2012年4月30日月曜日
中世のひょうきんもの
家庭でも職場でも「場」や「座」を和ませる愛嬌のあるモノ、あるいは見てるだけで癒されるモノ、がいればいいですね。そんなモノがいるとたとえ一時でも苦しい仕事を忘れ、ぎすぎすした人間関係の悩みもどこかに飛んで行ってしまいますね。そのモノ、人とは限りません。動物の場合もあります。
今日はそのモノを2つ中世絵巻『石山寺縁起絵巻』よりご紹介いたします。
今よりずっと生活が苦しく、厳しい身分制の時代、そんな時代でもみんなを楽しませるひょうきんものはいたんです。絵巻の成立は鎌倉時代末期ですから前に紹介した一遍上人さんの時代とほぼ同じころです。
かなり身分は低い家来です。主人のお供で寺に来ましたが、主人の用事が済む間、待ちくたびれみんな退屈しております。そこでその中の一人の芸達者がこんなことを始めました。みんな大喜びです。
完全な暇つぶし、レクリェーションです。中世にもこんな奴がいたんですね。
一遍さんの旅では犬はたくさん出て気たんですが、猫は皆無でした。ネコが飼われ始めるのは犬よりずっと時代は新しくなります。
この絵巻で猫が出てきますが、その猫、こんな状態です。
私は猫好きだからでしょうか。絵巻の隅の方にちょこっと登場するこの猫を見逃しませんでした。この野性味あふれる中世猫を一目見て気に入ってしましました。
実はこれ、最初見た時、イエネコと思いませんでした。大陸から渡った虎かツシマヤマネコなんじゃないかと思いました。まあ、それはないだろうと思いますが・・・でも、確証はないです。ネコ科に違いないが依然謎の残る怪しげな生き物です。
中世絵巻では本筋と関係のないところ、見逃してしまいそうなところに面白いものがあります。絵巻を読む楽しみですね。
今日はその中から2つの「中世のひょうきんもの」を紹介しました。皆さんの職場や家庭でもこのように和ませるモノ、癒されるモノがあればいいですね。
しわ寄せするのは誰?しわ寄せられるのは誰?
時々、我が町の市内循環無料バスに乗って山川の図書館へ行く。12人乗りの小さなマイクロバスで、停車駅もわずか7つ、一台のバスが一日4往復のいたってのんびりしたバスだ。
運転手さんは私より年配でもう年金暮らしに入っているが、一か月に15日ほどのこの仕事をしている。元は観光バスの運転手さんだったそうで、時々その話もしてくれる。
その運転手さんがこの間言っていたことだが、バスの運転手さんの労働条件が最近とみに悪くなっていると言っていた。
昔は観光バスの運転手さんは結構な高給で、運転手の交代要員もつき、専属のバスガイドさんも乗客接待の専務要員として乗り込んでいて、仕事として魅力のある、よい仕事だったそうである。
北陸の温泉地でバス要員の別部屋だが、ホテルに泊まって楽しんだこともあったと懐かしそうな顔で話してくれる。
しかし、近年、下請けやら、臨時雇いの運転手が多くなり、給料は激減、その分、キツイ時間外労働もこなさなければならなくなり(交代要員やバスガイドもつかなくなって久しい)、大変だそうである。そうなりつつあるときこの運転手さんはやめたので
「今は、もっと厳しいだろうなぁ~」
といっていた。給料は減り、下請けだのアルバイトだのの身分になり、おまけに労働時間や条件が厳しくなるでは、踏んだり蹴ったりである。
さて、そこで今回の事故だ!詳細はみなさん知っているので避けるが悲惨としか言いようがない。一義的には最大の責任は、運転手、そして運行していたバス会社にあるんだろうが、しかし
「それで済ますことはできない。」
まず私がびっくりしたのはそのバスの料金の破格というが聞いてびっくり仰天するような安さである。
「金沢から千葉の浦安まで、ななななんと!3500円!」
いったいどうしたらその料金で大型バスを運行できて、運転手さんの給料が払えるのだろうか?わたしは旅客運輸の専門家ではないが、常識的に考えて
「そんな料金体系で絶対にうまくいくはずがない(継続して安定した経営が安全に行えるという意味で)」
と思うが、私の常識がおかしいんでしょうか?
世は挙げて格安ものの時代。消費者にはありがたいことだ。しかし、我々も心の底では、何か不安に思っていないだろうか?それは先にあげた
「これでホントに継続して安定した経営が安全に行えるのだろうか」
である。消費者に安く提供するということはコストダウンすることが避けれない。そのコストダウンをやるとすればそのしわ寄せはどこに行くんだろう?
古いバスでもできるだけ運用を続け、途切れない使い回し、正規でない安い雇われ(パート、バイトに近いような)運転手をこき使う・・・・
そのような方向に行くのじゃないのでしょうか。
資本家の搾取じゃ、などと大時代がかったことを言うつもりはありません。バス会社も中小乱立し、そのまた下請けの会社は、青息吐息、経営者もこき使われる運転手となんらかわりないところが多いと聞きます。
じゃあ、しわ寄せするのは誰か?3500円という超破格な安いツアーものがネット上で売買される「世の風潮」でしょうか。これ以上は私にはわかりません。
しわ寄せする人はわからなくても、しわ寄せられるのはいつも一円でも安いものに群がる庶民であり、一円でも儲けたい貧しい労働者です。
けがが回復したらこの運転手は重大な事故の容疑者として逮捕され、バス会社もその責から逃れられませんが、それで済ますには何ともやりきれない事故です。
2012年4月29日日曜日
阿波シラサギ大橋
自転車で小松海岸へ行った。行くときは新吉野川大橋を渡ったが、帰りは阿波白鷺大橋を渡り初めした。
小松海岸
橋は、歩いて渡っている人がかなりいた。風が強く、自転車をこいで渡る私は大変だった。途中へたばって自転車を置いてベンチに腰を掛けていると、歩いていた女子中学生の5人のグループの子らが
「おじさんがんばって!」
と声をかけてくれたのでうれしくなり、ハッスルしてまた自転車をこぎだした。話しかけると、愛想よく答えてくれるのでまたまたうれしくなる。やはり友達を誘っての渡り初めに来たらしい。元気な女の子らで市内からこの橋を往復して川内まで行ってきたそうである。
若くて美しいお姫様みたいな美少女なので、源氏物語の巻の「橋姫」をちょっと思い浮かべた。
阿波しらさぎ大橋
参照資料
脳内のドーパミンと悟りについて(4月27日、嫁売新聞29面より)
2012年4月28日土曜日
春から初夏へ
20日ほど前は、枝垂桜で満開だったが、葉桜の頃も過ぎ、もうすっかり新緑である。
我が国は四季の変化がはっきりしている気候といわれる。四季、すなわち春夏秋冬であるが、我らの住むこの辺りは、四季で4つにわけるより、6つにわける方が実態に合っているといわれる。
春、初夏、梅雨、夏、秋、冬、である。四季ではなく六季(節)となるが、季節の動植物の移り変わりを見ていると
「なるほど!」
と思う。藤が咲き、上のような新緑をさわやかな風が吹くとき、
「初夏だなぁ」
と確かに感じる。
もう一つ、私のように田舎に住んでいると、春が終わったなあ、と思わせるものがある。それは『代掻き』であり、『田植え』である。
暗くなってくると、今まで田や畑は静かであったものが、急にゲコゲコ、グウァグウァ、ギュイギュイとなき声が聞こえてくる。我が田舎の方言で「おんびき」(なぜ?阿波弁でおんびきというのだろう、御蟆・おんひき、からきているのだろうか、私の仮説ですが・・)の合唱である。初夏の夜の風物である。
『代掻き』
ところでカエルであるが、詩的にもなかなか重要なキャラである。もっとも伝統的な和歌ではカエルは愛嬌があり、滑稽すぎるのか、まず取り上げられない、パロディーとして始まった俳諧、俳句には好んで取り上げられる。
また、詩人草野心平などは前世がカエルではないかと思われるほどカエルの詩を書いている。
しかし、このカエル、近年、驚くほど数が減っているそうである。絶滅の恐れを指摘する人もいる。
カエルはご存じのように脊椎動物を大きく分けた「両生類」に属しているが、この「両生類」そのものが数を減じて滅びつつあるのである。
考えると「両生類」が今存在するのは古生代の(魚から陸生生物に進化した過程での残された)生きた化石と言えないこともないのである。つまり、かなり、(シーラカンスほどではないが)今の存在自体が貴重なのである。
減反で水田も少なくなり、農薬と機械化された田圃ではカエルも生きにくいのだろう。これ以外にも両生類は急速に滅びつつあるが原因はよくわからない。
2012年4月27日金曜日
電気紙芝居その2
今回は江戸歌舞伎の『伊達娘恋緋鹿子』(八百屋お七)と人形振り『櫓のお七』をもとに適当に脚色しました。ご覧ください。
BGM変更バージョン
で、午後10時前に動画をアップしましたが、著作権の関係でブロックされました。実はBGMに『夜桜お七』を持ってきたんですが、ブロックされて私以外は見ることはできません。西田佐知子なんかの曲は大丈夫だったのに坂本冬美はダメでした。
それで急遽、編集しなおしました。BGMにクラッシックの「月光の曲」(ベートーベン)を入れました。
今度は大丈夫だと思います。これで見られなかったらまたコメントください。
BGM変更バージョン
で、午後10時前に動画をアップしましたが、著作権の関係でブロックされました。実はBGMに『夜桜お七』を持ってきたんですが、ブロックされて私以外は見ることはできません。西田佐知子なんかの曲は大丈夫だったのに坂本冬美はダメでした。
それで急遽、編集しなおしました。BGMにクラッシックの「月光の曲」(ベートーベン)を入れました。
今度は大丈夫だと思います。これで見られなかったらまたコメントください。
2012年4月25日水曜日
新人運転手と藤
今日は朝から黄砂の影響で晴れているには違いないのだが、まるで曇りのような天気であった。その白っぽい大気も変化をみせないままそのまま曇りから夜になって雨になった。
今日のブログは昨日列車に乗ったところから始まる。
列車に乗ると若い運転手さんが大声を張り上げて指さし確認をしている。横には教官のような年配の人がいて、ボードに挟んだ書類にチェックをしている。
「これ、仮免練習中か?」
思わず近寄って見てみる。わたしは好奇心いっぱいで見ているが、若い運転手さんは緊張しまくりで私のことなど全然眼中にないみたいである。
昔、自分が仮免で教官を横にのせて自動車を運転したことを思い出した。
「でも、仮免で、お客を乗せてうんてんするかなぁ?」
しかし、確か自動車の仮免も教官を乗せていれば、同乗者を乗せても構わないはずだ。
「そうだ、思い出した。仮免の最終検定の時、検定番号が次の人を後ろのシートに乗せたっけ」
ということはこれ、列車の仮免検定かな。
もう少し見ていたい気もしたが、今日は石井駅で降りた。藤の写真を撮るためである。この石井は藤の名所、駅のすぐ近くに「地福寺」がある。
まず駅で降りるとホームの美しい藤が目に入った。
八重桜から藤を見る
地福寺に行くが、残念ながら藤棚の藤はまだつぼみで見られたものではない。大きな鉢の藤はきれいに咲いて垂れ下がっていた。
地福寺の藤はこの週末からゴールデンウィークにかけて見頃を迎える。藤祭りもここを会場に行われるようなので、良かったら見に行ってください。
帰り、駅のホームの藤棚の下にしゃがみ藤を見上げながら写真を撮った。
藤は我々にとっては今の時期どこにでも見られる日本原産のなんでもない花だが、これ、イギリス人やヨーロッパ人にしてみたら、これらの北国では温室でなければ見られない花。その垂れさがった何とも言えぬ良い匂いのする葡萄のような輝く花房、太陽きらめく南国の藤色の宝石のようなあこがれの花なのです。
藤棚の下での憩いなどは、南国リゾート地での夢のような情景です。藤棚を求めるにはヨーロッパでは南イタリアまで行かなければないそうです。
日本では今の時期どこにでも見られる藤ですけど北国の人々にとっては藤棚、藤の美しい紫、香り、どれも万金に値する夢のような花なのです。
そんなことを思いながら藤の花房を見上げていました。
2012年4月24日火曜日
メリケン流行歌小史学習ノート 16頁
このノートをとる過程でたくさん聴いたジャズ、ロックにすっかり耳が馴れてしまいまい。かつ、音の満腹感でいっぱいになっております。それにもう真面目にノートを作ることにも飽きてきましたので、この『シンガー・ソングライターの登場』をもって、続きを作るのをやめました。ご了承ください。
では、紹介します。
●ジョニ・ミッチェル
●キャロル・キング
●ジェームス・テイラー
●カーリー・サイモン
「You're So Vain」
●ローラ・ニーロ
「Wedding Bell Blues」
●ポール・ウィリアムス
「Just An Old Fashioned Love Song」
●エルトン・ジョン
「Your Song」
「Goodby Yellow Brick Road」
●ギルバート・オサリバン
「Alone Again] 好きな曲でした
「Clair」
●ビリー・ジョエル
「Piano Man」
「Just The Way You Are」
「Honesty」 これもお気に入りでした
●ジョン・デンバー
「Take Me Home,Country Roads」 どこかで誰かのギター伴奏で歌いましたぞ!
