2024年7月31日水曜日

今日の朝五時の時点やが、金メダル獲得数一位 すごいやないかい

  2008年のオリムピク北京大会以後くらいから、メダル数では欧米勢どころか中国や韓国にも日本は抜かれていた。もう盛り返すことはないと思っていた。今回のおフランスの大会でも期待はしていなかった。ところがどうだ!ネットニュスをみるとなんと、今朝の五時時点で金メダル獲得数、世界一やと、正直、おぶけかやった。


 まぁこれからオリムピクの主要競技がぞくぞく始まるから、そのうち一位の座からは滑り落ちるとおもうが、でも瞬間でも世界一になったのはすごい。テレビ観戦だが応援にも力が入るというものだ。

 で、みんなの応援をさらに鼓舞するよう、ヨウツベから三波春夫さんの「五輪音頭」を貼っておきます(ふるっ!)

2024年7月30日火曜日

盆と月

  「盆と月」と聞いてはっきりした「あるイメージ」を思い浮かべられるだろうか。「うぅん~と、お盆と月、なぁ、盆と月の関係がわかれへんからイメージしにくいわ」と言われるだろうと思う。この言葉に対しては大人よりむしろ幼稚園児くらいの子どものほうが鮮明なイメージを思い浮かべるだろう。え?でも盆と月ってどのように関連付けて、そんな小さい子がイメージできるの?と疑問に思うかもしれない。まぁ、ためしに幼稚園児に聞いてみてください。するとすぐこのような歌になって返ってきますよ。、出た出たが、丸るい、丸い、まん丸い、のような月が

 なぁんだ、盆ってその盆(トレイ)かい、来月の12日からのお盆(盂蘭盆会)じゃないんかい、と思われたかもしれませんね。幼児もこの歌「月」の歌詞の、盆のような月が、は丸いお盆(トレイ)のイメージとしてとらえています。しかしこの歌の、「盆」のような、には器物である盆の意味以外の意味も込められていると私は思っています。

 実はお盆は満月とはほぼ同じでした。というのもお盆は近代になるまで旧暦で迎えていたからです。旧暦の12~15日のお盆の期間は、満月に近い月が夜空に出ていたのでした。百年前の徳島のお盆について書いたモラエスさんの随想を読むと、旧暦7月13日には霊を迎え盆祭りをし、次の14、15日は「盆おどり」をしたとあります。満月下のぼんおどり(阿波踊り)だったのです。

 今から90年前の昭和9年のポスターを見てみましょう。


 今と違って八月下旬に開かれていますが、この日は旧暦のお盆である7月13,14,15日に当たります。ポスターの踊り子の左上には大きな満月が描かれています。このポスターが今日のブログの主題の「盆と月」を視覚化したものと言っていいでしょう。今、お盆を旧暦でする風習は廃れましたが、一応言っておきますと、今年の旧盆は来月の満月の前三日間、16~18日となります。来月の18日が旧暦の7月15日となっています。もし今も旧暦で続けていれば、毎年必ず満月に近いお盆の夜だったのです。

 上のポスターでは満月は遠くに見えている街並みのすぐ上に大きく出ていますね。そして柔らかな黄色い光を放ち、輪郭はおぼろです。これは夏の満月の特徴です。太陽の高度とは反対になるので夏の満月は地上低く東から西へ移ります。そして夕陽が赤っぽくなるのと同じ理屈で低い月は赤っぽく、光はより柔らかみを帯びています。また水蒸気の多い夏の夜は輪郭もぼやけ朧になりがちです。さらに高度が低い時は月でも太陽でも見かけが大きく見えますね。これが反対の冬の満月だと月は天空に近く、皓皓と冴えわたった青白い月に近くなります。

 この夏の月と冬の月とどちらが親しみを感じられます?顔をグッと上に上げて見上げる月より、自然に仰げば視界に入る赤っぽい、朧な、夏の満月の方が親しみやすいでしょう。オオカミやバンパイヤが吠え掛かるような、月天心(天頂近く)にある青白く冴えわたった月より断然こっちの方ですよね。

 童謡の「月」のイメージもこのような高度の低い光の柔らかな満月でしょう。だから、盆のような月が・・という歌詞は形としての盆、という意味もあるけれども、旧暦7月の満月のお盆のころのような、という意味も兼ねていると私は見ているのです。

