今日は晴天、しかし、梅雨の期間の晴天は空が青く見えない、空全体が白く光っているようだ。
十時過ぎ、徳島駅裏から自転車を引っ張り出す。
今日は最近ちょっと気に入っている北沖の洲の吉野川河口へ自転車で行った。潮風に吹かれ、ぼんやり海を眺めるのが何とも気持ちが良い。
私の住む町は20数キロ内陸に入ったところにある。もちろん生活圏に海が見えるところなどない。普段は山や川を見て生活している。
しかし、先日、北沖の洲や小松海岸の海を見てからというもの、あの日、心を空白にして海を眺めたときのことが忘れられず、天気がよくなったら無性に行きたくなった。
普通の人は、見たくてもそうそう海岸まで行って海を見れないだろう。私は幸か不幸か暇はたっぷりある。思い立ったらいつでも行ける。
ただ、車を持っていない。どこまでも自転車だから、風の強い時とか(先日、海岸堤防で自転車ごと吹き飛ばされそうになった)、雨の日とかは行くのが大変だ。
雨の日の鉛色の空、鈍色の海の色なども眺めていたい気もするが、今のところは行けてない。
護岸堤防に坐りそぞろに海を眺める。
土曜日とあってかぽつぽつ人も見える。みんな、なんか目的を持っているように見える。バズーカ砲のようなカメラを抱えている人、ウエットスーツを着ている人、竿を垂らす人、などちらっと格好を見れば目的は推測できる。
「ぼんやり、海を見てるだけの人はと????」
50メートルむこうに青年が私と同じ体勢でいるのだが・・・・・
しかし、よく見ると、本を開いている。(まぶしくないのだろか、)
結局、ホントにぼんやりしてる人は、見渡せる範囲の500メートル四方、私だけ。
気温も上昇しているので、浜では水遊びをしている家族がいた。
人には、何か海へと駆り立てる本能があるのだろうか。
私などは衝動的に、ほとんど、気が付いたら、海に来ていた。(ちょっとオーバーかな、)
「いや、一概にそうとは言えまい。」
海より山に引き籠るのが好きな人もいるだろう。最近流行りの(?)自然葬散骨だって、太平洋に撒いてほしい人もいるし、野山に散骨してほしい人だっているはずだ。
海回帰もいれば、山回帰もいる。
そういえば古事記(日本最古の現存する本)には、「海彦」、「山彦」が対比され、確執がある。人も両タイプあるのか?
「しかし、それほど単純なものでもないだろう、現にわたしなど、両方回帰の傾向がある。」
など、海を見つつ潮風に吹かれながらも、いらぬ妄執からは解脱できぬようで、いつもの下らぬ考えがぽこぽこ湧いてくる。
「山回帰の人は、その先、どうなるのだろう?山は所詮、袋小路、それでも奥へ奥へと入って行くのだろうか。」
「しかし、海回帰の人は?」
行き止まりの海岸、あるいは岬に立ち、大海原を見て毎日暮らすのだろうか?
人も世界もうんと若かった太古に想いを馳せる。
太古、海回帰の人は毎日海を眺めているうちに、遥か海の彼方には「常世の国」があるに違いないと信じたに違いない。まあ、理想の、ロマンの国とでも解釈してください。
そして、ある日、思い切って丸木舟などの手作りの原始的な船に乗って船出しただろう。海に飲み込まれ消えてしまった人も多かったが、新天地にたどり着いた人もいた。
海に飲み込まれるかもしれない恐怖を克服し、常世の国を求め海原を渡る決断をした人の新天地で国づくりをしようとするポテンシャルは極めて高い。たとえその地に原住民がいても、進取の気性を持ち大海を冒険して渡った人に勝てるはずはない。
きっと征服され、海の民が支配者になっただろう。
太古、大陸から渡ってきた人が縄文人を服属させ、日本の国を作ったという説もそう考えれば信じられそうである。
そういえば、西暦1533年、はるばると海を渡ってきたピサロ以下わずか180人のスペイン人は、あの大インカ帝国の喉笛を一瞬で噛み切り、永遠の消滅をもたらし、数百年の植民地を築いたのである。
「おそろしや、海から渡ってきた人は!」
「えーいいっちょう、私も、新天地をもとめ、海に乗り出そうか・・・・・」
「いえいえ、この歳になって現実味を帯びてくるのは、海への入水自殺かも、トホホ。」
2 件のコメント:
常世の国っていう言葉があったんですね。知りませんでした。理想郷ですかね、ニライカナイとかワダツミとか曲のタイトルで聞いたことがありましたが、関係していたとは・・・。
自然葬散骨といえば、昨年の夏、母親の散骨を江の島の海岸で行ったことを思い出しました。生前の本人の希望でしたので・・・。自分の生まれ育ったところに帰りたかったみたいです。私は神山の奥で生まれているので山回帰かな・・、そういえば死んだら大河原牧場から散骨してくれと頼んでいるのを思い出しました。
一番いいのは前にしんさまが言ったように、海を前に、心を空白にし
「自然、もっと言えば宇宙と一体になり、自我を極限まで薄める」
のが理想です。
でも、悟りに近い境地になり、生きながら仏になったら困るので妄執はやめません。
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