「Sunshine on My Shoulders」
●ブルース・スプリングスティーン
「Born in the U.S.A.」
「Glory Days」
この後、まだまだメリケン流行歌小史はあります。ミュージカル、ラテン系、純然たるポピュラーミュージックの系譜と作るのはあります。しかし、次は機会があればということで・・・・・またいつの日か、やろう、という動機が湧き起こって来ればつづきを作ろうと思います。
2012年4月23日月曜日
メリケン流行歌小史学習ノート 15頁
60年代後期から、ロックは前に紹介したハード・ロックとソフト・ロックという2つの大きな流れにわかれていく。ソフト・ロックはフォーク・ミュージックの流れを一部継承しながら、アコースティックで繊細な表現を求め、社会性や政治色から離れたテーマを表現した。
1、ソフト・ロックとアーティスト
●カーペンターズ
「Close To You」
「A Song for You」
「Sing」
「Yesterday Once More」 私が作った動画でどうぞ!
●キャプテン&テニール
「Love Will Keep Us Together」
●ドーン
「Tie A Yellow Ribbon The Ole Oak Tree」
私の青春の歌という気がします。
●ブレッド
「If」
●バート・バカラック
「Raindrops Keep Falling On My Head」
「Do You Know The Way To San Jose」
2、カントリー・ロック
カントリー・ロックはカントリー・ミュージックの素朴な土臭さを残したロックで、70年代に隆盛を極める。60年代中頃まではカントリーミュージックは保守的だと見られていたが、ボブ・ディランがカントリーのメッカ、ナッシュビルでレコーディングしたのをきっかけに、アコースティック感覚のカントリー・ロックに人気が出てくる。
●イーグルス
「Desperade」
「Hotel Carifornia」
●クリーデンス・クリアウォーター・リヴァイヴァル
「Proud Mary」
「Bad Moon Rising」
「Lookin' Out My Back Door」
「Have You Ever Seen The Rain」 大好きな歌の一つでした。
●リトル・フィート
「Dixie Chicken」
クロスビー・スティルス・ナッシュ&ヤング
「Just a Song Befor I Go」
3、ファンク
ファンクは60年代後半に現れたダンサブルなブラック・ミュージックで、ソウル、ジャズ、R&Bなどがブレンドされたリズミックな音楽である。ファンクはほとんどが1コードのヴァンプの連結で出来ており、ベースは通常のリズム・パターンでなくリフを奏する。
ファンクの先頭を切ったのはジェームス・ブラウンで、彼はアフリカの遺産であるリズムに重点を置き、それまでのゴスペルに影響を受けていたメロディックなソウル・スタイルから離れた。
歌詞は内容的にはまとまりに欠けるが、会話調のワーク・ソングやチャント風なスタイルで歌った。
「Papa's God A Brand New Bag」
楽譜を挙げておく。リズム・セクションがポリリズムを構成し、コンスタントでリズミックな伴奏をキープ。ホーン・セクションはバック・リフを奏する。
そのほかのファンク系の作品も貼っておきます。
「Knock Yourself Out」
「Funky Man」
「Sweet Thing」
「Fire」
海で風に吹かれてきた
足腰はこれ以上よくならないようなので、もう見切りをつけて、今ある機能を生かすしかない。
ここ数日天気が悪く引きこもっていたので、久しぶりに晴れた今日は徳島駅から自転車で沖の洲の海を見に出かけた。
途中、福島の海岸通り公園では藤が満開をむかえていた。あまり手入れされていない藤で、野生の山藤のように見える。
この藤の下でお弁当を食べた。藤の花の酔うような香りがしている。それはいいのだが、大型のアブが蜜を求めてぶんぶん周りを飛ぶのには閉口した。
河口について紀伊水道を見る。押し寄せる波をぼんやり見つめながら、潮風を胸いっぱいに吸い込んだ。
風を体に受けていると、ロマン・ローランのジャン・クリストフの一節が思いうかんだ。
『吹け!吹け!……このぼくを、おまえのしたいようにしろ!……ぼくをはこんで行け!……ぼくがどこに行くかをぼくは知っている』
海で風に吹かれていると、いつも心は少年である。
土手にはこれも紫の花、「アザミ」が咲いていた。
メリケン流行歌小史学習ノート 14頁
ハード・ロックとヘヴィ・メタルは、60年代のローリング・ストーンズ、クリーム、ヤードバースなどといったブルース・リバイバルのサウンドから抜け出し、ザ・フーやジミ・ヘンドリックスの影響も受けながらラウドでパワフル、そして攻撃的なスタイルを特徴とする。
この2つのスタイルにはある程度重なる要素もあるが、ハード・ロックの方がブルースやフォーク・ロックのルーツとより密接な関係を維持しており、騒がしくヘヴィーなものだけでなくバラードも歌うのに対し、ヘヴィ・メタルのシンガーは言葉の意味よりもサウンドのパワーに重点を置き、時として聴取困難な歌詞を絶叫することに専念した。
レッド・ツェッペリン、ディープ・パープル、エアロスミス、ヴァン・ヘイレンなどに代表されるハード・ロック・バンドは70年代に形を整え、80年代には商業的にも成功を収める。
それに続いてボン・ジョヴィやガンズ&ローゼズといったむき出しのメタル系のサウンドが特徴のバンドも活動する。
上記の「Highway Star」、私の耳にもなじみがあります。どこで聴いたんでしょうか。
メリケン流行歌小史学習ノート 13頁
こんなのを見てるとアメリカ社会の凄さを感じますね。日本じゃ、まず、無理な芸術ですね。
「なぜ?」
考えても見てください。日本じゃ、狂気を芸術として認める「度量」がありますか?芸術家がドラッグをやって、そこから生まれる作品をみなさんが認めることができますか?