 さらに盆と月との関連というより連想について私の独断的見解を述べたいと思います。盆と月と聞いて、盂蘭盆会と満月と同じように思い浮かんだのが「海盆と満月」でした。

 肉眼でも光を放つ満月に黒い模様があるのがわかります。昔の人は肉眼で見たときに、この黒っぽい模様を、よくわからないままにその形からウサギやカニの形に見立てたものでした。しかし望遠鏡が発明されその黒い部分を見るともっとはっきりします。

 月の明るい部分は山がちな部分で乱反射からか明るくなり、それより暗く見える部分は平たん地のように見えたのです。その平坦地の部分はまるで地球の表面の海のようだったため、月のこの暗い平坦部は「〇〇の海」と各々名付けたとかんがえられています。もちろん月に海があるはずがないのですが、それがわかっている今でもこの平坦部は「〇〇の海」と名付けられています。

 この平坦部の「〇〇の海」という部分を私はまるでこれは月の「海盆」漢字の意味からは海の底の盆地)だ、と思ったのです。海盆を地学的に簡単に説明すれば『海底の大規模な凹所。規模はさまざまで、周囲を大陸、島弧、海嶺、海膨、海台などの高まりで囲まれている』ということになる。百聞は一見に如かず、日本近海の海盆を見てみましょう。下のようになっています。


 もし仮に地球の海の水を全部干上がらせてしまえば、まさに月の表面の「〇〇の海」と名付けた平坦部のように、この海盆の部分はなるのです。説明が回りくどくなりましたが、これが私の頭に浮かんだ(海盆)との連想でした。

 しかし後で調べなおすと確かに「〇〇の海」の部分は平たん地であり、盆地地形に近いものではあるのですが、地球の海盆のように全体的に低い部分か、と言えばそうでもないようです。ちなみに月の表側の「〇〇の海」と名付けられたものは15以上あるようですが、一般的には知られていません。唯一、月のどの部分かはわからないが、皆がよく名前を知っているものでは「豊饒の海」(今は豊の海とよぶ)があります。三島由紀夫の小説の題になってましたからね

 「盆と月」には関係ないのですが、今月の20日も満月でした(旧暦6月15日)、実はこの日の深夜、私の妹が逝きました。車の窓からは低い真ん丸な月が見え、どこまでもついてきました。涙のためかすこし朧にかすんでいるようにみえました。悲しくも印象深い夜の満月としてこころに強く残っています。

2024年7月29日月曜日

なつやすみ ヤマさんのえにっき


  今日は無茶苦茶暑かった。何をトチ狂ったか、こんな日(それも午後2時、3時)に歩かなくてもいいだろうと思うが、これも信仰信心、立江のお地蔵さんにお参りしてきたのです。亡き妹と、水子の霊やすかれとおっぞうさんにお祈りしてきました。

 最高気温が35度を超えたら「猛暑日」と定義されています。だんだん夏が熱ぅなってるので猛暑日も増えてきました。さらに暑さのグレードがアップすると最高気温が40度を超える「酷暑日」も定義されています。今日、小松島(立江)は38.6度、吉野川市は38.8度まで上がりました。ここで私の提案、さすが40度超えの酷暑日は少ないと思うので、もう少し短く刻んで、36.8度を目安にすればどないじゃろか、36.8度は人の平均体温です。それを超えたら「〇〇日」と名付けたらいいと思います。その名も私の提案ですが「超体熱日」ちゅうのはどないでしょ。今日、県下ではほどんどの市や町で超体熱日だったんとちゃぁうかな。

2024年7月28日日曜日

ローカルな阿波踊りのポスタ

  昨日、鴨島駅前に地元主催の阿波踊りのポスターが貼ってあった。以前は三日間あったが今はたった一日のみの開催である。徳島市の四日間にわたる阿波踊りが県内全域の踊り子連や観客を吸収するため、その吸引力の強さに、昔は小さな町や村であった盆踊りも吸い込まれなくなってしまった。鴨島の阿波踊りにしても、昔はもっとローカルな特色があったが、今は衣装、編み笠、下駄等、踊りの振り付けまで徳島市内の阿波踊り連と何ら変わることがない。そして徳島市の阿波踊りに気兼ねしてか、というより、日が重なっては参加連も観客も、いっちょもけぇへんわ、ということで徳島の阿波踊りがすんでからの開催である。

