2012年3月31日土曜日

残念ながら神山の二宮じゃない


 神山はその地名名称からして何か曰くありそうである。神の山、神々しい雰囲気もありますね。かなり昔、神山は魏志倭人伝に出てくる「邪馬台国」で卑弥呼がここを本拠にしていたという本も出版され地元では話題にされ、一時、もてはやされもした。

 観光も悪乗りしてか、山の磐座(大きな岩盤露出の場所)にミス神山らしき娘に卑弥呼の格好をさせポスターを作っていたのを、昔、確かに見た。

 邪馬台国神山説についてはホンマかどうかはわからないが、古代において神山は僻地ではなく、文化進んだ阿波の中心地であったことは確かである。

 国府の跡は神山の入り口に近いところにおかれていたし、阿波国の一宮は古代においては(今は一宮は大麻比古神社といわれるが)、神山町にあった。

 山岳地帯は交通に不便なような気がするがそんなことはない。神山から山岳の尾根、あるいは峠伝いの道は今以上に通行されていた(昔は谷や川筋の道をだらだら行くより、尾根、峠のほうがより近道であった)。 神山は那賀奥、あるいは麻植郡や美馬・三好の山岳に抜けるには大変便利であった。古代中世、この意味で神山は阿波の中心地といってもよかった。

 中世には『阿波山岳武士』がこのルートを使って縦横無尽に活躍する。

 さて、先日私のブログの読者から(って、彼がほとんど唯一の読者であるが)、一遍さんゆかりの二宮は、この神山の二宮の可能性はないのか?との疑問が寄せられていました。

 そこでもう一度調べました。

 まず、絵伝詞書きから
 右に読みにくいですが、7月に阿波を出発して淡治(あわじ)の福良に行ったとあります。
 それを受けて、当国(つまり淡路)二宮・・・とあります。

 淡路の二宮に間違いないです。そして下はその時の二宮での踊念仏行の絵巻です。

 神山は卑弥呼の里ではないかもしれないが「ソロモンの秘法」の隠し場所の可能性も言われています(って、誰がよ!)、こっちが面白そうです。観光で売り出すのはいいかもしれません。あと、なんかいいアイデアありませんか?

追伸 

 一遍さんが実際に訪れた「河辺廃寺」跡から数百メートルいくと峠へ通じる道があります。そこを通り「梨の木峠」を越えると、
 なななな、なんと、神山の二ノ宮に抜けます。
 二ノ宮とこのわが故郷にある河辺廃寺の里とは一つ山を越えて裏表の関係でした。
 驚くほど近いのです。そりゃあ、表裏一体ですからね。
 
 ということは?
 何か月も滞在した一遍一行、二ノ宮にも足を運んだ可能性が・・・・・

 ああ、もうたまりません!妄想がパタパタと飛び始めました。

 太郎のぶかず殿もある日峠道をたどり梨の木峠へ、そこへ二ノ宮から山菜・薪を採りに来ていた美しい里娘と会い、恋におち、やがて、娘は男の子を生みます。しかしやがて哀しい別れが。

 その後、二ノ宮でその子はすくすく育ち、代を重ねること幾世代、そして昭和の御代に美しい玉のような男のこが・・・

 「おお、太郎のぶかず様に生き写しじゃ!」(って誰が言うんだよ!)

2012年3月30日金曜日

消費税値上げ法案、閣議決定、国会上程か

 で、いつものやまさんの今日の心象風景

 普段は主義主張が違うのであまり同調しないが、今回は何とか頑張ってほしい。党の看板に消費税反対を掲げている「狂賛党」と「斜眠党」に。

 でも『赤字のツケを将来、子や孫に残すな!』との大義名分で説得されれば、物分かりの良い日本人は大方、賛成しそうである。

 「やまさん以外はみんな裕福なんだなぁ~」

 やまさん一人が生きよが死のうが、やがては消費税はドドドド~~~~ンと上がることは確実である。
 悔しいけど仕方がない。まあそう長くも私は生きまいから実施されるころにはこの世から消えてしまっているかもしれない。

 私は、物品税は特殊なものを除いてかけるべきではないと思っている。
 歴史上有名な物品税は中国の「塩税」である。役人がむちゃくちゃこれに税をかけ、ごまかし、わいろ横行し、確か、塩税反対の大きな農民反乱がおこり、中国の何だっけかな、ともかく大王朝が塩税反対の反乱で崩壊した。それくらい物品税の塩税は庶民の怨嗟の的だった。

 日本の歴史では物品税なんどはない。中世の人々は苦しかったが、物品税などはとられていない。物品税が入ったのは明治の近代国家からであり、大きかったのは「酒税」である。他にタバコ、塩などもあった。
 これだけでも庶民の生活を圧迫した。物品税は生活必需品にかかると、中国の塩税のようにむちゃくちゃに課税された場合、庶民の生活は必需品であるため崩壊に瀕する。
 だから物品税をかける場合は慎重でなければならない。
 ぜいたく品ならまあ問題はなかろう。絶対やってはいけないのは生活必需品である。これにかけるというのは空気や水に税をかけるに等しいと私は思っている。