許されないでしょうね。
日本の社会は上意下達の縦社会、若者のグループを作るのでも日本じゃすんなりいきません。まして同じ目標を持つもの同志でコミューンを形成することなどできません。
ところがアメリカじゃあ、そのようなコミューンをつくり、日常的にLSDやマリファナなどによる幻覚状態の中でライブ演奏を行うことで意識交換を試み、それをロック・ミュージックや絵画や詩で表現したのです。
このような若者によるこのような芸術が生まれた時代の評価はいろいろありましょうが、ロックの、あらゆる規範・常識から自由でありたい、という実験と革新の時代であったのかもしれません。
●ジェファーソン・エアプレイン
「Somebody To Love」
●グレイトフル・デッド
「Box of Rain」
●ドアーズ
「Light My Fire」
メリケン流行歌小史学習ノート 12頁
1、イギリスでブルース復活
アメリカのブルースやロックンロールは50年代の後半にイギリスでも人気が出、アメリカのオリジナル曲を手本に、イギリスのコピー・バンドが生まれる。アメリカのR&Bやロカビリー・スタイルがポップ・ミュージックに変わったとき、イギリスではポップになじまないミュージシャンはロックのルーツであるブルースに鞍替えした。60年代初期にはロンドン中にブルース・クラブができる。
●ジョン・メイオール&ブルース・ブレイカーズ
「Hideaway」
●アニマルズ
「The House Of The Rising Sun」
●ヤードバース
「Shapes Of Things」
●クリーム
「Sunshine of Your Love」
「Crossroads」
「Layla」
2、ブリティッシュ・インヴェイジョンに対するアメリカの反応
ブルースはロック・ミュージックのルーツの中でも大きな位置を占めており、特に1950年代のロックには欠かせないものだったが、59~64年のアメリカでは商業的にはティーンエイジ・ポップに道を譲っており、若者の音楽指向もよりイージーなポップ・ミュージックに傾いていた。
それに対して60年代半ばのイギリス、特にロンドンを中心にしたブルース系のバンドが次々生まれ、ついにアメリカにまで波及するに至って、本家であるアメリカのブルース・グループに火かつきアメリカン・ブルース・リバイバルが起こる。
●ジミ・ヘンドリックス
「Purple Haze」
「Johnny B. Goode」
●オールマン・ブラザース・バンド
「Hoochie Coochie Man」
「Jessica」
2012年4月22日日曜日
メリケン流行歌小史学習ノート 11頁
(インヴェイジョン・Invasion 侵略という意、まさにキングギドラのように地球を侵略した)
もう今や60歳を越える爺ちゃんや婆ちゃんになった団塊の世代だが当然ティーン・エイジの時代はあった。60年代である。その時代、イギリスから現れた「ビートルズ」の曲は我々に強烈なインパクをもたらした。
ポップス好きなものは熱狂し、また楽器を少しでも弾けるものはにわか仕立ての『グループサウンズ』と称するものを作り、このビートルズの後を追った。
楽器を弾けないものでもギターを手に入れ、促成の「ギター教則本」を前において練習した。おのれの生活や顔、スタイル、楽器のスキルをも顧みず、夢や希望が先行した60年代であった。
我が高校の文化祭の音楽ステージはこのビートルズに影響を受けた即席のグループサウンズによって席巻されてしまった。今から思うととても聴けたものではないが、当時としては、エレキから聞こえる「デケデケデケ・・・」という大音量だけで満足していた。
しかし最初は稚拙なものであったがその中の何人かは、その後、血のにじむような練習を(?)し、素人発掘音楽祭に出て入賞した、という噂も漏れ聞き、ロックミュージックの道に進んだものもいた。でも名前はその後聞かないから、イソップ寓話の「アリとキリギリス」のキリギリスのように冬が来て野垂れ死んだのかも知れない。
話が妙な方向にそれてしまったが、ともかくビートルズはわっしら音楽好きな若者に大きな影響を与えたのである。
1、ビートルズ
ビートルズは、イギリスの港町リバプールで結成されたが、バンドとして確立するまでには、メンバーや名前も何度も変わった。60年に名前が「The Beatles」になり、メンバーも入れ替わりがあった後、62年ドラムスがリンゴ・スターにかわって本格的なスタートを切る。
第二次世界大戦でアメリカ兵たちが残していったブルースやジャズのレコードに触発されて、イギリスでもジャズやブルース・ロックなどが流行、ビートルズも当初はリトル・リチャード、チャック・ベリー、バディ・ホリーらのカヴァー・バンドからスタートした。
62年、ラヴ・ミー・ドゥでレコード・デビュー、イギリスのティーンエイジャーを熱狂させたがアメリカでのデビューは約1年後になる・
「Love me do」
2、アメリカでのビートルズ
ビートルズの売り出しにアメリカでも乗り出したが、彼らのモップのような髪型や印税が障害になり、イギリスより1年遅れて63年12月に「I Wanna Hold Your Hand」を発売した。これはわずか2週間で260万枚を売り上げるというかってない記録をつくった。
「I Wanna Hold Your Hand」
彼らが爆発的な人気を収めた理由は、理屈抜きに明るく若々しい親しみやすい曲の良さがあげられる。また社会的な問題を提起したフォーク・ソングは、若いティーンエイジャーには、わかりにくく、体で直接感じる音楽に飢えていたことも考えられる。
当時のアメリカではアンディー・ウイリアムスやジョニー・マティスなど、上品で口当たりのいい大人の音楽が主流で、ティーン向きの音楽が不足していたこと、コンサートでファンが直接スターに接して陶酔できるアイドルがいなかったこともあげられる。
「Can't Buy Me Love」
「Yesterday」
「Michelle」
「Eleanor Rigby」
「Here,There And Everywhere」
「Hey Jude」
「The Long and Winding Road」
3、ローリング・ストーンズ
ビートルズが活躍する一方で、「ローリング・ストーンズ」が1962年ロンドンで結成された。最初はアメリカのブルースやR&Bなどをカバー・レコーディングしていたが、ミック・ジャガーとキース・リチャーズのコンビで作品を次々と生み、1965年の「Satisfaction」、1966年の「Paint It Black」などの初期の作品は、若者たちの日常性やフラストレーションをワイルドに歌い、支持を広げた。彼らもビートルズ同様、60年代のブリティッシュ・インヴェイジョンとしてアメリカに大きな影響を与えた。
「Satisfaction」
「Honky Tonk Women」
「Angie」
次頁につづく
ビートルズは、イギリスの港町リバプールで結成されたが、バンドとして確立するまでには、メンバーや名前も何度も変わった。60年に名前が「The Beatles」になり、メンバーも入れ替わりがあった後、62年ドラムスがリンゴ・スターにかわって本格的なスタートを切る。
第二次世界大戦でアメリカ兵たちが残していったブルースやジャズのレコードに触発されて、イギリスでもジャズやブルース・ロックなどが流行、ビートルズも当初はリトル・リチャード、チャック・ベリー、バディ・ホリーらのカヴァー・バンドからスタートした。
62年、ラヴ・ミー・ドゥでレコード・デビュー、イギリスのティーンエイジャーを熱狂させたがアメリカでのデビューは約1年後になる・
「Love me do」
2、アメリカでのビートルズ
ビートルズの売り出しにアメリカでも乗り出したが、彼らのモップのような髪型や印税が障害になり、イギリスより1年遅れて63年12月に「I Wanna Hold Your Hand」を発売した。これはわずか2週間で260万枚を売り上げるというかってない記録をつくった。
「I Wanna Hold Your Hand」
彼らが爆発的な人気を収めた理由は、理屈抜きに明るく若々しい親しみやすい曲の良さがあげられる。また社会的な問題を提起したフォーク・ソングは、若いティーンエイジャーには、わかりにくく、体で直接感じる音楽に飢えていたことも考えられる。
当時のアメリカではアンディー・ウイリアムスやジョニー・マティスなど、上品で口当たりのいい大人の音楽が主流で、ティーン向きの音楽が不足していたこと、コンサートでファンが直接スターに接して陶酔できるアイドルがいなかったこともあげられる。
「Can't Buy Me Love」
「Yesterday」
「Michelle」
「Eleanor Rigby」
「Here,There And Everywhere」
「Hey Jude」
「The Long and Winding Road」
3、ローリング・ストーンズ
ビートルズが活躍する一方で、「ローリング・ストーンズ」が1962年ロンドンで結成された。最初はアメリカのブルースやR&Bなどをカバー・レコーディングしていたが、ミック・ジャガーとキース・リチャーズのコンビで作品を次々と生み、1965年の「Satisfaction」、1966年の「Paint It Black」などの初期の作品は、若者たちの日常性やフラストレーションをワイルドに歌い、支持を広げた。彼らもビートルズ同様、60年代のブリティッシュ・インヴェイジョンとしてアメリカに大きな影響を与えた。
「Satisfaction」
「Honky Tonk Women」
「Angie」
次頁につづく
2012年4月21日土曜日
メリケン流行歌小史学習ノート 10頁
1、ポップ・スタイルのロック・ミュージック
ここいら辺りの曲になると、もう私の生きている時代、経験したことになってくる。
私の子ども時代は昭和30代であるが、この頃、田舎の貧しい我が家には蓄音機やもちろんテレビ(昭和28年開始)などもない。祖父の家にあったのは、戦前から棚の上に鎮座していた黒茶のラッカー塗り木製の箱型ラヂヲであった。
今から思うに、これはおそらく3球ラヂヲ、(真空管が3つ)戦前からの古い型だったから、なんと音量の微調整などできない代物だった。音量は大きくいつも一定。ただ、フィードバックつまみがついていて、これをいじると電波が弱い時は音量が大きくなるがハウリングつき(キ~~~、とかピワワ~~~という)、という厄介なものであった。
そしてこのラヂヲ、いつもかけっぱなしであった。昔の電気料金は、定量制で、40ワット電球何個、ラヂヲ1つだから月いくらというもので、だから、かけっぱなしにしても、金は余分にいらないのである。
子どもの耳にはいつもラヂヲの音が聞こえる。演歌だの日本の流行歌だの、あるいはそのころはまだ人気だった浪曲だのも聞こえてくるが、アメリカで流行した原曲のポップ・ミュージックもよく流れていた。
私にとって子ども時代、耳からよく入ってきた曲である。
ニューヨーク・ポップ
サーフ・ポップ
イースト・コーストのティーン向けのポップ・ロック・ミュージックの流行に対して、ウエスト・コースト、特にカリフォルニア南部ではサーフ・ロックというダンサブルなスタイルが61~65年にかけて発展する。
2、フォーク・ミュージックとフォーク・ロック
高校時代に入ると小さなトランジスタラジオを手に入れて深夜放送を自分だけで聴くようになった。そのころよく流れていたアメリカのポップス
●ボブ・ディラン
●サイモン&ガーファンクル
ソウル・ミュージックとは近年、特に日本のおばさまの間で盛んにもてはやされるようになった韓国の首都ソウルで作られた「韓流ドラマ」に基づく主題歌、BGMも含めた音楽である。
特にこれなどは有名である。がルーツをたどれば日本の『禿げ&あ!スカ!』の「愛はかげろう」の曲想にたどり着く、というのはきれいな言い方で、その実パクリだという噂が絶えない。
というのは真っ赤な嘘で、ほんとは?