 八月の中を過ぎれば、晩夏の季節に入る。私は晩夏はなんとなく好きである。歌の詩心に例えれば、童謡「小さい秋みつけた」の情緒の頃といえばいいだろうか。まだまだ暑いが、午後の日差しはずいぶん斜めになり、少し和らいだ。そして日が落ちると、わずかな気温の低下や微風に秋の訪れを感じる。

 徳島市内の阿波踊りがド厚かましくもローカルな盆おどりを引っさらっていったため、今でもなんとか地元の盆踊りをやっているところは、この晩夏の頃に盆踊りを開催している。私はむしろその時期が好ましいと思っている。吉野川市は八月中すぎの16日、阿波町は23日である。晩夏の夜のボニ踊りのしっとりとした情緒を味わいたければこちらのほうがいいかもしれない。



 以前私がヨウツベにアップした鴨島の阿波踊りです

2024年7月27日土曜日

おもひで 3

 今日のブログは2020年12月1日のブログの再掲です。幼児の時にバラけてしまった家族四人(父母妹私)の薄れゆく記憶を、絞り出すようにして書いたブログです。このブログの最後に「もう父母、祖父母、みんないない・・」と書きましたが、今それに妹も書き加えなければならないのがこの上なくつらい。


哀愁の廃線・鍛冶屋原駅

 前回たどった廃線は、大正時代に存在した。私の祖父の青春時代の話である。昔話に撫養へ行った話を祖父から聞いたことがあるので、おそらくこの路線にも乗ったに違いない。私に昔話として話した時点で、その連絡船と組み合わさった路線はとうの昔に廃線になっていた。祖父の心の中まではわからないが、何か懐かしさを感じるものがあったのだろう。今になって思えば、祖父の昔話をもっとよく聞いておくんだったなと後悔している。

 祖父には懐かしかったかもしれないこの(吉成~古川)間の廃線だが、私の生まれるずっと前の話で、その廃線跡を辿り、ところどころここかなと立ち止まって写真を撮っても特に思い入れなどはない。しかし、今日のブログで取り上げる廃線には複雑な哀愁がある。その廃線は国鉄・鍛冶屋原線(板野~鍛冶屋原間6.9km)である。大正12年に開通したが、高度経済成長が始まりモータリゼションの波が急激に高まり列車利用者が減ったため昭和47年に廃線になった路線である。

 私が3歳か遅くても4歳まで(昭和29頃)この路線のタミナル「鍛冶屋原駅」のすぐ近くに家がありそこに住んでいたのである。鉄道と並行に走る駅裏の道から少し下ったところに家があったのを覚えている。小さな家だが一戸建てで、そこで父、母、妹の三人で住んでいた。今の言葉で言えば「夫婦と子供二人の核家族」である。わずか3歳だった幼児の私にその時の鮮明な記憶はない、ただ、定かとは言い切れない夢のようなおぼろな記憶が断片的に残っているだけである。

 あやふやな記憶らしきものにはいくつかあった、家の台所棚にガラスのコップ、それと同じ棚にラジオがあった、なぜそんなものが記憶に残っているのかわからないがほかの物の認識はない。そして外出するとき(誰に連れられてかわからないが)まだ乳飲み子の妹が縁の手すりにつかまって、アァ~ンとこちらを見て泣いていたこと、また別の記憶では祖父だろうと思うが家に迎えに来て連れていかれるとき家の奥には母がぽつねんと座っていたこと、などわずかである。家の周囲(つまり駅付近)の記憶はただ一つ。それは夜である。たぶん駅裏の家のあたりの夜景だろうと思う。転轍機(ポイント切り替え機)の上についている赤や青のやけに寂しい信号機の明かりが唯一である。 

