今回は川島廃寺をとりあげる。実はこの廃寺跡は私の家に一番近い。そのため昔から(まだ若かったころ)古代寺院があることは誰に教えられるともなく知っていた。10年ほど前古代史に興味があったころその場所や遺跡、遺物を調べたことがあった。しかしその時はまだ発掘調査も進んでいなくて廃寺跡の位置も特定されておらず、遺跡遺物もほとんどなくわずかに川島神社から岩の鼻へ上る石垣にその廃寺の礎石が利用されていているらしい(もちろん運んできたため旧場所ではない)というだけのものであった。旧廃寺の場所でもないし、石垣に使われている礎石ではあったがそれでも一応見に出向いて行った。それが下の写真。ただの石垣の石にしか見えず、石碑は立っているがどれが礎石やらわからなかった。
しかしその後、ウチの教育委員会も「ワイんくの郷土に古い寺院跡があるのに、それがはっきりわからへんて、こんなことで委員会!」と発奮し、ちょうど某新興宗教の教団が廃寺跡と思われる土地を購入して更地にする機会があったため発掘調査を行った。その結果、かなりのことがわかった。
それで先日(6月20日)その発掘場所を見に行って来た。発掘はすでに終わっていて、掘り返されたところは覆い土で更地にされているが、その場所にはかなり詳しい写真、地図、伽藍配置、構造図などを含む説明板が立っている。いま我々は廃寺、廃寺とアルプスでペーターがハイジを呼ぶように呼んでいるがこの川島廃寺も郡里廃寺(立光寺)と同じように伝承ではあるが『大日寺』と名がついていたようである。
まず川島廃寺の位置を鳥観図と地勢図から見てみよう。
鳥観図(奥が南となる)、北から南を見ているのに注意、鉄道線路がわかるがそこに阿波川島駅があり発掘場所は駅前である。駅から歩いてわずか1分の距離、右下隅に湾曲して流れる吉野川が一部見えているが駅付近は微高地となっていて水害は少なく大昔から砦、小城、官衙などが置かれていた。これに対して吉野川対岸(北)の善入寺島や大野島が遊水地帯で水害がおおかった。
地勢図で見ても微高地というのがわかる。これは鳥観図と反対で上が北になる。赤線で囲ったところが廃寺跡推定地である。
近年駅前の衰退は著しいがそれでもこのあたりは家が建て混んでいる。なんぼぅ地元の教育委員会が発掘したくても個人の敷地を掘り返すわけにはいかない。しかし某宗教団体が御教祖様御生誕の地ということで駅前に教会を建てているがその施設を建て増しするようになった。そのため駅前の一部が更地となったのである。そこで宗教団体の協力もあり発掘作業ができたわけである。
その敷地、発掘作業は終わり表面土は均されている。
説明板を詳しく見てみよう。まず概要の説明を読む。
この発掘あとは建物跡とみられ、金堂の可能性が高いようだ。約10m×10mだから100㎡、30坪の建物だから現代の寺の本堂(金堂)と比べても相当大きい。具体的な伽藍配置の詳細は発掘もすすんでいなくて分かっていないようだがそれでも法起式伽藍配置ということはわかっているらしい。左図がそうであるが、そうであるとすると寺全体の敷地は50×50m以上あったのではないだろうか。
次に具体的な発掘についての写真、図、説明を見てみる。
まず発掘の場所と発掘の結果の図である。左上の地図と発掘作業の結果わかった出土物分布の地図とは90°北の位置が違っているので注意。まず金堂(推定)とみられる建物の礎石は残っていないようだが、図で見ると淡緑色の部分が金堂建物の整地土として発掘の結果わかっている。そして金堂の建て地は太い黒の実践部分である。この上に金堂が建てられていた。淡緑色の部分がパッチ(つぎ)状態になっているのは発掘がトレンチ(ある幅の溝を掘って発掘)したためであり、太線内の白い部分は直接発掘はされていないがすべて淡緑色(整地土)とみてよい。
金堂の建物、そしてその基壇、整地土の関係がちょっとよくわからないが、親切なことにその関係も説明板に図示していたので下にあげておく。これを見ると整地土と金堂の関係がよくわかる。基壇部分は幾星霜立つ間に削られてほとんど確認できなくなっている。
発掘時の各部分の写真も展示してあったので見ていこう。上の発掘出土分布地図を参照しながら写真を見ていく。
まずA方向から撮った写真、基壇はほとんど後世に削られたとあるが基壇の外装部分が一部には残っていた。それがこれ
次にB方向から撮った写真、発掘出土分布地図を見ると砂利敷となっている。金堂の外周部を砂利で敷いたものだろう。今日でも家の外周に砂利を敷き詰める場合がある。よく見ると確かに砂利が見える。
C方向から撮った写真、金堂から少し離れている場所だがうれしいことに出土物があった。いろいろな手掛かりになる貴重な遺物だ。鬼瓦がはっきりと確認できる。周りも瓦の断片のようだ。
D方向から撮った写真、Cに近い部分であるためか、こちらの発掘も瓦ケが多いが、慎重に発掘していくと瓦以外のものも発掘される。目を凝らして瓦以外のものを探すと・・・