リズム&ブルースの躍動するビートと、喜びに満ち溢れたゴスペルの活力が結合して、ソウル・ミュージックになっていく。
ソウル・ミュージックの特徴である「メリスマ」(歌詞の1音節に対して、複数の音符を当てはめるような歌い方)の使用が感情の表現に変化を与え、またファルセット・ヴォーカルなどゴスペル・シンギングの特徴もソウルに共通している。
1、モータウン・サウンド
「モータウン」はミシガン州デトロイトを本拠とするレコード会社。
●スティービー・ワンダー
●マーヴィン・ゲイ
●ダイアナ・ロス
●ジェイムス・ブラウン
2、メンフィス・ソウル
メンフィス・ソウルはサザン・ソウルと違って都会的でファンキィーでスタイリッシュなサウンドを特徴とする。非常に活発なベースラインとトランペットとサックスのパラレルなユニゾンのメロディーの動きが特徴。
3、アトランティック・レコード
4、フィラデルフィア・ソウル
フィラデルフィア・ソウルは、ファンクの影響を受けたソウル・ミュージックのことで、流れるようなストリングスと切り裂くようなホーンセクションで構成された豪華なオーケストラ・アレンジを特徴とする。
2012年4月20日金曜日
メリケン流行歌小史学習ノート 9頁
1、ブルースからロックへ
1、リズム&ブルース
リズム&ブルースは40年代後半から50年代前半にかけてできたジャンルである。
ブルースはアメリカ南部で黒人の生活の諸問題をうつした音楽として発展したのに対し、リズム&ブルースは都会で都会生活を謳歌する黒人たちのダンス・ミュージックとして誕生した。
30年代都会の黒人の人口が流入によって急増し、ジャズやブルースの新たな市場が生まれた。この中のミュージシャン、リロイ・カー、カウント・ベーシー、T-Bone・ウォーカーなどの演奏するジャズやブルースにリズム&ブルースの前兆を見ることができる。
またこれまでのピアノやサックスに代わりエレクトリック・ギターがリード楽器として登場してきたことも大きな要因と考えられる。
●プロフェッサー・ロングヘア
「She Ain't Got No hair」
●ルース・ブラウン
「Teardorop From My Eyes」
2、リズム&ブルースに基づいた50年代のロック
50年代に黒人が演奏するリズム&ブルースは、ポップミュージックを聴く白人聴衆には人気がなかった。しかし、ファッツ・ドミノ、チャック・ベリー、リトル・リチャードらは自身のヒット曲をポップ・ヒット・チャートにのせ、やがて白人たちの人気を得るようになった。
また南部黒人ミュージシャンによって発展した、ブルースをベースにしたリズミックなピアノ・スタイルである「ブギウギ」がロック・ピアノ・スタイルの基本となった。
で、ここでちょっと幕間となりまして・・・・・・私の作った動画で和臭ただようブギウギを載せたものがあるのでどうぞ。
●ミード・ラックス・ルイス
ブギウギスタイルのピアニスト、左手で強力なベース・パターンの繰り返しに加え、右手は華麗な装飾的なメロディーを奏するスタイルを確立。
「Honky Tonk Train Blues」
●リトル・リチャード
リズム&ブルースからロックンロールへの変遷において最も重要な働きをしたのが彼である。50年代のロック・スタイルを作り上げた。
「Long Tall Sally」
「Good Golly Miss Molly」
●チャック・ベリー
ブルースとリズム&ブルースに根ざしたシンガーでギタリスト。白人カントリー&ウエスタンの影響を受けて、音楽はロックンロールであった。
「Rock and Roll Music」
「Roll Over Beethoven」
2、カントリー・ルーツ
1、ロックに影響を与えたカントリー・スタイル
北米にはイギリスを中心としたヨーロッパから大量の移民が流れ込んだ。このためアメリカにはさまざまなダンス音楽や歌が持ち込まれた。それらがミックスされアメリカ南部、南西部の山岳地帯では南部フォーク・ミュージックとして根付いた。
楽器は自由に持ち運べるギター、ヴァイオリン、マンドリン、黒人たちの作ったバンジョーなどを使用し、音楽の単純な3~4コードを中心にしたものが多かった。初期のこれらのフォーク・ソングは『ヒルビリー・ソング』と呼ばれていた。
20年代に始まったラヂヲ放送により、アパラチャ山岳地帯のマウンテン・ソングやフォーク・ソング、ウエスタン・カウボーイ・ソングなどがアメリカ全土で注目されるようになる。テネシー州、ナッシュビルがカントリー・ミュージックのメッカとなる。
40年代には黒人のブギウギのリズムとカントリー・ミュージックの組み合わせで『ヒルビリー・ブギ』が生まれ、これに徐々に黒人のブルースやジャズの要素が取り入れられるようになり、後のロックンロールの発展に重要な役割をになう。
「Red River Vally」
「In the Jailhouse Now」
「Honky Tonk Blues」
「Nobody's Darlin' But Mine」
2、ブルーグラスとカントリー・ミュージック
ブルーグラスは、アメリカのアパラチャ南部に入植したスコッチ・アイリッシュの伝承音楽をベースにして、45年末から後に発展したアコースティック音楽のジャンル。
「Blue Moon Of Kentucky」
「Foggy Mountain Breakdown」
3、カントリー・ミュージシャンによるブルースおよびリズム&ブルース
リズム&ブルースの人気が白人ティーンエイジャーの間で高まるにつれて、カントリー・ミュージシャンがリズム&ブルースの録音のカバーを始め、同時にブルースやリズム&ブルースのミュージシャンがカントリー・ミュージックをカバー、40年代後半から50年代初期にかけてそれらのスタイルが結合していく中で、ロック&ロールは新しいスタイルになりつつあった。
もともとカントリー・シンガーでギタリストだったビル・ヘイリーは進む路線を変え、ロック・スターになっていく。
「Rock Around The Clock」
4、ロカビリー
もともとディスクジョッキーをしていたサム・フィリップスは50年に小さなレコード会社を設立する。そして54年に若きエルビス・プレスリーを発掘しリリース、大ヒットさせる。
エルビス・プレスリーの出現はアメリカのティーンエイジャーにロカビリー(ロック+ヒルビリー)をもたらした。
最初、エルビスは主に南部を中心にラジオ番組で歌っていた。まだこの頃はカントリー・シンガーと見なされていた。その後、RCAと契約、スターへの道を歩む。
「Hound Dog」
5、ロカビリーの影響を受けたロック
バディ・ホリーはエルビスに影響を受けてロックンロールに導かれたが、彼のロック・スタイルはブルースとカントリー・ミュージックが一つになって出来上がっている。
わずか22歳で飛行機事故で亡くなるが、初期のロック界で目覚ましい活動をし、多くのアーティスト、中でもビートルズ、ローリング・ストーンズ、ボブ・ディラン、エリック・クラプトンらに大きな影響を与えた。
「Mayby Baby」
「Peggy Sue」
「Early in the Morning」
3、ゴスペル・ルーツ
1、ゴスペル・ミュージック
南北戦争が終わり奴隷制度が廃止されると、黒人は自分たちの教会を建て、礼拝にアフリカのコール・&・レスポンスを持ち込んだ。
そこでは牧師が呼唱(call)を行い、参集者が答唱(responce)で応えるといった方式で、時には牧師が熱狂のあまり失神することもあった。
ゴスペル・ソングは教会だけでなくエンターテインメントの一つとしてあらゆる場面で演奏されるようななって行った。
「Oh Happy Day」
ゴスペル・ブームに火をつけたのはウーピー・ゴールドバーク主演の映画『天使にラブソングを』であったが、その続編で歌われた下の曲が世界的にヒットし、ブームを盛り上げた。
「Joyful joyful」
2、ドゥー・ワップ
ゴスペルがよりポップな形をとったドゥー・ワップの特徴は、メロディー以外は「ドゥーワッ」「シュビドゥビ」「ドゥビドゥワ」といったナンセンス・シラブル(意味のない音節)でのスキャットにあり、それがドゥー・ワップの名の由来になった。
コード進行 [Ⅰ-Ⅳm7-Ⅱm7-Ⅴ7]は多くのドゥー・ワップに見られドゥー・ワップ・プログレッションと呼ばれることがある。
「Tiger Rag」
「Sh-Boon」
次頁につづく
1、リズム&ブルース
リズム&ブルースは40年代後半から50年代前半にかけてできたジャンルである。
ブルースはアメリカ南部で黒人の生活の諸問題をうつした音楽として発展したのに対し、リズム&ブルースは都会で都会生活を謳歌する黒人たちのダンス・ミュージックとして誕生した。
30年代都会の黒人の人口が流入によって急増し、ジャズやブルースの新たな市場が生まれた。この中のミュージシャン、リロイ・カー、カウント・ベーシー、T-Bone・ウォーカーなどの演奏するジャズやブルースにリズム&ブルースの前兆を見ることができる。
またこれまでのピアノやサックスに代わりエレクトリック・ギターがリード楽器として登場してきたことも大きな要因と考えられる。
●プロフェッサー・ロングヘア
「She Ain't Got No hair」
●ルース・ブラウン
「Teardorop From My Eyes」
2、リズム&ブルースに基づいた50年代のロック
50年代に黒人が演奏するリズム&ブルースは、ポップミュージックを聴く白人聴衆には人気がなかった。しかし、ファッツ・ドミノ、チャック・ベリー、リトル・リチャードらは自身のヒット曲をポップ・ヒット・チャートにのせ、やがて白人たちの人気を得るようになった。
また南部黒人ミュージシャンによって発展した、ブルースをベースにしたリズミックなピアノ・スタイルである「ブギウギ」がロック・ピアノ・スタイルの基本となった。
で、ここでちょっと幕間となりまして・・・・・・私の作った動画で和臭ただようブギウギを載せたものがあるのでどうぞ。
●ミード・ラックス・ルイス
ブギウギスタイルのピアニスト、左手で強力なベース・パターンの繰り返しに加え、右手は華麗な装飾的なメロディーを奏するスタイルを確立。
「Honky Tonk Train Blues」
●リトル・リチャード
リズム&ブルースからロックンロールへの変遷において最も重要な働きをしたのが彼である。50年代のロック・スタイルを作り上げた。
「Long Tall Sally」
「Good Golly Miss Molly」
●チャック・ベリー
ブルースとリズム&ブルースに根ざしたシンガーでギタリスト。白人カントリー&ウエスタンの影響を受けて、音楽はロックンロールであった。
「Rock and Roll Music」
「Roll Over Beethoven」
2、カントリー・ルーツ
1、ロックに影響を与えたカントリー・スタイル
北米にはイギリスを中心としたヨーロッパから大量の移民が流れ込んだ。このためアメリカにはさまざまなダンス音楽や歌が持ち込まれた。それらがミックスされアメリカ南部、南西部の山岳地帯では南部フォーク・ミュージックとして根付いた。