 私は事情があって上記の時(3~4歳)以後、そこから10kmばかり離れた祖父母の家に引き取られ、以後祖父母に育てられた。つまり鍛冶屋原駅裏のこの小さな家でのこのおぼろな記憶は、唯一、両親と妹と私の4人の一家団欒の時代があったことをしめすものだ。世の中には片親やあるいは祖父母に育てられる子は多い、そんな中でも幸せに暮らす子も多いが、やはり二親のもとで育てられるのが子供にとって一番いいに決まっている。もう取り戻せない過去ではあるが、その一家団欒の記憶がほとんどないのが残念である。いやむしろ小さすぎて記憶などが全然ないほうがいいかもしれない(妹はようやく乳離れした幼児だったのでこの時の記憶などは全くないだろう)。断片的におぼろな記憶があるだけに、よけいにこの時代を哀切とともに振り返ろうとする、ところが悲しいかな記憶が残るギリギリの幼児だったため、そのおぼろな記憶も大してよみがえってこない。このもどかしさは何とも言いいようがない。

 その大切な珠のような貴重な記憶も70年近くも生きると少しづつ風化し、霧消していきつつある。老化、ボケとともに大昔の記憶もなくなっていく。10代や20代の時はもっと記憶も多く鮮明であったのは確実である。というのも、あれは忘れもしない小学校6年生の時だ、やはり昔の楽しかった家庭への懐古がやみがたかったのか、自転車で10km近くある鍛冶屋原の駅裏のその小さな家まで、遠出して見に行った記憶がある。そして実際その家を見つけた。8年以上たっていたがその家は、ちゃんとあった(もちろん別の人が住んでいる)。その行動を今から考えてみると、小学校6年当時の私の記憶は、駅とその家の位置関係、そして家の形などを確実に覚えていたのである。

 その廃線の鍛冶屋原駅跡を歩いてみた。

 駅だったことを思い出すよすがとなる物は残っていない。昭和47年に廃業ということはほぼ半世紀前である。せめて地形にでも(線路あとの盛り上がった長い丘のようなもの、プラットホムの石造の跡など)と探したが見つからない。お上や当局者が意図して駅の遺構となるようなものを残さなければ栄枯盛衰激しいこの世の中で消滅もやむを得ない。

 ただ最近作られたであろう御影石のこのような記念碑が立っていて辛うじてここに昔駅があったことを示している。


 この記念碑から北の方角を見ると道路にしては広い場所が広がっている。これはここが昔駅前であったことを示している。広場の隅に消火栓を大きくしたような大昔の赤い郵便ポストが立っているが、もしかすると半世紀前、駅があった時からの遺物かもしれない。

 

 駅舎跡は今は商工会議所と銀行のビルが建っている。鍛冶屋原駅はタミナル駅(終着駅)であったため駅構内は広かったと思われる(多数の線路、引き込み線、蒸気機関車の時代は円形の機関車の向きを変えるターンテブルもあったはずだから当然広い)、今その構内あとは大部分が運送会社とそのトラック駐車場になっている。

 記憶では我が家は駅裏(つまり線路がいくつも走る構内の南)の道にあった。まずその場所で間違いないと思われるところに行って写真を撮ってきた。もちろん当時の家はなく新しい家が建ち、整地したため地形も少し変わっていたが、道路より少し低い敷地に建っているのは昔のとおりである。小学校6年の時にも訪れ、記憶を確認していたためわかった。

 もう父母、祖父母、みんないない。おぼろなこの記憶も遠からず私とともに消え去るだろう。残るのは廃線の鍛冶屋原駅跡を示す墓標のような碑のみである。私にとってはなんとも哀愁漂う廃線・鍛冶屋原駅跡の探索であった。

2024年7月26日金曜日

おもひで 2

  歳がゆくと子は男の子は父親に、女の子は母親に似てくるといわれている。生母とはずっと疎遠だったから妹が母親に似ているかどうかは定かではない。しかし母の里の叔母に、昔生母が15歳くらいのときの写真を見せてもらったことがあったが、妹が中学くらいの時と同じ顔をしていた。なるほど女の子は歳が行くとだんだん母親に似るのはあることだな、と思った。私の方はと言えば、自分の顔は客観的になかなか見れないもので、他人から父親に似てる、と言われてもそうかなぁ、と、?であった。しかし、前のブログの最後の写真(ひげもじゃで食事をパクついている)を見ると、え?これ親父じゃないの、と一瞬親父の顔と同一視してしまった。(この私の写真は妹の手元にあったため、先日初めて見た