E方向から撮った写真、ワイが写真を撮った時、説明パネルが反射していて白く光っている部分があり見にくいが、縦に二筋の溝があるのをよく見てほしい。これは発掘出土分布地図を見てもらうとわかるが、溝の跡である。給水か排水かはたまた別の用途か、ともかく何らかの溝である。途中横に堰止めたように壁のようになっているのは、先にいったようにトレンチを掘り調べているが、この部分はトレンチを掘っていないのでそのまま残っている。だから縦長にまっすぐ溝が走っているとみてよい。
F方向から撮った写真、建物の跡
次は発掘の出土物、次のようなものが出た。須恵器、瓦などは文様・様式などで年代を推定できる貴重な資料である。砲弾型の小さなものは螺髪といっていわゆる大仏頭のパンチの一部分、51個も出土した。
土製の螺髪がでたことから金堂に安置されていた本尊(あるいは脇仏かもしれないが)は塑像製であったと思われる。仏像の材質は 5種類(木彫, 乾漆, 塑像, 鋳造, 石仏)あり、塑像(そぞう)は粘土で造る。塑像は中国伝来のもので、奈良時代のものが多い。塑像の特徴は湿度の影響を受け、干割れがおきたり彩色がはげたりしやすい反面、きめ細かに仕上げられる。塑像製は、天平仏に多い。
これらの出土物からこの川島廃寺(大日寺)の創建年代は早い場合は7世紀後半、遅くても8世紀前半であると推定されている。
発掘出土分布地図を見てもわかるように発掘は廃寺のあった敷地の一部である。もっとこの川島廃寺(大日寺)について知るには、廃寺の敷地全体の発掘ができればいいが、残念ながら周りは家が建て混んでいて容易には次の発掘作業はできない。しかし10年、20年いや100年のスパンで気長く待てばやがて更地にする家々も出てこようから、順次発掘を進めればよいが、何世代にもわたる長期事業になる・・・・・ワイはもう生きとれへんわ!
2019年6月28日金曜日
2019年6月27日木曜日
古代阿波の廃寺3 石井廃寺
われわれは石井廃寺と呼んでいるがその寺が存立していた時にはもちろん正式な名はあった。しかし廃寺となって久しいのでその寺の名称はわからなくなっている。それで現在廃寺の遺跡のある地名をとって石井廃寺と呼んでいる。できれば文献資料かまたは発掘された木簡などによって寺の名が判明すればよいのだが現在のところわかっていない。先に紹介した郡里廃寺は古くからの伝承で「立光寺」と言われていたようであるが、それも地元古老の言い伝えで確証されたものではない。
まず石井廃寺の位置を確認してみよう。百聞は一見に如かずでその廃寺跡の鳥観図を見てみる。二つのそう高くない山に囲まれて北へ(写真では右下方)向かって広がった扇状地に位置している。少し上手には堰堤を築いて作った溜池があるがこれは最近のもので古代には上流は狭まった谷であり、廃寺のあたりで広がる扇状地であった。もちろん谷筋から流れてきた小川が廃寺あたりを流れていた。現在すぐ南には(上方)童学寺もある。
この辺り石井町の中では田園地帯で人口も希薄である。現在石井町の繁華な場所、人口稠密地帯は北の飯尾川や吉野川に近いあたりとなっている。しかし古代は違った。北の低地地帯でなくこの辺りの山麓や扇状地などの微高地が農業を行い、居住する地区であった。土木技術の発達していない古代においては飯尾川や吉野川はたびたび氾濫をおこし、現在は田畑が広がる沖積平野は当時は沼沢が広がる水はけの悪い農業・居住には不向きな場所であった。だから石井町の古代遺跡や遺物は高地である南の山麓にある。
石井廃寺の創建の年代であるが何年とわかっているわけではない。発掘遺物の調査の結果、おそらく8世紀前半の奈良時代前期とみられている。先の郡里廃寺は白鳳時代(710年以前)なので石井廃寺のほうが世代にして2世代くらい新しい(40~50年)。このような廃寺の場合、年代推定の手掛かりになるのは発掘遺物特に瓦、そして礎石の配置などからわかる寺院の伽藍形式などである。木簡などが見つかってそれに何か記されていれば重要な手掛かりとなるが石井廃寺の場合そのような木簡類はない。
下は石井廃寺発掘から見つかり、推定の手掛かりの一つとなった瓦
廃寺跡を見学する、上図の鳥観図で言うと右下方からの小道を童学寺の方へ向かって行くと廃寺跡の説明板が見えてくる。奥の山すそには童学寺の山門が見えている。
説明板を見る。後方の廃寺の敷地では(金堂と塔の敷地のみで広かった寺の敷地は現在大部分が農地である)礎石跡が見られる。先の郡里廃寺では塔のごく一部の礎石しか残っていなかったが、この石井廃寺ではうれしいことに金堂、塔の礎石がほぼ完全に残っている。実際礎石を見てみるとこの説明板のように整然と並んでいるのがわかる。
塔跡の礎石、中心の礎石は「心礎」といわれ円形枘穴(ほぞあな)がある。心礎の写真も重ねておく。
塔の礎石の後方に金堂跡の礎石が並んでいる。
この廃寺を建てた人物であるがもう一度最初の説明板写真を見てほしい。豪族の名前があがっている。もちろん断定ではないが、その関連を指摘している。その名は「粟凡直弟」(あわのおおしのあたえ〇〇?)と呼んでいる。郡里廃寺では名前どころか氏族さえわかっていないのにどうして石井ではそのように具体的な名前まで推定できるのか。それはこの廃寺のすぐ東のやはり山裾に当時(養老七年とあるから西暦722年)の豪族の墓碑がそこにある神社の御神体として祀られているからである。