楽器は自由に持ち運べるギター、ヴァイオリン、マンドリン、黒人たちの作ったバンジョーなどを使用し、音楽の単純な3~4コードを中心にしたものが多かった。初期のこれらのフォーク・ソングは『ヒルビリー・ソング』と呼ばれていた。
20年代に始まったラヂヲ放送により、アパラチャ山岳地帯のマウンテン・ソングやフォーク・ソング、ウエスタン・カウボーイ・ソングなどがアメリカ全土で注目されるようになる。テネシー州、ナッシュビルがカントリー・ミュージックのメッカとなる。
40年代には黒人のブギウギのリズムとカントリー・ミュージックの組み合わせで『ヒルビリー・ブギ』が生まれ、これに徐々に黒人のブルースやジャズの要素が取り入れられるようになり、後のロックンロールの発展に重要な役割をになう。
「Red River Vally」
「In the Jailhouse Now」
「Honky Tonk Blues」
「Nobody's Darlin' But Mine」
2、ブルーグラスとカントリー・ミュージック
ブルーグラスは、アメリカのアパラチャ南部に入植したスコッチ・アイリッシュの伝承音楽をベースにして、45年末から後に発展したアコースティック音楽のジャンル。
「Blue Moon Of Kentucky」
「Foggy Mountain Breakdown」
3、カントリー・ミュージシャンによるブルースおよびリズム&ブルース
リズム&ブルースの人気が白人ティーンエイジャーの間で高まるにつれて、カントリー・ミュージシャンがリズム&ブルースの録音のカバーを始め、同時にブルースやリズム&ブルースのミュージシャンがカントリー・ミュージックをカバー、40年代後半から50年代初期にかけてそれらのスタイルが結合していく中で、ロック&ロールは新しいスタイルになりつつあった。
もともとカントリー・シンガーでギタリストだったビル・ヘイリーは進む路線を変え、ロック・スターになっていく。
「Rock Around The Clock」
4、ロカビリー
もともとディスクジョッキーをしていたサム・フィリップスは50年に小さなレコード会社を設立する。そして54年に若きエルビス・プレスリーを発掘しリリース、大ヒットさせる。
エルビス・プレスリーの出現はアメリカのティーンエイジャーにロカビリー(ロック+ヒルビリー)をもたらした。
最初、エルビスは主に南部を中心にラジオ番組で歌っていた。まだこの頃はカントリー・シンガーと見なされていた。その後、RCAと契約、スターへの道を歩む。
「Hound Dog」
5、ロカビリーの影響を受けたロック
バディ・ホリーはエルビスに影響を受けてロックンロールに導かれたが、彼のロック・スタイルはブルースとカントリー・ミュージックが一つになって出来上がっている。
わずか22歳で飛行機事故で亡くなるが、初期のロック界で目覚ましい活動をし、多くのアーティスト、中でもビートルズ、ローリング・ストーンズ、ボブ・ディラン、エリック・クラプトンらに大きな影響を与えた。
「Mayby Baby」
「Peggy Sue」
「Early in the Morning」
3、ゴスペル・ルーツ
1、ゴスペル・ミュージック
南北戦争が終わり奴隷制度が廃止されると、黒人は自分たちの教会を建て、礼拝にアフリカのコール・&・レスポンスを持ち込んだ。
そこでは牧師が呼唱(call)を行い、参集者が答唱(responce)で応えるといった方式で、時には牧師が熱狂のあまり失神することもあった。
ゴスペル・ソングは教会だけでなくエンターテインメントの一つとしてあらゆる場面で演奏されるようななって行った。
「Oh Happy Day」
ゴスペル・ブームに火をつけたのはウーピー・ゴールドバーク主演の映画『天使にラブソングを』であったが、その続編で歌われた下の曲が世界的にヒットし、ブームを盛り上げた。
「Joyful joyful」
2、ドゥー・ワップ
ゴスペルがよりポップな形をとったドゥー・ワップの特徴は、メロディー以外は「ドゥーワッ」「シュビドゥビ」「ドゥビドゥワ」といったナンセンス・シラブル(意味のない音節)でのスキャットにあり、それがドゥー・ワップの名の由来になった。
コード進行 [Ⅰ-Ⅳm7-Ⅱm7-Ⅴ7]は多くのドゥー・ワップに見られドゥー・ワップ・プログレッションと呼ばれることがある。
「Tiger Rag」
「Sh-Boon」
次頁につづく
メリケン流行歌小史学習ノート 8頁
50年代から音楽の表舞台に出てきたリズム&ロックやロックンロールがジャズ離れをした若者の心をとらえ始めるようになる。
そのあとを受けて60年代は若者の文化が大きく変わる時期である。ビート族、ファンキー・ブーム、黒人解放の激しい波、ウッドストックに象徴されるヒッピー反戦運動である。これに大手のレコード産業も歩調を合わせるようになる。
1、ジャズとサンバの融合
60年代初頭に、ブラジルのニュー・ミュージュックであるボサ・ノーヴァがアメリカに入ってくる。クール・テナーの大物スタン・ゲッツはいち早くボサ・ノーヴァをとりあげ、爆発的ヒットを生み出す。
「Desafinado」
「The Girl From Ipanema」
2、4ビートを脱したミュージシャンやグループの台頭
ロックが主流に見える音楽界においても、根底にジャズへの憧憬を持っているロック・ミュージシャンは少なくなく、ロックの雰囲気に違和感のないジャズ的な要素を取り入れたり、8ビート系のジャズが若者に支持され始めた。
「Memphis Underground」
「You Don't Know What Love Is」
「Maiden Voyage」
「Chameleon」
「Stuff Like That」
「Peter Gunn」
3.モダン・ジャズ・ルネサンス
コルトレーンとマイルスが世を去り、それ以後のジャズ界はヒーロー不在の時代になる。
そのヒーロー不在のジャズ界に風雲児のごとく出現し、ロックやフュージョン、ポップ・ミュージックにその座を奪われたジャズ・シーンに正当なアコースティック・ジャズの魅力を再認識させ、ジャズ復活の道筋をつくったのが、ニューオーリンズ出身のウイントン・マルサリスである。
現在「ジャズ」はクラッシック音楽と同様に多様な形で共存しており、それぞれのミュージシャンも自己の音楽アイデンティティに目覚め、グローバルな環境の中で新しいサウンドを求め続けているといえる。
「Autumn Leaves」
「Basin Street Blues」
今回でジャズは終わります。次回からはロックの小史になります。
そのあとを受けて60年代は若者の文化が大きく変わる時期である。ビート族、ファンキー・ブーム、黒人解放の激しい波、ウッドストックに象徴されるヒッピー反戦運動である。これに大手のレコード産業も歩調を合わせるようになる。
1、ジャズとサンバの融合
60年代初頭に、ブラジルのニュー・ミュージュックであるボサ・ノーヴァがアメリカに入ってくる。クール・テナーの大物スタン・ゲッツはいち早くボサ・ノーヴァをとりあげ、爆発的ヒットを生み出す。
「Desafinado」
「The Girl From Ipanema」
2、4ビートを脱したミュージシャンやグループの台頭
ロックが主流に見える音楽界においても、根底にジャズへの憧憬を持っているロック・ミュージシャンは少なくなく、ロックの雰囲気に違和感のないジャズ的な要素を取り入れたり、8ビート系のジャズが若者に支持され始めた。
「Memphis Underground」
「You Don't Know What Love Is」
「Maiden Voyage」
「Chameleon」
「Stuff Like That」
「Peter Gunn」
3.モダン・ジャズ・ルネサンス
コルトレーンとマイルスが世を去り、それ以後のジャズ界はヒーロー不在の時代になる。
そのヒーロー不在のジャズ界に風雲児のごとく出現し、ロックやフュージョン、ポップ・ミュージックにその座を奪われたジャズ・シーンに正当なアコースティック・ジャズの魅力を再認識させ、ジャズ復活の道筋をつくったのが、ニューオーリンズ出身のウイントン・マルサリスである。
現在「ジャズ」はクラッシック音楽と同様に多様な形で共存しており、それぞれのミュージシャンも自己の音楽アイデンティティに目覚め、グローバルな環境の中で新しいサウンドを求め続けているといえる。
「Autumn Leaves」
「Basin Street Blues」
今回でジャズは終わります。次回からはロックの小史になります。
メリケン流行歌小史学習ノート 7頁
若い時に電子オルガンを購入し、ポピュラー曲を練習し始めたが、演奏の基本は足のベースと左手のコード伴奏法である。最初に気付いたがジャズ系の曲には、あまり知らなかったコードが多用されている。不協和音に類するもを使い、ジャズっぽい効果出せるのがわかった。一番最初に使ったのはC6を終止に使う方法だった。それから徐々に半端なコードを覚え、応用していった。
また稀だが伝統的な日本音楽も電子オルガンで伴奏することは可能である。これなどは最初からsus4だのaugだのバンバンでてくる。
そもそも日本音階は西洋音階とは全く違うもので並みのコード進行で伴奏できるわけがない。
伝統的な学校教育では長音階、短音階、それに伴う主和音以下の和音にならされているが、そもそもは音階はもっと自由なもので、音階を作る規則も限定するものではない。(長音階、短音階はピタゴラス音律に基づいて作られている) このような、ある法則によってつくられた音階を形成する一定の音組織を、旋法(モード)という。
日本音階には陽旋法、陰旋法があり、また古代ギリシャや中世の声楽にも独特の旋法がある。
ジャズの楽曲のある部分をこのような他の旋法のスケールに基づいて展開させるとジャズはより自由とスペースを獲得することができる。それは、これまでコードに縛られて展開してきた調性的手法を、和声機能が比較的希薄で副和音が頻繁に用いられる手法へと転換することになる。
具体的には、長音階、短音階およびブルーノート・スケールのみにメロディーを発展させるのではなく、他の旋法、5つ(ドリアン、フリジアン、リディアン、ミクソリディアン、ロクリアン)も含めて使用する。
このようなジャズの発展を「モーダル・ジャズ」(モード・ジャズ)というが上記の説明ではわかりにくいので簡単に解説した映像があるので貼っておきます。ご覧ください。
代表的な曲を紹介します。
「Kind of blue」
「Giant Steps」
この「Giant Steps」は16小説になんと10回もキー(調)が変わる。
フリー・ジャズ
従来のジャズの系譜とは全くつながらない意味でのフリーである。
「Kaleidoscope」
Kaleidoscopeとは万華鏡のことである。
また稀だが伝統的な日本音楽も電子オルガンで伴奏することは可能である。これなどは最初からsus4だのaugだのバンバンでてくる。