 私が高校の時、妹と養父母が県外から私の家(祖父母の)の近くに引っ越ししてきたため、妹はよく祖父母のうちにも遊びにやって来ていた。祖父母とくに祖父は娘に成長した孫娘をみて、お前は美人じゃ、と目を細めてよく言っていた。私は、ホンなことはない、お前はブスじゃ、と憎まれ口をきいていたが、内心、妹が美人であることは好ましいことでありうれしかった。あるとき妹は、通う中学校の先生に、あなたは三沢あけみに似ている、と言われたと嬉しそうに話していた。そう思ってみると中学時代の妹は確かに三沢あけみさんに似ていた。

 三沢あけみさんは現在79歳になりますが、今でもお元気で活躍されています。当時は演歌全盛時代で、ポチャッとした美人演歌歌手として売り出し中でした。妹のおもひでの一環として三沢あけみさんのヨウツベの歌を貼っておきます。この曲の(明日はお立ちか、おなごりおしや・・・)歌詞を聞くとなんだかホロリとさせられます。(本来は出征兵士の別れの歌

2024年7月25日木曜日

おもひで

  この一週間いろいろあった。ありすぎて実のところ一週間たったという実感もない。ずいぶん長くもあり、日が前後する混乱もある。

 今となっては何もできない。呼んでも帰らぬ過去を振り返り、幽冥を隔てて、思い出に浸り、慰撫するのみである。

70年前、妹とともに、徳島城公園石垣前で、幼き時の妹、私、父、三人のほんつかの間のしあわせ、しばらくすると妹は遠くへ養女に行った。撮影者は父。


30年前、父親をなくした甥、だっこする私、今見ると父性をくすぐるような写真だが、父親代わりにはならなかった。同じ九州旅行での別府、長崎での父、妹、私の楽しい思い出、撮影者はわれわれの父。



やはり30年前の、上の写真の少し前、何年間も全国を放浪して落ち着かなかった私に、喫茶店を開くから一緒に手伝ってといわれた。かってに喫茶店のマスター然とふるまえるとおもっていたが、実のところプーに近い私を妹が養ってくれたようなものだ。なるほど下の写真はその意味で象徴的だ。プー太郎の私に食べ物の皿を渡すのは妹の手だ、正面の哺乳瓶を持っているのは甥、あきれてみているのだろうか。

2024年7月17日水曜日

ぎょんさん

  今日17日から「ぎょんさん」がはじまった。下の写真は蔵本・八坂神社(祇園社)の今日のようすである。21日までつづく。京都の祇園祭は有名だが全国各地にも八坂神社(祇園社)はあり、それぞれこの時期に祇園祭がおこなわれる。

 私が小さい時(幼稚園から小学校年少)祖母の里である貞光によく連れて行ってもらった。何日か泊ったこともある。その祖母の里の家のすぐ横が八坂神社である、その夏祭りのにぎやかな人出と境内の露天の店のにぎわいをいまでも覚えている。祭りに合わせて祖母が連れて行ってくれたのだろう。この祭りを祖母は「ぎょんさん」といっていた。私の頭の中では今でも「祇園祭」ではなく、ぎょんさん、である。

 コロナがおさまった今年は盛りだくさんの祭りイヴェントが復活した。そのイヴェントが載っているポスターを見る。カラオケ(自由参加)だの、いろいろなグループの生演奏だの、素人漫才、剣舞、ビンゴ大会まである。私が注目したのはグループサウンズ「阿波ベンチャーズ」の演奏である。そのグループ名の上に小さな文字だが「エレキバンドによるテケテケ」とある。こんな言葉を聞いて瞬時に理解できる人は私以上の年齢の人である。私が若いときに流行ったグループサウンズはビートルズによる影響が大きいが、それと同等もしくはそれ以上の衝撃を与えたのがベンチャーズであった。彼らの電気ギターのトレモログリッサンド奏法による曲は、まさにエレキ!で(電気・エレキテル)でしびれるほどの感動があった。その感動的な擬音を表したのが「テケテケテケ・・・」である。若い人でわからない人はベンチャーズの「パイプライン」という曲を聞いてみてください。このテケテケがどんなものか味わえます。このポスターのテケテケに私は青春の懐かしさがこみあげてきました。