その墓碑を見てみよう。瓦と同じ焼成したものでできていて表面に墓誌が刻んである。神社の御神体なので手ンごろ易く見られないが県立博物館にレプリカがある。
西暦722年といえば奈良時代の初め、まさに石井廃寺が作られた時期と一致する。この人物が石井廃寺の建立にかかわっていると推定されるのは当然であろう。
その神社は中王子神社といい、以前、その神社にある墓碑についてブログを作っているのでこちらもご覧ください。
まず石井廃寺の位置を確認してみよう。百聞は一見に如かずでその廃寺跡の鳥観図を見てみる。二つのそう高くない山に囲まれて北へ(写真では右下方)向かって広がった扇状地に位置している。少し上手には堰堤を築いて作った溜池があるがこれは最近のもので古代には上流は狭まった谷であり、廃寺のあたりで広がる扇状地であった。もちろん谷筋から流れてきた小川が廃寺あたりを流れていた。現在すぐ南には(上方)童学寺もある。
この辺り石井町の中では田園地帯で人口も希薄である。現在石井町の繁華な場所、人口稠密地帯は北の飯尾川や吉野川に近いあたりとなっている。しかし古代は違った。北の低地地帯でなくこの辺りの山麓や扇状地などの微高地が農業を行い、居住する地区であった。土木技術の発達していない古代においては飯尾川や吉野川はたびたび氾濫をおこし、現在は田畑が広がる沖積平野は当時は沼沢が広がる水はけの悪い農業・居住には不向きな場所であった。だから石井町の古代遺跡や遺物は高地である南の山麓にある。
石井廃寺の創建の年代であるが何年とわかっているわけではない。発掘遺物の調査の結果、おそらく8世紀前半の奈良時代前期とみられている。先の郡里廃寺は白鳳時代(710年以前)なので石井廃寺のほうが世代にして2世代くらい新しい(40~50年)。このような廃寺の場合、年代推定の手掛かりになるのは発掘遺物特に瓦、そして礎石の配置などからわかる寺院の伽藍形式などである。木簡などが見つかってそれに何か記されていれば重要な手掛かりとなるが石井廃寺の場合そのような木簡類はない。
下は石井廃寺発掘から見つかり、推定の手掛かりの一つとなった瓦
廃寺跡を見学する、上図の鳥観図で言うと右下方からの小道を童学寺の方へ向かって行くと廃寺跡の説明板が見えてくる。奥の山すそには童学寺の山門が見えている。
説明板を見る。後方の廃寺の敷地では(金堂と塔の敷地のみで広かった寺の敷地は現在大部分が農地である)礎石跡が見られる。先の郡里廃寺では塔のごく一部の礎石しか残っていなかったが、この石井廃寺ではうれしいことに金堂、塔の礎石がほぼ完全に残っている。実際礎石を見てみるとこの説明板のように整然と並んでいるのがわかる。
塔跡の礎石、中心の礎石は「心礎」といわれ円形枘穴(ほぞあな)がある。心礎の写真も重ねておく。
塔の礎石の後方に金堂跡の礎石が並んでいる。
この廃寺を建てた人物であるがもう一度最初の説明板写真を見てほしい。豪族の名前があがっている。もちろん断定ではないが、その関連を指摘している。その名は「粟凡直弟」(あわのおおしのあたえ〇〇?)と呼んでいる。郡里廃寺では名前どころか氏族さえわかっていないのにどうして石井ではそのように具体的な名前まで推定できるのか。それはこの廃寺のすぐ東のやはり山裾に当時(養老七年とあるから西暦722年)の豪族の墓碑がそこにある神社の御神体として祀られているからである。
その墓碑を見てみよう。瓦と同じ焼成したものでできていて表面に墓誌が刻んである。神社の御神体なので手ンごろ易く見られないが県立博物館にレプリカがある。
西暦722年といえば奈良時代の初め、まさに石井廃寺が作られた時期と一致する。この人物が石井廃寺の建立にかかわっていると推定されるのは当然であろう。
その神社は中王子神社といい、以前、その神社にある墓碑についてブログを作っているのでこちらもご覧ください。
2019年6月26日水曜日
古代阿波の廃寺2 郡里廃寺の近くにある段の塚穴
先のブログで郡里廃寺を紹介しました。この寺はおそらく7世紀の終わりころ創建と思われます。それより少し古い古代遺跡がこの郡里廃寺から東へ2Kmばかし行ったところにあります。古墳時代末期に作られた円墳群がそれです。その円墳にある横穴式石室は大きさと言い、そのしっかりした構造と言い立派なもので全国的にも注目を浴びています。現在、我々が見学できる円墳群は2つあり、太鼓塚古墳、棚塚古墳と名づけています。
美馬市の観光ホームページから引用させていただくと次のようなものである。
<引用>
段の塚穴は、徳島県美馬市美馬町字坊僧の河岸段丘先端にある2基の古墳のことです。2基の古墳は、どちらも古墳時代後期(約1400年前)につくられたもので、約25mの距離を隔てて東西に並んでおり、東の大きい古墳が太鼓塚古墳、西の小さい古墳が棚塚古墳と呼ばれています。特に太鼓塚古墳は、その石室規模や特異な構造から、四国の古墳時代史解明に欠かせない重要な遺跡であり、昭和17年に徳島県初の国史跡に指定されています。