 ところがこの消費税という奴、すべてにかかる物品税である。生活必需品だろうがなんだろうがすべてである。
 言い換えると

 「あらゆるモノに物品税を取りますよ」

 ということである。
 中国は物品税の一つの塩税だけで大王朝がつぶれた。無数のものに物品税がかかる消費税をかけるわが政府はどうなんだ?
 物品税の数だけ政府が崩壊しなければならないんじゃないか?

 といっても政府は一つ、どうせノダもこれで潰れてもいいと思っているだろうから潰れたところで平気だろう。

 それなら物品の数だけ国会議員の首を差し出すってのはどうだろう。
 そうでもせにゃあ、腹の虫がおさまらん!

2012年3月29日木曜日

巡礼に出たいが


 今日の徳新にこんな記事が載っていた。

 『足の悪いフランス人青年(27歳)が四国88ヵ寺、歩き遍路へ。歩行補助器(杖か)を使い、1200キロを70日間かけて行く。白装束で、10キロを超える荷物を背負い、日本人の友人とともに3月11日に一番さん霊山寺を出発、24日までに薬王寺に着いた。』

下が記事の写真である。
  
 「なかなか、やるではないか!そして動機の一つが東日本大震災・大津波の人々を勇気づけるためのチャレンジ、ということで、またまた、う~~ん、素晴らしい!」

 「先を越された。」

 我が町は札所11番から12番の道筋に当たっているため、菜の花が咲き、桜も咲こうかというこの頃歩き遍路が、ぐぐぐぐ~~~と増えてくる。

 それを見ながら、

 「いつか、おいらも行くんだ、春遍路」

 といつも思っている。この気持を持ち続けている証拠に、これこの通り、一年以上も前にこんなブログを作っている。

ここクリック

 今、腰のヘルニアで私も杖を突いている。早く行かないと歩く体力もなくなると焦るが、こんな障害があってもチャレンジする人がいることは私も大変励みになる。

 私は、巡礼(遍路も)に対してはロマンというか妄想かもしれないが、こんなふうに思っている。

 死期を見極める⇒何もかも放下し身一つで旅立つ⇒巡礼の道で死す⇒行路病死人(行き倒れ)として扱われ無縁として焼却(荼毘にふす)チィ~~~ン、なもあみだ~。 

 しかし、現実には上記の『身一つで』などというのはできないというか無理である。
 まずカッコウはどんなみすぼらしい巡礼はんでも「菅笠」と白装束身に着けている。
 これは江戸期でも(下の図、天狗を背負う人)
 中世でも同じである(白い浄衣を着る)
 そして昭和ではこのようになる
 皆さんそれなりの格好をしておられるし、最低限のモノは背負っている。また路銀もいるだろう。
 文字どおりこのように身一つで旅立てるものではない。
 「う~ん、そうか、いくらなんでも、上記のような格好では旅立てないのだ。」

 「まるで自分は巡礼を姥捨て山か何かのように勘違いしていたのかもしれない」

 巡礼は信仰あるいは精神修養の旅であり、勝手に行き倒れを目指していくものではない。

 でも芭蕉翁は「旅に死すことも可なり」といって旅立ったが、ありゃ、修辞か!

 現実問題として、住む家もなく、金も全くなく、持ち物もない人で道をフラフラ歩いている者は巡礼とも呼んでくれないのだろう。タダの浮浪者、ホームレスか。

 「それでも行くんだ!どうせ行き倒れが目的なら、構わん、ほっといてくれ!」

 と旅立ちたいが、今のとこ、勇気がない。

 しかし何年か前に、やま爺さんに勇気を与え励まされるような巡礼の爺さんがいた。この人である。
 この爺さん、ちょっと今のやまさんに似てるが、80歳になんなんとする超高齢巡礼である。すごいのは家も持たず、88ヵ寺を何度もまわり6年以上その巡礼生活を続けているのである。糧は喜捨、御報謝で得ているのである。もちろん旅寝の草枕、野宿やお堂、善意の無料宿泊所である。

 もうやまさんにとって理想的な巡礼である。こんなにすごい爺さんが足かけ6年も無一文で巡礼しているので、とうとう天下のNHKが「草遍路」という特集を組んで放映したのである。
 一躍有名人となった。そのためやまさんも知ったのだが。
 我が家近くの遍路道でやがてめぐってくるこの爺さんをつかまえて話を聞いて、私も将来に備えようかと考えたりもしました。