そもそも日本音階は西洋音階とは全く違うもので並みのコード進行で伴奏できるわけがない。
伝統的な学校教育では長音階、短音階、それに伴う主和音以下の和音にならされているが、そもそもは音階はもっと自由なもので、音階を作る規則も限定するものではない。(長音階、短音階はピタゴラス音律に基づいて作られている) このような、ある法則によってつくられた音階を形成する一定の音組織を、旋法(モード)という。
日本音階には陽旋法、陰旋法があり、また古代ギリシャや中世の声楽にも独特の旋法がある。
ジャズの楽曲のある部分をこのような他の旋法のスケールに基づいて展開させるとジャズはより自由とスペースを獲得することができる。それは、これまでコードに縛られて展開してきた調性的手法を、和声機能が比較的希薄で副和音が頻繁に用いられる手法へと転換することになる。
具体的には、長音階、短音階およびブルーノート・スケールのみにメロディーを発展させるのではなく、他の旋法、5つ(ドリアン、フリジアン、リディアン、ミクソリディアン、ロクリアン)も含めて使用する。
このようなジャズの発展を「モーダル・ジャズ」(モード・ジャズ)というが上記の説明ではわかりにくいので簡単に解説した映像があるので貼っておきます。ご覧ください。
代表的な曲を紹介します。
「Kind of blue」
「Giant Steps」
この「Giant Steps」は16小説になんと10回もキー(調)が変わる。
フリー・ジャズ
従来のジャズの系譜とは全くつながらない意味でのフリーである。
「Kaleidoscope」
Kaleidoscopeとは万華鏡のことである。
メリケン流行歌小史学習ノート 6頁
4、バップの誕生とクール・ジャズ
1940年代初頭、ニューヨークのミントンズ・プレイハウスが最初の2ステージの後は自由参加のジャムセッションの場に解放した。ここで新旧のミュージシャンが有名無名を問わず他流試合を行い、新しいサウンドの模索が始まる。噂は残米に広がり、ベテラン、アマチュア入り乱れてのセッションが繰り広げられた。
この結果、新しい和音、難しいリフ、テンポな速いビート、各楽器のソロの確立など、近代的音楽スタイルを生み出した。これがバップである。
「Swing To Bop」
「Round Midnight」
1、チャーリー・パーカー
彼の音楽は、ハーモニーの構成に基づいたテンポの速い即興演奏を、超絶的な技巧で表現するというスタイルで、メロディーやリズム、ハーモニーへの革新的アプローチが特徴である。
「Now's The Time」
「Summertime」
2、クール・ジャズ
大胆なシンコペーションや複雑なコード展開などで、音楽的な革新性やエネルギーを爆発させたバップに対し、音楽理論の要素を取り入れ、より知的な抑制を加えた新しいスタイルを求める現象が現れた。これをクール・ジャズという。
幾つか紹介する。
「Jeru」
「Walking Shoes」
「Bag's New Groove」
5、ウエスト・コースト・ジャズ
ウエスト・コースト・ジャズは、西海岸のロサンジェルスのスタジオ・ミュージシャンを中心に1950年代前半に最盛期を迎える。代表曲を貼っておきます。
「Over the Rainbow」
これに対し対極にあるのがイースト・コースト・ジャズで、ニューヨークを拠点に黒人ミュージシャンが自らのアイデンティティをはっきり打ち出した、魂がほとばしるホットなジャズを特徴とした。
「The Way You Look Tonight」
4ビート・ジャズとハード・バップ
4ビートジャズは4拍すべてにアクセントをつけて演奏する。2ビートの進化したものと考えられている。
ラグタイムやニューオーリンズジャズなどはヨーロッパ音楽と同様、1、3拍に強拍のある2ビートである。この1、3拍の強拍を残したまま、2、4拍を強調することによって4ビート感が生まれてくる。これはシカゴスタイルから徐々に見られ、やがてスィング時代の4ビートへ発展した。
スィング時代に4拍打っていたベースドラムのベーシック・ビートの役割は、バップ時代になってベースへと移行する。その結果、ドラムスは基本ビートをキープすることから解放され、即興演奏を生む様々な変化に対応しながら、さらに複雑で重要な役割を担うことになる。
バップが成熟し、ハード・バップへと移行すると、この形は一層洗練されたものになり、ハイハットやスネアドラムによるアフター・ビートと、ベースによる4ビートが一体となって生まれる快適なスィング感が『4ビートジャズ』として定着する。
「Dear Old Stockholm」
6、ファンキー・ジャズ
地域の行事や祭りに供されたニューオーリンズ・ジャズを出発点に、ダンス音楽として老若男女に愛されたスィング・ジャズが音楽鑑賞に発展し、さらに芸術的要素を追求した結果、バップやクール、ハード・バップに行きつき表現方法も多様化したジャズは、ふと気が付くと一般大衆の支持が得られないほどセルフィッシュな方向を向いてしまっていた。
大衆離れしたジャズは商業的にも立ち行かなくなり、その結果、レコード会社にはジャズからティーンズ・ポップスに目を向けさせることになる。そこに黒人教会音楽とリズム&ブルースの要素を取り込み、軽快だが泥臭く、簡潔で歌いやすいメロディーを持たせて大衆の支持を得たのが『ファンキー・ジャズ』である。
いくつか紹介する。
「Night In Tunisia」
「Watermelon man」
1940年代初頭、ニューヨークのミントンズ・プレイハウスが最初の2ステージの後は自由参加のジャムセッションの場に解放した。ここで新旧のミュージシャンが有名無名を問わず他流試合を行い、新しいサウンドの模索が始まる。噂は残米に広がり、ベテラン、アマチュア入り乱れてのセッションが繰り広げられた。
この結果、新しい和音、難しいリフ、テンポな速いビート、各楽器のソロの確立など、近代的音楽スタイルを生み出した。これがバップである。
「Swing To Bop」
「Round Midnight」
1、チャーリー・パーカー
彼の音楽は、ハーモニーの構成に基づいたテンポの速い即興演奏を、超絶的な技巧で表現するというスタイルで、メロディーやリズム、ハーモニーへの革新的アプローチが特徴である。
「Now's The Time」
「Summertime」
2、クール・ジャズ
大胆なシンコペーションや複雑なコード展開などで、音楽的な革新性やエネルギーを爆発させたバップに対し、音楽理論の要素を取り入れ、より知的な抑制を加えた新しいスタイルを求める現象が現れた。これをクール・ジャズという。
幾つか紹介する。
「Jeru」
「Walking Shoes」
「Bag's New Groove」
5、ウエスト・コースト・ジャズ
ウエスト・コースト・ジャズは、西海岸のロサンジェルスのスタジオ・ミュージシャンを中心に1950年代前半に最盛期を迎える。代表曲を貼っておきます。
「Over the Rainbow」
これに対し対極にあるのがイースト・コースト・ジャズで、ニューヨークを拠点に黒人ミュージシャンが自らのアイデンティティをはっきり打ち出した、魂がほとばしるホットなジャズを特徴とした。
「The Way You Look Tonight」
4ビート・ジャズとハード・バップ
4ビートジャズは4拍すべてにアクセントをつけて演奏する。2ビートの進化したものと考えられている。
ラグタイムやニューオーリンズジャズなどはヨーロッパ音楽と同様、1、3拍に強拍のある2ビートである。この1、3拍の強拍を残したまま、2、4拍を強調することによって4ビート感が生まれてくる。これはシカゴスタイルから徐々に見られ、やがてスィング時代の4ビートへ発展した。
スィング時代に4拍打っていたベースドラムのベーシック・ビートの役割は、バップ時代になってベースへと移行する。その結果、ドラムスは基本ビートをキープすることから解放され、即興演奏を生む様々な変化に対応しながら、さらに複雑で重要な役割を担うことになる。
バップが成熟し、ハード・バップへと移行すると、この形は一層洗練されたものになり、ハイハットやスネアドラムによるアフター・ビートと、ベースによる4ビートが一体となって生まれる快適なスィング感が『4ビートジャズ』として定着する。
「Dear Old Stockholm」
6、ファンキー・ジャズ
地域の行事や祭りに供されたニューオーリンズ・ジャズを出発点に、ダンス音楽として老若男女に愛されたスィング・ジャズが音楽鑑賞に発展し、さらに芸術的要素を追求した結果、バップやクール、ハード・バップに行きつき表現方法も多様化したジャズは、ふと気が付くと一般大衆の支持が得られないほどセルフィッシュな方向を向いてしまっていた。
大衆離れしたジャズは商業的にも立ち行かなくなり、その結果、レコード会社にはジャズからティーンズ・ポップスに目を向けさせることになる。そこに黒人教会音楽とリズム&ブルースの要素を取り込み、軽快だが泥臭く、簡潔で歌いやすいメロディーを持たせて大衆の支持を得たのが『ファンキー・ジャズ』である。
いくつか紹介する。
「Night In Tunisia」
「Watermelon man」
ジャズダンス
子どもの頃の思い出をたどるとジャズに強烈な印象を受けたのは、耳からではなく視覚だった。
小学校高学年か中学だろうか、白黒テレビで『アンタッチャブル』というのを放映していた。
その中で今まで聴いたこともないような不思議なメロディー、リズム、そして驚くような速いテンポで、ダンスホールを縦横無尽に踊る白人女性がいた。
その踊りに目が釘付けになるほど魅せられた。それまで踊りといえば「阿波踊り」か怪しげな「社交ダンス」(ラテン系ダンス音楽も含む)と称するものをやはり同じテレビや映画で見るくらいであったので、まったく新鮮な刺激、経験であった。
それがジャズダンスの一種『チャールストン』であった。自分はこんなリズム感を持っていないし絶対踊れないが、ダンスの中では一番好きになった。それと同時にバックに流れる『ジャズ』も当然好きである。ただし、踊れるジャズ曲である。
この『チャールストン』、昭和30年代に「五匹の子豚」として振り付け付きで日本で歌われ、踊られもしたが、その当時の日本人のリズム感では、見た感じが麦踏ダンスか盆踊りにしかならない。このチャールストンダンスは超ミニでビラビラの付いた薄いワンピース様の衣装で太もも以下丸出しで踊るんだけど、昭和30年代の日本人は短足の大根足、子どもが見てもとても見られたもんじゃなかった。それであっという間に消えた。
それ以来、忘れていたが昭和50年代になってピンクレディーが大ブレークし、その衣装、振り付けのダンスを見ると
「あら、懐かしい、チャールストンダンスを取り入れてるではないか」
知らない人の為に音楽とダンスをどうぞ。これが私が子供のころのジャズ音楽体験の一つです。(アメリカのチャールストンダンスはテレビのアンタッチャブルと同じ時代、禁酒法時代20~30年前半まで、熱狂的でチャールストンエイジともいわれる)