太鼓塚古墳は、直径約37m、高さ約10mの円墳で、中心部には埋葬施設として横穴式石室があります。石室の規模は、全長13.1m(玄室長4.8m)、高さ4.3m、幅3.4mで、四国最大級の石室規模です。また、その構造は玄室(棺をおさめる部屋)をドーム状にするという特異なものです。
棚塚古墳は、直径約20m、高さ約7mの円墳で、埋葬施設として横穴式石室をもちます。石室規模は、全長8.7m(玄室長4.5m)、高さ2.8m、幅2.0mで、太鼓塚古墳と同じく、玄室をドーム状にする。また、玄室奥壁には、古墳の名称の由来と思われる立派な石棚がある。
古墳時代の終末期は7世紀末である、とすると先に見た「郡里廃寺」の創建年代と重なってくるのではないか。先に引用した観光課のホムペによると(もちろん専門家である教育委員会の学芸員が作成したものだろう)この古墳群は約1400年前につくられたとかいてある。そうするとピッタリ重なり合うわけではないが郡里廃寺の創建年代とは100年未満の違いしかなくなる。
わずか2Kmの距離でかたや当時四国一の大伽藍寺院、かたやこちらも百年を遡らず四国一の大きさと立派さを誇る横穴式石室を持つ古墳、どちらも同じ氏族の豪族が作ったと推理されるのは当たり前である。専門家もやはりそのように見ている。具体的な氏族名はわかっていないようだが、古墳~飛鳥~白鳳時代にかけて地方の豪族は今の郡単位の広さの勢力圏を持っていて、国造(くにのみやつこ)、県主(あがたぬし)、直(あたい)などと呼ばれていた。そういった豪族であろう。寺と古墳が100年未満の期間しかないということを考えると、もしかすると郡里廃寺を作った豪族のジイチャンかヒイジイチャンがこの横穴式石室の被葬者だったのかもしれない。
その太鼓塚古墳、棚塚古墳を見学行きました。一般的には「段の塚穴」と呼ばれています。もし見学される場合は、わずかな距離でしかも同じ豪族が作ったものと思われているので郡里廃寺とセットで見学することをお勧めします。
羨道から玄室までしっかりした石造りなので1400年たった今でも羨道を通って玄室まで中に入って見学できます。あらかじめ懐中電灯を持っていったので玄室まで入って石壁、天井も観察してきました。太鼓塚古墳は羨道の幅も玄室も広いので余裕であちらこちら見回せましたが棚塚古墳は羨道が狭いうえに低く、しゃがんで入った玄室も小ぶりで光もほとんど入らず、懐中電灯の光もおぼつかなく、暗く湿った場所でした。おまけに上からは得体のしれぬものがポタリポタリトと落ちてくる音がするので不気味でした。この感じは、古事記に妻イザナミが黄泉の国に旅立った後を慕って夫イザナギが黄泉の国を訪れる話がありますが、その黄泉の国へ行く暗い道筋、そして死者の国の住人となった妻イザナミが暮らす黄泉の国の部屋などを彷彿とさせます。古事記が口承されていた時代はこの横穴式石室の古墳の時代であります。なんかこの古事記の記述はその記憶(死者を葬るため羨道を通って玄室へ行く)が元になったのじゃないのかなと思います。
説明板拡大図
石の説明碑もある
こちらが大きいほうの太鼓塚古墳石室入り口、羨道を通って入ると中の玄室は意外と大きくて広い。
入り口からつづく羨道
玄室内でフラッシュをたいて上向きに撮影する。
こちらが棚塚古墳、羨道は狭く低い、屈んで玄室に入る。
美馬市の観光ホームページから引用させていただくと次のようなものである。
<引用>
段の塚穴は、徳島県美馬市美馬町字坊僧の河岸段丘先端にある2基の古墳のことです。2基の古墳は、どちらも古墳時代後期(約1400年前)につくられたもので、約25mの距離を隔てて東西に並んでおり、東の大きい古墳が太鼓塚古墳、西の小さい古墳が棚塚古墳と呼ばれています。特に太鼓塚古墳は、その石室規模や特異な構造から、四国の古墳時代史解明に欠かせない重要な遺跡であり、昭和17年に徳島県初の国史跡に指定されています。
太鼓塚古墳は、直径約37m、高さ約10mの円墳で、中心部には埋葬施設として横穴式石室があります。石室の規模は、全長13.1m(玄室長4.8m)、高さ4.3m、幅3.4mで、四国最大級の石室規模です。また、その構造は玄室(棺をおさめる部屋)をドーム状にするという特異なものです。
棚塚古墳は、直径約20m、高さ約7mの円墳で、埋葬施設として横穴式石室をもちます。石室規模は、全長8.7m(玄室長4.5m)、高さ2.8m、幅2.0mで、太鼓塚古墳と同じく、玄室をドーム状にする。また、玄室奥壁には、古墳の名称の由来と思われる立派な石棚がある。
古墳時代の終末期は7世紀末である、とすると先に見た「郡里廃寺」の創建年代と重なってくるのではないか。先に引用した観光課のホムペによると(もちろん専門家である教育委員会の学芸員が作成したものだろう)この古墳群は約1400年前につくられたとかいてある。そうするとピッタリ重なり合うわけではないが郡里廃寺の創建年代とは100年未満の違いしかなくなる。
わずか2Kmの距離でかたや当時四国一の大伽藍寺院、かたやこちらも百年を遡らず四国一の大きさと立派さを誇る横穴式石室を持つ古墳、どちらも同じ氏族の豪族が作ったと推理されるのは当たり前である。専門家もやはりそのように見ている。具体的な氏族名はわかっていないようだが、古墳~飛鳥~白鳳時代にかけて地方の豪族は今の郡単位の広さの勢力圏を持っていて、国造(くにのみやつこ)、県主(あがたぬし)、直(あたい)などと呼ばれていた。そういった豪族であろう。寺と古墳が100年未満の期間しかないということを考えると、もしかすると郡里廃寺を作った豪族のジイチャンかヒイジイチャンがこの横穴式石室の被葬者だったのかもしれない。
その太鼓塚古墳、棚塚古墳を見学行きました。一般的には「段の塚穴」と呼ばれています。もし見学される場合は、わずかな距離でしかも同じ豪族が作ったものと思われているので郡里廃寺とセットで見学することをお勧めします。
羨道から玄室までしっかりした石造りなので1400年たった今でも羨道を通って玄室まで中に入って見学できます。あらかじめ懐中電灯を持っていったので玄室まで入って石壁、天井も観察してきました。太鼓塚古墳は羨道の幅も玄室も広いので余裕であちらこちら見回せましたが棚塚古墳は羨道が狭いうえに低く、しゃがんで入った玄室も小ぶりで光もほとんど入らず、懐中電灯の光もおぼつかなく、暗く湿った場所でした。おまけに上からは得体のしれぬものがポタリポタリトと落ちてくる音がするので不気味でした。この感じは、古事記に妻イザナミが黄泉の国に旅立った後を慕って夫イザナギが黄泉の国を訪れる話がありますが、その黄泉の国へ行く暗い道筋、そして死者の国の住人となった妻イザナミが暮らす黄泉の国の部屋などを彷彿とさせます。古事記が口承されていた時代はこの横穴式石室の古墳の時代であります。なんかこの古事記の記述はその記憶(死者を葬るため羨道を通って玄室へ行く)が元になったのじゃないのかなと思います。
説明板拡大図
石の説明碑もある
こちらが大きいほうの太鼓塚古墳石室入り口、羨道を通って入ると中の玄室は意外と大きくて広い。
入り口からつづく羨道
玄室内でフラッシュをたいて上向きに撮影する。
こちらが棚塚古墳、羨道は狭く低い、屈んで玄室に入る。
まとめ動画
2019年6月25日火曜日
古代阿波の廃寺1 郡里廃寺
寺が古いということは、それだけでなにか尊いものである。しかし創建時の寺の建物は幾星霜を経る間に朽ちたり、火災にあったりして消滅してしまう場合が多い。千年以上も前に創建された寺などはほとんどがそうなっている。しかし創建当時の寺は残っていなくてもその場所に寺が再建され、本尊、あるいは寺宝など創建時のものが残り、もちろん寺の名前も変わらず、同じ信仰を伝えていれば創建当時から途切れず続く寺と見てよいだろう。
日本に仏教が正式に伝えられたのは6世紀といわれている(西暦538年説と552年説がある)、だから日本で一番古い寺は当然この時代に作られたものであるが、寺らしい伽藍配置の建物群が出来たのは仏教公伝より少し遅くなる。西暦587創建の飛鳥寺が最初といわれている。この寺は今も奈良県明日香に存在するから、もっとも古い寺といっていいだろう。しかし最古といえばこの飛鳥寺より法隆寺の方が有名である。法隆寺の方はこの飛鳥寺より20年ほど創建は新しいが、こちらは7世紀後半一度火災にあって再建されてから以後、火災にあうこともなく補修はしたが当時の建築が今も残っていて、結局世界最古の木造建築物となったので、実質、もっとも古い寺と言ってはこちらの方を第一に挙げている。
この阿波で古い寺を挙げるとするなら8世紀聖武天皇の発願で国ごとに作られた国分寺が思いつく。この国分寺は今もほぼ当時の位置に同じ名前で存在している。しかし当時の建物は当然残っていないとしても当時の本尊や寺宝が残っているかというとそのようなもので継承されたものはないし、中世には廃寺となっていた時期もあった、さらに近世になっては宗派が曹洞宗の寺になっている。そうなると名前だけは国分寺だが、聖武天皇ゆかりの8世紀から続く古い寺とはちょっと言えない。この国分寺の少し北にやはり聖武天皇発願の国分尼寺の廃寺跡があるが、8世紀天平時代の国分寺も名こそ今に残ってはいても実際は廃寺となっているといっていいだろう。
その廃寺をこの阿波の中でさがすとかなり古い寺が存在していた。もちろん上記の国分寺よりも古く7世紀後半から8世紀のごく初期創建とされる廃寺がいくつかある。そのような古い阿波の廃寺は3つ知られている(しかし今後発掘や発見があればもっと増えるかもしれない)「郡里廃寺」「川島廃寺」「石井廃寺」である。その3つの廃寺を見て回ってきたので今回はその中の「郡里廃寺」をとりあげます。
まずその創建の古さだが、西暦何年と正確に判明しているわけではないが、発掘の考古学的な検証などの結果、複数の専門家の一致するところは「白鳳時代」であろうとされている。〇〇時代とあるからには、一定期間の長さがある。白鳳期とは天武天皇前後の時代と言われているからだいたい7世紀後半から8世紀初期までくらいである。西暦で言うと大化の改新のあった645年から平城京への遷都の年710年頃までの幅がある。
ずっと後の8世紀中ごろの天平時代、聖武天皇の命令で全国各地に国分寺が作られたのは先に述べたが、天平時代の国分寺のように地方の寺院は何か大和地方の中央集権的な命令や権威で作られたようなイメージがある。命令ではなくても地方にできる寺院は、中央の仏教寺院をまねて、あるいはその様式が地方にじょじょに普及して作られたと考えがちである。だから大和地方の寺院よりずっと遅れて創建されたのではないか、また地方へ伝播するにつれて劣化コピーとなり伽藍の規模や建築様式も貧弱になっているのではないかとの先入観があるかもしれないが、この郡里廃寺を見ると大和と同時並行に立派な伽藍建築の寺院が創建されていたことがわかる。しかしよく考えると、仏教はインドに誕生しインド北西部のガンダラ地方で仏像や大乗の教えが確立して以降、そこを出発し、仏教は東へ東へと伝播してきた(仏教東漸)そしてその東の端のどん詰まりがわが日本である。仏教も日本列島の西の端の九州に上陸し次に中国地方や四国地方、その間に挟まる瀬戸内海を東へ進んできたのである。そのような流れから考えると、九州、中国・四国地方が初めて仏教の洗礼を受けたのは大和より早くても不思議ではない。だから九州西国のほうが(阿波も含む)大和地方より早く、規模はともかく仏教寺院が建てられていた可能性は否定できない。
また大和地方は全国政権である大和朝廷が存在している。その政権は有力豪族の連合政権でありその上に「大王」(おおきみ)が君臨する構造であり、その有力氏族の中には神事をつかさどる有力豪族もいる。そのような豪族が崇めるのは古代からある伝統的な宗教、古代神道である。これに対し仏教は異国から伝わった全く新しい宗教であった。すんなりと受け入れるにはそうとうな抵抗がある。日本書紀によると仏教容認派の蘇我氏に対し反対する豪族が多かったとある。そんな中央豪族よりむしろ地方の身軽な小豪族のほうが、いろいろな思惑でせめぎあう大和の中央豪族より、すんなりと仏教を受け入れたのではないだろうか。素晴らしいから受け入れるという点では地方豪族のほうがずっと素直だったわけである。彼らにとって魅力的だったのはその「教え」よりももたらされた「仏像」のキラギラしく輝く荘厳さがまずはじめであったような気がする。そして仏教に伴ってやってきた建築技術は地方豪族にとって斬新で誇るべき権威の象徴として全く素晴らしいものであった。瓦葺の大伽藍、そびえる塔、響く鐘楼の鐘の音、舶来の異香、などなど、見たことも聞いたこともないモダンなものばかりである。そのうえ仏像や経を崇めることにより現生利益がかなえられ、後生も救われるとなれば、財力がある地方豪族が仏教を受け入れたのも頷けることである。もしかすると大和地方とはほとんどかかわりなく、直接大陸の方から(仏像や、経、建築技術を持つ帰化人)などを取り入れて寺院伽藍を作ったかもしれない。実際にそのように指摘する研究者もいるようである。そう考えてもよいほど大和の寺とこの阿波の西部にある郡里廃寺は同じくらいに古いのである。
それでは以下、私が見学した郡里廃寺を紹介しましょう。(6月24日見学)
寺域の北の部分からが入り口となっている。入り口の横には長樹齢の銀杏の大木とお堂がある。入り口を入ったところに説明板がある。
わが阿波国では一番古い伽藍建築寺院と聞いていたが、説明の立て看板を見ると「四国最古」となっている。
どんな寺だったのか、想像して書いた図が掲示されてあった。東西94m、南北120mの敷地に立つ寺院である。庶民が竪穴式住居に近い建物に住んでいたこの時代、瓦葺のこの大伽藍が人々の目にどのように映っただろうか。
今、発掘作業も終わり史跡公園の整地が進められている。地上から見える廃寺跡の名残りは、上図の想像伽藍図の塔の基壇部分が少し盛り上がったマウンドになっており、また当時の塔の礎石が二個その上に残っていて見えている。二個のうち東の方の礎石は当時の位置のままである(左の石)、二枚目は反対から撮った写真で二つの礎石のうち右が当時の位置の礎石となる。
その塔跡の説明板
寺域の南東の隅部分にも説明板と寺域図がある。南東部分からの眺めと説明板
廃寺の敷地部分は今後史跡公園として整備される予定である。今は広い荒れ野になっている。
まとめ動画
日本に仏教が正式に伝えられたのは6世紀といわれている(西暦538年説と552年説がある)、だから日本で一番古い寺は当然この時代に作られたものであるが、寺らしい伽藍配置の建物群が出来たのは仏教公伝より少し遅くなる。西暦587創建の飛鳥寺が最初といわれている。この寺は今も奈良県明日香に存在するから、もっとも古い寺といっていいだろう。しかし最古といえばこの飛鳥寺より法隆寺の方が有名である。法隆寺の方はこの飛鳥寺より20年ほど創建は新しいが、こちらは7世紀後半一度火災にあって再建されてから以後、火災にあうこともなく補修はしたが当時の建築が今も残っていて、結局世界最古の木造建築物となったので、実質、もっとも古い寺と言ってはこちらの方を第一に挙げている。
この阿波で古い寺を挙げるとするなら8世紀聖武天皇の発願で国ごとに作られた国分寺が思いつく。この国分寺は今もほぼ当時の位置に同じ名前で存在している。しかし当時の建物は当然残っていないとしても当時の本尊や寺宝が残っているかというとそのようなもので継承されたものはないし、中世には廃寺となっていた時期もあった、さらに近世になっては宗派が曹洞宗の寺になっている。そうなると名前だけは国分寺だが、聖武天皇ゆかりの8世紀から続く古い寺とはちょっと言えない。この国分寺の少し北にやはり聖武天皇発願の国分尼寺の廃寺跡があるが、8世紀天平時代の国分寺も名こそ今に残ってはいても実際は廃寺となっているといっていいだろう。
その廃寺をこの阿波の中でさがすとかなり古い寺が存在していた。もちろん上記の国分寺よりも古く7世紀後半から8世紀のごく初期創建とされる廃寺がいくつかある。そのような古い阿波の廃寺は3つ知られている(しかし今後発掘や発見があればもっと増えるかもしれない)「郡里廃寺」「川島廃寺」「石井廃寺」である。その3つの廃寺を見て回ってきたので今回はその中の「郡里廃寺」をとりあげます。
まずその創建の古さだが、西暦何年と正確に判明しているわけではないが、発掘の考古学的な検証などの結果、複数の専門家の一致するところは「白鳳時代」であろうとされている。〇〇時代とあるからには、一定期間の長さがある。白鳳期とは天武天皇前後の時代と言われているからだいたい7世紀後半から8世紀初期までくらいである。西暦で言うと大化の改新のあった645年から平城京への遷都の年710年頃までの幅がある。
ずっと後の8世紀中ごろの天平時代、聖武天皇の命令で全国各地に国分寺が作られたのは先に述べたが、天平時代の国分寺のように地方の寺院は何か大和地方の中央集権的な命令や権威で作られたようなイメージがある。命令ではなくても地方にできる寺院は、中央の仏教寺院をまねて、あるいはその様式が地方にじょじょに普及して作られたと考えがちである。だから大和地方の寺院よりずっと遅れて創建されたのではないか、また地方へ伝播するにつれて劣化コピーとなり伽藍の規模や建築様式も貧弱になっているのではないかとの先入観があるかもしれないが、この郡里廃寺を見ると大和と同時並行に立派な伽藍建築の寺院が創建されていたことがわかる。しかしよく考えると、仏教はインドに誕生しインド北西部のガンダラ地方で仏像や大乗の教えが確立して以降、そこを出発し、仏教は東へ東へと伝播してきた(仏教東漸)そしてその東の端のどん詰まりがわが日本である。仏教も日本列島の西の端の九州に上陸し次に中国地方や四国地方、その間に挟まる瀬戸内海を東へ進んできたのである。そのような流れから考えると、九州、中国・四国地方が初めて仏教の洗礼を受けたのは大和より早くても不思議ではない。だから九州西国のほうが(阿波も含む)大和地方より早く、規模はともかく仏教寺院が建てられていた可能性は否定できない。
また大和地方は全国政権である大和朝廷が存在している。その政権は有力豪族の連合政権でありその上に「大王」(おおきみ)が君臨する構造であり、その有力氏族の中には神事をつかさどる有力豪族もいる。そのような豪族が崇めるのは古代からある伝統的な宗教、古代神道である。これに対し仏教は異国から伝わった全く新しい宗教であった。すんなりと受け入れるにはそうとうな抵抗がある。日本書紀によると仏教容認派の蘇我氏に対し反対する豪族が多かったとある。そんな中央豪族よりむしろ地方の身軽な小豪族のほうが、いろいろな思惑でせめぎあう大和の中央豪族より、すんなりと仏教を受け入れたのではないだろうか。素晴らしいから受け入れるという点では地方豪族のほうがずっと素直だったわけである。彼らにとって魅力的だったのはその「教え」よりももたらされた「仏像」のキラギラしく輝く荘厳さがまずはじめであったような気がする。そして仏教に伴ってやってきた建築技術は地方豪族にとって斬新で誇るべき権威の象徴として全く素晴らしいものであった。瓦葺の大伽藍、そびえる塔、響く鐘楼の鐘の音、舶来の異香、などなど、見たことも聞いたこともないモダンなものばかりである。そのうえ仏像や経を崇めることにより現生利益がかなえられ、後生も救われるとなれば、財力がある地方豪族が仏教を受け入れたのも頷けることである。もしかすると大和地方とはほとんどかかわりなく、直接大陸の方から(仏像や、経、建築技術を持つ帰化人)などを取り入れて寺院伽藍を作ったかもしれない。実際にそのように指摘する研究者もいるようである。そう考えてもよいほど大和の寺とこの阿波の西部にある郡里廃寺は同じくらいに古いのである。
それでは以下、私が見学した郡里廃寺を紹介しましょう。(6月24日見学)
寺域の北の部分からが入り口となっている。入り口の横には長樹齢の銀杏の大木とお堂がある。入り口を入ったところに説明板がある。
わが阿波国では一番古い伽藍建築寺院と聞いていたが、説明の立て看板を見ると「四国最古」となっている。
どんな寺だったのか、想像して書いた図が掲示されてあった。東西94m、南北120mの敷地に立つ寺院である。庶民が竪穴式住居に近い建物に住んでいたこの時代、瓦葺のこの大伽藍が人々の目にどのように映っただろうか。
