむを得ないがこの広大な廃寺跡を一本の石柱で示すのには無理がある。

 青丸部分の写真、金剛光寺跡とはっきり読める。金剛庵跡は奥の左に走る堤防が山で切れるあたりにある。(この写真は今日撮影)

 動画 地図③の位置から南半分あたりを撮影した。

0 件のコメント: