2012年4月1日日曜日

阿修羅像三面六臂


 阿修羅は戦いの神である。常に休むことなく戦うことを運命づけられている。人も生きている限りある意味、戦いは止むことはない。阿修羅の三面(三つの顔を持つ)に以下の、人が持つ『自分の三面』を重ねてしまいました。

 まず『唯一の自分』、これ以外の「者」は存在しないと考えましょう。図にするとこのようなものでしょうか。
 空虚な空間にポッカリ、一人うかんでいる図をイメージしてください。これから実はこのようなイメージ図はあと2つ出しますが、この最初の図が一番ありうるべからざる図、のような気がしますね。
 だって、人は自分以外存在しないなんて考えられますか?経験から言ってそんなバカなと思うでしょう。
 この図はただのたわごと、絵空ごとの設定のようですね。

 しかし、深く考えるとこの図はもっとも自分の存在の根本的な姿といえなくもないのです。

 それは、

 「なぜ、自分はここに存在するのか?そしてやがて時が経過し、自分が消滅する死とは何か?」

 というようなもっとも根源的な疑問・問題に行き当たるとき、人はこのような図を一度ならず思い浮かべるものではないでしょうか。

 ぞっとするほど恐ろしい、やり切れぬ孤独とその行き場のない恐怖が湧いてきますが、『死・消滅』をじっと見据えた場合、この図は自分に迫ってきます。

 こんな恐ろしいイメージ図をずっと抱き続けていることは普通の神経の人間には出来そうもない気がします。

 こんな図を、死を想起しちらりと思い浮かべた人であっても、あえて打ち消すか、意識下に押し込んで想い浮かべない人が大半でしょう。

 ところが「哲学者」というのはこれをあえてやるひとなんですね。徹底して全部懐疑した結果、上図に行きつき、絶対否定できない唯一無二の「自分」のみがポカリと一人いる空虚から世界を作って行ったんですからすごいですね。デカルトさんなんかがその一人だと思います。



 次はもっとも居心地の良い自分です。このような図をイメージしました。
 絶対者?これ、神とか想像主とかがお嫌いな人は絶対者をobject、自分をsubject、つまり客観的事物、主観的我というふうに解釈してもらっても別段いいと思います。

 第一の図のイメージは人はよりどころ支えるものが何もありません。これには耐えられる人は少ないといいましたが、この第二の図は絶対者がよりどころにも支えにもなるもので、人は安心できます。このような基底のもと生涯をおくれる人は幸せな人かもしれません。

 信仰篤い人、信念を貫いて生きる人、また几帳面な人、法・規則をよく守る人、また正義には命を懸ける人もこういうふうに「自分」を規定している人が多いかもしれませんね。このような「自分」は基本的に「人の目」も気にすることはない。ただ絶対者からのみを気にすればいいわけだから。

 「絶対者」は、人それぞれにもちろん違ってもいいわけだし、これはなかなか人にとって有意義な「自分」ですね。



 最後の第三は次のようなイメージ図です。
 私が一番嫌いな「自分」です。しかしこれこそが生きているホントの自分だ。と言われれば反論のしようがありません。
 この「自分」は第二の図の「自分」と違い、赤裸々な「自分」ではありません。人目を気にし、協調性という衣服を着、表情は他人に見せる「仮面」を常にかぶっています。
 それはいい悪いでなく、社会的動物である人間の宿命です。
 だからこのような「自分」は「社会的な自分」であるといえます。わざわざ社会的と断らなくても。他者との関係性の上の「自分」とはこのようなものではないでしょうか。

 先ほど、表情は他人に見せる仮面といいましたが、英語の「人格」とはギリシャ語の仮面の意であるペルソナが語源でパーソナリティーになったといわれています。「人格」も他者との関係の中から生まれた「自分」の側面であるのでしょう。

 この「自分」は一番不安定で厄介です。しかし切り離すことはできません。

 ところで自分は時々、ぼんやりします。これはどの自分だろうか。第一図かな。

2 件のコメント:

Unknown さんのコメント...

このような分類もあるんですね。でも、なかなかいい分類方法だと思いました。私のはまっているシリウスの理論よりわかりやすいです。
 一番目の「唯一の自分」は私も同感で、さみしくて退屈でやるせないでしょうね。だから今の私たちを作ったのかもしれませんね。他人を!
 2番目のパターンは人類ほとんどの価値観のような気がしますね。絶対者に人格があるかどうかは別にして科学・宗教問わず一般人にもイメージしやすいい概念ですね。最終的には一番目の状態になるのかもしれませんが・・・。
 三番目の状態は、一長一短ありますね。自分似ないものを持っている他人と絡むのは大変面白いですよね。その反面ウマが合わないと大変なことになってしまいますね。別に仮面をかぶる必要はないと思いますけどね。被らなくてもかぶったように見られてるかもしれないし、このふらふらした相対的な関係は幻影以外の何物でもないように思います。(^.^)
 そういえば、おっしゃるとおりぼんやりした時、私の場合は瞑想で純粋意識に達した時は、自分しかいませんね。しかしさみしくも怖くもなく、この上ない充足感と満ち足りた至福の状態ですけどね。ヽ(^。^)ノ

yamasan さんのコメント...

分類などと大げさなものではありません。阿修羅像と常識的に思ったことを数えれば3つあったので結びつけました。

 他者に「自分」が見られる場合、仮面なしに見られたら恐ろしいことになりそうな気がします。

 仮面を外して人に見られるということはどういうことでしょうか、いえ、決して、なにかを隠したいための仮面ではありませんよ。

 見たくも見られたくもない気がします。それは例えれば、死に顔や、熟睡昏睡時の自分の顔のような気がします。

 衒わずに率直に、というのとは違います。その意味でなら、いい性格の一つとして受け入れられます。

 仮面を剥いだら、それは皮膚であり、ドロドロの肉がむき出しというのではおぞましすぎます。

 お互いコメが長くなるのでスパムに入っているようです。