2012年4月19日木曜日
メリケン流行歌小史学習ノート 5頁
1、ジャズの発祥
1、ニューオーリンズ
この南部の都市はアメリカの北部諸州と違い、歴史的にスペインそしてフランスの植民地として発展してきたところである。ラテン系の文化が入り混じり、おおらかな気分に満ち溢れていた。
この町にはスペイン系やフランス系白人と黒人の混血、いわゆる「クレオール」という人がいた。彼らは北部のイギリス系の奴隷と違って、社会的地位もほぼ白人と同等、黒人の特権階級であった。白人と同じように教育を受け、ヨーロッパ音楽を見に着け、楽譜も読めるものが多かった。
しかし、1863年の奴隷制度廃止の結果、クレオールはそれまでの優位な立場から一転して同じ「黒人」として扱われ、没落していった。そのため、クレオールは黒人コミュニティに参加せざるを得なくなった。一緒にブラスバンドで演奏したりすることになる。
ヨーロッパ音楽を身に着けたクレオールが譜面通り演奏するのに対し、黒人ブラスバンドは耳から聞いたメロディで演奏し、時には即興的なフレーズに変化したりする。
白人やクレオールの演奏と黒人たちのアフリカのリズム感を持った感性や即興性を持ったパワフルな演奏との出会いが、ジャズを徐々に形成することになるのである。
2、ジャズの誕生
黒人たちはクレオールから学んだヨーロッパ系のマーチ、ポルカ、ワルツなどを自分たちのフィーリングで演奏し、南部のブルースやスピリチュアル(本ブログ1頁参照)、ラグタイムなどの要素を取り入れながら、即興演奏やシンコペーションを伴ったジャズへと徐々に進行していった。
この初期のジャズをニューオーリンズ・ジャズまたはディキシーランド・ジャズと呼ぶ。
いくつかの曲を貼っておきます。
「Tiger Rag」
「Hindustan」
3、ラグタイムの誕生
ラグタイムはピアノで演奏される軽快なシンコペーションを伴った音楽で、1897年から1918年にかけてアメリカで最ももてはやされた。
黒人たちはスペイン、フランス系白人に支配されていた間、ヨーロッパ音楽、モーツァルト、ショパン、シューベルト、シュトラウスなどポピュラーな音楽を聴くことができた。
聞き覚えたこれらのメロディーや和声進行の組み合わせ、リズムはアフリカのポリリズムに見られるシンコペーションを用いて、黒人たちは自分たちの音楽を作り始めた。そのリズムはアフリカ、西インド諸島などのワークソングや教会の黒人霊歌などがミックスされたもので、独特の活気ある「ラグタイム」が誕生する。
そのラグタイムブレークのきっかけとなった曲を紹介します。1897年楽譜が出版され、当時発明された『自動演奏ピアノ』の演奏とともに大ヒットした。なおこの『The Entertainer』は昔、私がピアノを練習して弾いたことがあります。懐かしく聴くことができました。
「Maple Leaf Rag」
「The Entertainer」
このラグタイムはヨーロッパの音楽にも影響を与えた。ドビュッシーの「子供の領分」の中にその影響がみられる曲がある。
「Golliwog`s Cakewalk」
2、シカゴ・ジャズとローリング・トゥエンティーズ
20世紀に入ると北部のシカゴでは工業の発展に伴い、多くの労働者を必要とした。その結果、良い賃金とよりよい生活を求めて南部からの黒人の大移住が起った。ジャズメンも当然含まれていた。
1、ナイト・ライフでのジャズ
急激に黒人人口が増加したシカゴでは、ナイトクラブのエンターテイメントとして、多くのクラブやボールルームが作られ、シカゴ独自のミュージック・シーンが出来上がって行った。
かっては式や祭り、パレードなどが主な演奏場面だったニューオーリンズ・ジャズも、シカゴでは完全なエンターテインメントとしての音楽に変容していった。
その結果、ジャズの本流はシカゴに移り、シカゴがジャズの第二の故郷になることになった。折から、禁酒法の時代で、ギャングの経営する酒場もジャズ隆盛の一助となった。
「Black Bottom Stomp」
「West-End Blues」
ルイ・アームストロングも活躍する。
「Static Strut」
2、ハーレム・ルネッサンス
禁酒法が施行されて間もない20年代初頭、ニューヨークのハーレムから全米に黒人文化が発信されていった。様々な分野に及び、北アメリカのみならず中米、カリブ諸国、さらにはヨーロッパに住む黒人にも影響を与えた。
1914年ニューヨークのハーレムに建てられたアポロシアターは、ハーレムルネサンスと時を同じくして黒人バンドや歌手、コミック、タップ・ダンスなどさまざまな芸術のたまり場兼発信基地となり、ビリー・ホリディ、ベシー・スミス、エセル・ウォーターズ、デューク・エリントンなどといったアーティストが活躍した。
30~40年代には、エラ・フィッツジェラルド、サラ・ヴォーン、ジェイムス・ブラウンらが、毎週水曜日開催されるアマチュア・ナイトからデビューした。
60年代に入ると、シュープリムス、スティービー・ワンダーといったソウル系のアーティストを誕生させた。
代表曲を貼っておきます。
「It Don`t Mean A Thing」
3、ブギウギとストライド・ピアノ
ハーレム・ルネッサンスの主役となった黒人ピアニスト、ジェームス・P・ジョンソン、ユービー・ブレイク、ファッツ・ウォーラーらの活躍で、ジャズピアノの発展の引き金になった『ストライド奏法』が開発される。
左手がベース(鍵盤の最左)とコード(中低音域)を大きく往復するさまを「大股で歩く」の意のストライドになぞらえた呼び名で、かってのラグタイム・ピアノから発達した奏法である。
一方、シカゴでは『ブギウギ』が花形になる。ブギウギはブルースのピアノ化であり、A-A`-Bといった12小節を1コーラスとするのはブルースと同じである。これはピアノ・ソロでも演奏できたので、禁酒法時代のもぐり酒場や小さなクラブでもてはやされた。
2曲紹介しておく。
「Pine Top`s Boogie Woogie」
「Ain`t Misbehaving」
3、スウィング・ジャズとビッグ・バンド時代
1、カンザスからニューヨークへ
カンザスシティーはミシシッピ川流域のアメリカ中部の都市で、ジャズバンドを載せてニューオーリンズを出発したリバーボートがメンフィス、セントルイスに次いで寄港する町で、ジャズと深いかかわりを持っていた。禁酒法時代、シカゴと違ってカンザスは合法的に酒の飲める町であった。
カンザスは黒人も多く、ブギウギやブルースも盛んであった。ここでカウント・ベイシーは読譜力に劣るミュージシャンにリフ(2~4小節の短いフレーズ)のリピートでソロのバックを務めるといった手法でバンド全体のスウィング感を高め、人気を得ることに成功した。さらに大きな成功を求めて彼はニューヨークに進出する。
当時ニューヨークは不況を脱し、活況を呈しており、大規模なダンスホールやボールルームが次々復活し、ビッグバンドへの大きな需要を喚起した。
そして多くのビッグバンドが誕生する。またレコード産業、ラジオ放送の普及がジャズを一般家庭にまでもたらし、ビッグバンド・エイジは隆盛をきわめる。
2、ビッグバンド
ビッグバンドの楽器編成は、4トランペット、4トロンボーン、5サックス(2アルト、2テナー、1バリトン)それにリズムセッション(ピアノ、ギター、ドラムス)といった17人編成が一般的であるが、60年代後半からは木管をくわえたり同族の楽器を減らしたりしている。
デューク・エリントン
「Take The ''A'' Train」
カウント・ベイシー
「One O'Clock Jump」
ベニー・グッドマン スウィングの王様として有名である。ジャズをクラッシックのように鑑賞する価値なあるものにしたとして評価されている。
「Let's Dance」
「Sing Sing Sing」
グレン・ミラー トロンボーン奏者で、同時に作・編曲家として多くの作品を残した。私の一番好きなジャズメンである。
「In The Mood」
「Begin the Beguine」
「Moonlight Serenade」
ビッグ・バンドエイジは日本軍による「真珠湾攻撃」から始まる第二次世界大戦によって幕を閉じる。
6頁目につづく
1、ニューオーリンズ
この南部の都市はアメリカの北部諸州と違い、歴史的にスペインそしてフランスの植民地として発展してきたところである。ラテン系の文化が入り混じり、おおらかな気分に満ち溢れていた。
この町にはスペイン系やフランス系白人と黒人の混血、いわゆる「クレオール」という人がいた。彼らは北部のイギリス系の奴隷と違って、社会的地位もほぼ白人と同等、黒人の特権階級であった。白人と同じように教育を受け、ヨーロッパ音楽を見に着け、楽譜も読めるものが多かった。
しかし、1863年の奴隷制度廃止の結果、クレオールはそれまでの優位な立場から一転して同じ「黒人」として扱われ、没落していった。そのため、クレオールは黒人コミュニティに参加せざるを得なくなった。一緒にブラスバンドで演奏したりすることになる。
ヨーロッパ音楽を身に着けたクレオールが譜面通り演奏するのに対し、黒人ブラスバンドは耳から聞いたメロディで演奏し、時には即興的なフレーズに変化したりする。
白人やクレオールの演奏と黒人たちのアフリカのリズム感を持った感性や即興性を持ったパワフルな演奏との出会いが、ジャズを徐々に形成することになるのである。
2、ジャズの誕生
黒人たちはクレオールから学んだヨーロッパ系のマーチ、ポルカ、ワルツなどを自分たちのフィーリングで演奏し、南部のブルースやスピリチュアル(本ブログ1頁参照)、ラグタイムなどの要素を取り入れながら、即興演奏やシンコペーションを伴ったジャズへと徐々に進行していった。
この初期のジャズをニューオーリンズ・ジャズまたはディキシーランド・ジャズと呼ぶ。
いくつかの曲を貼っておきます。
「Tiger Rag」
「Hindustan」
3、ラグタイムの誕生
ラグタイムはピアノで演奏される軽快なシンコペーションを伴った音楽で、1897年から1918年にかけてアメリカで最ももてはやされた。
黒人たちはスペイン、フランス系白人に支配されていた間、ヨーロッパ音楽、モーツァルト、ショパン、シューベルト、シュトラウスなどポピュラーな音楽を聴くことができた。
聞き覚えたこれらのメロディーや和声進行の組み合わせ、リズムはアフリカのポリリズムに見られるシンコペーションを用いて、黒人たちは自分たちの音楽を作り始めた。そのリズムはアフリカ、西インド諸島などのワークソングや教会の黒人霊歌などがミックスされたもので、独特の活気ある「ラグタイム」が誕生する。
そのラグタイムブレークのきっかけとなった曲を紹介します。1897年楽譜が出版され、当時発明された『自動演奏ピアノ』の演奏とともに大ヒットした。なおこの『The Entertainer』は昔、私がピアノを練習して弾いたことがあります。懐かしく聴くことができました。
「Maple Leaf Rag」