今、発掘作業も終わり史跡公園の整地が進められている。地上から見える廃寺跡の名残りは、上図の想像伽藍図の塔の基壇部分が少し盛り上がったマウンドになっており、また当時の塔の礎石が二個その上に残っていて見えている。二個のうち東の方の礎石は当時の位置のままである(左の石)、二枚目は反対から撮った写真で二つの礎石のうち右が当時の位置の礎石となる。
その塔跡の説明板
寺域の南東の隅部分にも説明板と寺域図がある。南東部分からの眺めと説明板
廃寺の敷地部分は今後史跡公園として整備される予定である。今は広い荒れ野になっている。
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2019年6月9日日曜日
北の最果ての旅
19900802
カーラジオのニュースでイラクのクウェート侵攻が始まったといっていた。戦争は不可避だとも。
オロロンラインで利尻島が見えてきたので三脚を据えて自動撮影する。利尻富士は残念ながら半分雲に隠れてている。
宗谷岬に近いところ、間宮林蔵が樺太にわたった渡海地の記念碑があったので撮影する。
夕方,宿泊のロッジ前の白樺林で撮影する。
カーラジオのニュースでイラクのクウェート侵攻が始まったといっていた。戦争は不可避だとも。
オロロンラインで利尻島が見えてきたので三脚を据えて自動撮影する。利尻富士は残念ながら半分雲に隠れてている。
宗谷岬に近いところ、間宮林蔵が樺太にわたった渡海地の記念碑があったので撮影する。
夕方,宿泊のロッジ前の白樺林で撮影する。
2019年6月5日水曜日
2019年6月3日月曜日
蜂須賀桜が咲き始めた
20190221
城公園の早咲きの桜、「蜂須賀桜」の花が咲き始めた。昨日の暖かさで一気に咲き始めたようだ。
城公園の早咲きの桜、「蜂須賀桜」の花が咲き始めた。昨日の暖かさで一気に咲き始めたようだ。
こちらは花期が長い「ヤブツバキ」、こちらも次々花をつけだした。
花全体がそのままポタリと落ちるのが椿の花の特徴だ。
火祭り
20190207
昨夜、熊野の新宮で「お灯祭」が行われたと、今日の朝刊(読売)に載っていた。女人禁制で大勢の男衆が白装束の特異な格好で大きな松明をもって社殿の石段を駆け降りる勇壮な火祭りである。下は昨夜のその写真である。昔(もう35年ほどにもなるか)中上健次原作の映画『火祭り』をみて熊野新宮にこの祭りがあることは知っていたが2月6日に行われているとは知らなかった。
昨夜、熊野の新宮で「お灯祭」が行われたと、今日の朝刊(読売)に載っていた。女人禁制で大勢の男衆が白装束の特異な格好で大きな松明をもって社殿の石段を駆け降りる勇壮な火祭りである。下は昨夜のその写真である。昔(もう35年ほどにもなるか)中上健次原作の映画『火祭り』をみて熊野新宮にこの祭りがあることは知っていたが2月6日に行われているとは知らなかった。
よく似た時期、やはり大松明を振り回して行う行事に東大寺の「お水取り」がある。正式には修二会というそうだが、お水取りとわれわれ俗称で呼んでいるのになんで火祭りのように大松明を振り回すのか疑問だが、「修二会」はさまざまな儀式から成り立っており、二月堂の舞台で火のついた松明を振り回す「お松明」もその一つであり、俗称で呼んでいるように「お水取り」の儀式もある。こちらは今年は3月の12日の夜行われる。下は二月堂の「お松明」の儀式
子供の頃、ジイチャンバアチャンが「奈良のお水取りがすまなんだら、まだまだ寒い」 と今頃の時期よくいっていたが、冬の温暖化が著しい今日この頃、そんな言い草も使われないだろうな。
なお、このお水取りの「水」のことを「閼伽」(アカ)というがこれは梵語サンスクリット語からきている。サンスクリット語は印欧語の仲間で同族のラテン語では「水」は「アクァ」というからまさに「閼伽」とはよく似た発音で親戚の言葉である。
今日はあったかく体感的には桜が咲く直前のような陽気である。気持ちの良い天気なので午後少し遠出をした。行ったのは大神子海岸で浜から磯までの遊歩道を散策した。
寒中の花・モラエス花
20190116
我が徳島はありがたいことに冬でも氷点下になることは少なく、積雪などもほとんどないため、寒中でもいろいろな花が見られる。寒椿、山茶花、水仙、三色菫、冬咲きの薔薇、などなど、その他ちょっと挙げられないくらい種類は多い。その中でわが地元では『モラエス花』とよんでいる黄花亜麻の花が今真っ盛りに咲いている。
滝薬師から眉山へ上る石段の横(左)に黄色く見えるのが群生しているモラエス花だ。
モラエス花と滝(白糸の滝というそうだが今は水量は少なくチョロチョロとしか流れていない)
モラエス花と滝のお不動さん
華やかな黄色い花の群生を見ているととても寒中とは思えず初夏のような雰囲気になってくる。
この花、『黄花亜麻』はアマ科の常緑小低木でインド北部から中国に書けての山地が原産だそうである。100年前にモラエスさんがここ大滝山に植えたと伝えられているそうだが、モラエスさんの著作類、手紙にはその証拠はない、ハッキリしない言い伝えではあるが、地元ではモラエス花と名づけモラエスさんを偲んでいる。
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