 こちらが境内の臨時特設演舞場です。今日からは夜店もでます。

2024年7月9日火曜日

夏遍路 鶴林寺~太龍寺 山道を歩く

  昨日8日、遍路道を歩いた。ほとんどが山道である。そのルートを下に示す。距離は約10kmだが山道なので起伏がある。峠も二つ越えねばならない。10kmとはいえ結構きつい登りがあり、また気温も湿度も高く、かなり苦しい夏遍路の修行となった。


 勝浦町生名のバス停で降りて歩き始める。時刻は午前8時過ぎ、行く手には夏空とこれから登らねばならない山々が広がっている。太陽が高度を増すとともにだんだん暑くなりそうだ。


 山道のいたるところで見られたのが花をつけたこのねむの木、ド派手なつけ睫毛(それもピンク)のように見える。


 勝浦川と那賀川の分水嶺でもある鶴峠についた。樹木が生い茂っていて、イメージしていた峠からの展望は望めない。ここから鶴林寺へ上る道が分かれているが、そのまま峠を越えて那賀川沿いにある大井部落に降りていく。


 夏遍路(歩きの)をする人は(他の季節と比べ)少ない。この全ルートを通じて出会った遍路さんは女性の歩き遍路一人だけであった。この峠を少し降りたところ出会ってごあいさつしたが、太龍寺までお互い前後になり何度か会った。那賀川沿いの大井地区に降り、那賀川の鉄橋を渡る。水量たっぷりに、広い河原を流れている、汗だくで少しくたびれた体がこの眺めに癒される。


 そこからまた登りの山道に入る。橋を渡って少し行ったあたりで、大人と子供の十数人のグループに会う。ご挨拶して話を聞くと、この山道にあるさまざまなカタツムリを探しているそうだ。小学生の自然学習の一環だろう、引率の先生以外の大人は地元のカタツムリの専門家である。遍路道を重なっているため、一緒に歩く、半時間ほど歩くと彼らの目的地である鍾乳洞のいり口があり、そのあたりにいろいろなカタツムリがいるらしく探していた。


 この鍾乳洞の前を谷川が流れているが、そのあたりが「若杉山辰砂採掘古代遺跡」である。弥生時代から、この谷川から少し上った露頭岩で辰砂を採掘し、を(赤色の顔料)を精製していた。赤の顔料として様々な用途にもちいられたが、普通の顔料ではなく、神秘的といおうか呪術的顔料といおうか、ほかの色の顔料と違い、死後の再生をもたらす祈りをこめて古代墓の石棺、甕棺の内部に用いられたりしている。下の写真の斜面を上がったところにその採掘遺跡がある。



 そこからはひたすら登りの山道、太龍寺への残り1kmあたりが一番苦しい登りだった。ペットボトルの飲み物はすでにカラ、のどはカラカラ、体はふらふら、金剛杖を頼りにしても一歩踏み出すのもしんどい、何歩か歩いては立ち止まり、息をつき、また適当なところで腰を下ろし休む、わずか1kmの上り坂を一時間以上かける。誰にも会わない杉林の山道である。一丁(109m)ごとに設けられている丁石が下に見えているが、なかなか次の丁石にたどり着かない。

 ようやく太龍寺の境内につくが、広大な寺域であるため、まだそこから山門、鐘楼門、太子堂、本堂までは登りが続く。入り口付近ではアジサイが美しい色を見せている。普通アジサイは灌木であるが、このアジサイは見上げるほどの高さになっているため、色と相まって、ちょっと見には北国の街路樹にあるライラック(リラ)の花のようだ。境内の庫裡の前で自販機を見つけたときは、まるで砂漠でオアシスを見つけた心境と同じ、十分水分補給をし、木陰のベンチでひっくり返り、しばらくうたたねする。

 寺域の各お堂を回り参拝を済ます。今回の参拝は、実は4年前に太龍寺参拝し、下りの山道(遍路古道)を降りていた時、足を滑らして、骨折し、入院したことがあった。それ以来の再拝である。無事に回復し、今日ここまで歩いてこられた感謝のお礼参りの意味もあった。

 やれ嬉しや!苦しかった夏遍路(たった一日だが)の歩きもここで終わり、ほっとする。時刻は午後三時に近い。後は下りロープウェイ、そしてバス、もう歩かなくていい。ロープウェイのゴンドラからの、見事に植林された山々とその間をうねって流れる那賀川の雄大な景色を見下ろしながら下りていく。