「The Entertainer」
このラグタイムはヨーロッパの音楽にも影響を与えた。ドビュッシーの「子供の領分」の中にその影響がみられる曲がある。
「Golliwog`s Cakewalk」
2、シカゴ・ジャズとローリング・トゥエンティーズ
20世紀に入ると北部のシカゴでは工業の発展に伴い、多くの労働者を必要とした。その結果、良い賃金とよりよい生活を求めて南部からの黒人の大移住が起った。ジャズメンも当然含まれていた。
1、ナイト・ライフでのジャズ
急激に黒人人口が増加したシカゴでは、ナイトクラブのエンターテイメントとして、多くのクラブやボールルームが作られ、シカゴ独自のミュージック・シーンが出来上がって行った。
かっては式や祭り、パレードなどが主な演奏場面だったニューオーリンズ・ジャズも、シカゴでは完全なエンターテインメントとしての音楽に変容していった。
その結果、ジャズの本流はシカゴに移り、シカゴがジャズの第二の故郷になることになった。折から、禁酒法の時代で、ギャングの経営する酒場もジャズ隆盛の一助となった。
「Black Bottom Stomp」
「West-End Blues」
ルイ・アームストロングも活躍する。
「Static Strut」
2、ハーレム・ルネッサンス
禁酒法が施行されて間もない20年代初頭、ニューヨークのハーレムから全米に黒人文化が発信されていった。様々な分野に及び、北アメリカのみならず中米、カリブ諸国、さらにはヨーロッパに住む黒人にも影響を与えた。
1914年ニューヨークのハーレムに建てられたアポロシアターは、ハーレムルネサンスと時を同じくして黒人バンドや歌手、コミック、タップ・ダンスなどさまざまな芸術のたまり場兼発信基地となり、ビリー・ホリディ、ベシー・スミス、エセル・ウォーターズ、デューク・エリントンなどといったアーティストが活躍した。
30~40年代には、エラ・フィッツジェラルド、サラ・ヴォーン、ジェイムス・ブラウンらが、毎週水曜日開催されるアマチュア・ナイトからデビューした。
60年代に入ると、シュープリムス、スティービー・ワンダーといったソウル系のアーティストを誕生させた。
代表曲を貼っておきます。
「It Don`t Mean A Thing」
3、ブギウギとストライド・ピアノ
ハーレム・ルネッサンスの主役となった黒人ピアニスト、ジェームス・P・ジョンソン、ユービー・ブレイク、ファッツ・ウォーラーらの活躍で、ジャズピアノの発展の引き金になった『ストライド奏法』が開発される。
左手がベース(鍵盤の最左)とコード(中低音域)を大きく往復するさまを「大股で歩く」の意のストライドになぞらえた呼び名で、かってのラグタイム・ピアノから発達した奏法である。
一方、シカゴでは『ブギウギ』が花形になる。ブギウギはブルースのピアノ化であり、A-A`-Bといった12小節を1コーラスとするのはブルースと同じである。これはピアノ・ソロでも演奏できたので、禁酒法時代のもぐり酒場や小さなクラブでもてはやされた。
2曲紹介しておく。
「Pine Top`s Boogie Woogie」
「Ain`t Misbehaving」
3、スウィング・ジャズとビッグ・バンド時代
1、カンザスからニューヨークへ
カンザスシティーはミシシッピ川流域のアメリカ中部の都市で、ジャズバンドを載せてニューオーリンズを出発したリバーボートがメンフィス、セントルイスに次いで寄港する町で、ジャズと深いかかわりを持っていた。禁酒法時代、シカゴと違ってカンザスは合法的に酒の飲める町であった。
カンザスは黒人も多く、ブギウギやブルースも盛んであった。ここでカウント・ベイシーは読譜力に劣るミュージシャンにリフ(2~4小節の短いフレーズ)のリピートでソロのバックを務めるといった手法でバンド全体のスウィング感を高め、人気を得ることに成功した。さらに大きな成功を求めて彼はニューヨークに進出する。
当時ニューヨークは不況を脱し、活況を呈しており、大規模なダンスホールやボールルームが次々復活し、ビッグバンドへの大きな需要を喚起した。
そして多くのビッグバンドが誕生する。またレコード産業、ラジオ放送の普及がジャズを一般家庭にまでもたらし、ビッグバンド・エイジは隆盛をきわめる。
2、ビッグバンド
ビッグバンドの楽器編成は、4トランペット、4トロンボーン、5サックス(2アルト、2テナー、1バリトン)それにリズムセッション(ピアノ、ギター、ドラムス)といった17人編成が一般的であるが、60年代後半からは木管をくわえたり同族の楽器を減らしたりしている。
デューク・エリントン
「Take The ''A'' Train」
カウント・ベイシー
「One O'Clock Jump」
ベニー・グッドマン スウィングの王様として有名である。ジャズをクラッシックのように鑑賞する価値なあるものにしたとして評価されている。
「Let's Dance」
「Sing Sing Sing」
グレン・ミラー トロンボーン奏者で、同時に作・編曲家として多くの作品を残した。私の一番好きなジャズメンである。
「In The Mood」
「Begin the Beguine」
「Moonlight Serenade」
ビッグ・バンドエイジは日本軍による「真珠湾攻撃」から始まる第二次世界大戦によって幕を閉じる。
6頁目につづく
2012年4月18日水曜日
メリケン流行歌小史学習ノート 4頁
なぜか日本の演歌にこのブルースという言葉が冠されているものが多い。昭和40~50年代にかけて、ご当地ソングといわれる演歌に〇〇ブルースというのがある。
日本の歌謡曲でブルースとつけられて歌った最初は淡谷のり子の「別れのブルース」といわれる。(1937年だから古い) これなどを聴くとアメリカのブルースの影響を受けているなぁ、と感じるが後のご当地ソングブルースなどは、哀愁を帯びた4拍子のマイナー曲をブルースと呼んでいて、本来のブルースとは別物。
奴隷解放宣言後も黒人は厳しい農作に従事するが1890年代になると南部の黒人たちは都市へ出て職を求めるようになった。
彼らの職場環境、住環境は劣悪であったが、都市には仕事は常にあり、大勢の仲間といるという安心感もあった。その結果、さびしいフィールド・ハラーやワークソングに代わって感情を直接歌い上げる即興性は残したまま、音楽をより強烈に、より表現力に富んだ都会的なものにしていった。
その中で和音、リズム進行などに都会的な洗練が見られるようになり、次第に定型化、標準化されていき初期へのブルースとなって行くのである。
1、ブルースの基本形とメロディの特徴
ブルースの構成は3行の詞からなっており、A-A`-Bという構成でそれぞれが4小節で出来ており、計12小節という単位が1コーラスの標準形式である。ただし、初期はまだ一定しておらず長短がある。
コード進行は最初のA4小節[Ⅰ-Ⅰ-Ⅰ-Ⅰ] 次のA`4小節[Ⅳ-Ⅳ-Ⅰ-Ⅰ] 最後のB4小節[Ⅴ7-Ⅴ7-Ⅰ-Ⅰ]というのが原型で、これをもとに様々なチェンジ・コードで演奏される。
メロディーは音階の第3音、第7音、まれに第5音が約半音フラットし、独特の哀愁感を醸し出す。
これらの3つの音をブルーノートといい、コードの構成音にも影響を与え、この独特のサウンドがブルースの大きな特徴となっている。
実際によく使われるコード進行を示す。上記の原型は原則であり、現実には少し変えている。ハ長調で記す。
ブルースを構成するA-A`-Bという一種の3部形式は、Aはテーマの提示、A`はその反復、Bは提示に対する結論、という役柄で1コーラスができている。
初期のブルースの形が残る曲を貼っておきます。「Trust In Me」ここクリック
2、カントリー・ブルース
ここでいうカントリーは南部の田舎である。ミシシッピ・デルタやテキサスのなんぶ2大地域がその中心である。フォークブルースと呼ぶ場合もある。
1、テキサス
ブラインド・レモン・ジェファーソン、1920年代を代表する盲目のブルース歌手。代表曲を紹介します。
レッド・ベリー、主に12弦のギターを弾いたが他の楽器も弾いた。あらゆる民謡を歌うフォークシンガーとして放浪しながら古くから伝わるバラッドなどを歌った。
「Alberta」クリック
2、ミシシッピ・デルタ
この地帯は黒人の人口密度が高く、貧困、白人との交流もないところから、最も強烈な感情を込めたブルースが豊富に存在する地域となっている。他地域と比べると古風で、歌声は暗く、重く、深い感情を込めた歌は、締め付けられたような唸り声のようでもある。いくつか紹介します。
3、シティー・ブルースからシカゴ・ブルースへ
アメリカの経済構造が農業から商工業へ発展するのに伴い、1920年代になると、南部の農業地帯から黒人たちは続々と年に移り住むようになる。より洗練されたブルースが形成されていった。
南部のブルースマンたちもレコーディングのため都市へと赴き、都市とのブルースの交流が見られ、徐々に音楽的に進歩していった。
1、ブルースの伝播
ブルースは都市に住む黒人たちの間にも広がり、学校を出た黒人たちの間にも浸透していった。
リロイ・カーはピアノを弾きながらブルースを歌いシティー・ブルースの先駆けとなった。
リロイ・カーの代表曲を貼っておきます。
2、レース・レコード
レース・レコードは黒人の音楽専門に作られた78回転のセラミック盤で20~30年代に多く作られた。レースとは人種のことで、黒人の音楽で構成されていた。しかし徐々に白人たちにも注目されるようになる。
3、クラッシック・ブルース
20年代になると、女性シンガーがシティーに登場する。この女性シンガーの歌うブルースをクラッシック・ブルースという。マ・レイニー、ベシー・スミスが有名である。
4、シカゴ・ブルース
30~40年代、にかけてシカゴスタイルのブルースが成長し発達していく。
4、ブルースのその後
1、ブルースの通俗化
ブルースが声楽音楽として発生したのとほぼ同じころ、器楽音楽としてラグタイムが生まれている。このラグタイムの要素を取り入れながら、大衆性と商業性を帯びたブルースが生まれる。
そしてフォーク・ブルースの本質であるはずの個人的感情を歌い上げるという精神は影をひそめてしまい、不特定多数の一般大衆を意識した計算されたブルースを作る専門の作曲家が現れてくる。
ここにおいてブルースは商業的に完成された都会の音楽になり、さらにブロードウェイ・ミュージカルやハリウッド映画に取り入れられるにいたる。
当時、もっとも人気のあったブルースを貼っておく。
2、ブルース・コンテンポラリー
ブルースはもともとA-A`-B(各4小節)という12小節で構成されるが、このコンパクトな3部形式はポピュラー・ソングやインストルメンタル楽曲に応用しやすい構造といえる。その結果、本来のブルースとは全く関係なく、この形式だけを利用した様々な曲が生まれている。
ブルースの形式をとっているが、本来のブルースから離れたポピュラー曲をいくつか紹介する。
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