 ところがしばらくして、またまたNHKが取り上げました今度はニュースとして

 『全国放映されたため、12年前の殺人未遂の指名手配犯ということがわかり、逮捕されました』

 今日、近くの12番藤井寺に巡礼さんを見に行きました。午後の3時過ぎのためかたった2人しかいませんでした。
 一人は中年のおばさん巡礼、もう一人は紅毛碧眼の異人さん、でもこの異人さんちゃんと作法を守ってロウソクをあげ、その火で線香に火をつけ堂前に線香を挙げてました。
 2人にうち一人が外国人、最近巡礼に外国人が増えたと聞くが、今日のこの場の外国人占有率は50%である。
 見たらわかると思いますが、きれいなズボン、靴、目に染みるような真っ白の浄衣。そばにいるやまさんのほうが襤褸の塊の格好をしてました。

 「巡礼するのはブルジョワ、金持ちでなきゃぁ、こいつは難しいぞ。」

2012年3月28日水曜日

花のトンネル


 ソメイヨシノの蕾もピンク色になってだいぶふくらんできている。今年は少し遅いような気もするが、この分で行くと徳島あたりはちょうど新入生が門をくぐる4月9~10日ぐらいが満開になるのじゃないでしょうか。

 天邪鬼のやま爺さんは、ソメイヨシノが満開を迎る頃に桜主題でブログをアップするのも嫌なので今日、早々と桜(蜂須賀桜)と椿の動画を作りアップしました。

 満開の桜の下では何が似合うでしょう?偶然、美しきものに出会いました。さて・・・・・・・・

2012年3月27日火曜日

腰痛、あまりの痛さに思わず歌が・・・


 腰痛持ち、あるいはぎっくり腰になった人ならばわかると思うが、体を動かした時の激痛はただことない。
 腰痛の場合、他の病気と違って寝ていれば少しは楽、ということもない。寝返りを打つたびに激痛が走るし、朝、起きようと思っても痛くてちょうどこのような状態で、うつ伏せになり、尻を持ち上げて立たなければならない。
 これこのように
しかしあまりの激痛に声を上げる。
誰も聞いてくれない!誰も助けてくれない!

自虐的に激痛の雄叫びを歌に変えてしまうしかない

 『デェ、イデデェオ~、イデデ、イデデ、イデデ~ォ、~~~』

 これこのように!

 そして、朝起きて、しばらくは立てない。このように部屋をはい回る。
 しばらくしてつかまり立ちして、ゆっくり歩くと、馴れてようやく何とか歩けるようになるが外を歩くときは杖を突いている。痺れ、ピリピリ感もあり、まことに不自由である。
 腰痛のため死にはしないが、『生きる力も~♪、失われていく~♪、砂時計~♪』(ジバの女王、から)である。                                          


2012年3月26日月曜日

一遍さまとの旅を終えての雑感


 気ままな歴史妄想ブログをお読みくださってありがとうございました。何度も歴史妄想と断っているので、このすべてをまさか鵜呑みにする人はあるまいと思います。
 このブログに登場する全国各地の風景、人物は国宝『一遍上人絵伝』の美術全集の一巻(定価6800円)より引用したものです。
 面白おかしく私が絵に勝手に細工をくわえております。ちょっと申し訳ない気もしますが、もう700年以上も前の絵師「円伊」が描いたもので、いまさら著作権、肖像権もないだろうと断りなく使わせてもらいました。

 私のような歴史妄想好き、勝手にその時代へ空想を駆使し、ぶっ飛んでいくものにとってこの絵巻はもう堪えられない価値を有しております。
 普通、宗教の祖師の絵伝などというと、霊験譚、奇跡のオンパレード、風景、他の人々の描写もそこそこに、やたらと祖師・聖人を中心に大きく厚かましく描くものですが、この絵巻ではそういうことはありません。

 一遍さんはどの場面でも小さく、中には大勢の人の中から

 「え~~っと、どれが一遍さん?わかれへんわ」

 探すのに苦労するような始末です。

 また、人物、風俗、建物、この時代の特徴が非常によくわかる描写になっております。それに出てくる人物は庶民が多く、それ以下の乞食、犬神人、非人・・・などの最下層の生態も余すところなく描いております。

 本当に妄想ブログ「やまさん中世の旅」にはもってこいのネタ本でありました。

 一緒に旅をさせてもらった一遍さんは西暦1289年8月23日に亡くなっております。前のブログで紹介したように一遍さん自身は、自分の教えは一代限り、組織を作り、戒律を作り、教団を立ち上げ宗派にするなどとは考えていませんでした。ただ一遍さんが亡くなった後、教えを慕う教団として存在して後には『時宗』として宗派に成長します。

 私はその時宗には全く興味がありませんが、自分一代限りと言い放ち、ひとえに弥陀の救いを信じて、人を救おうと全国を捨て聖として歩いた一遍さんには、限りない尊敬の念を抱きます。

 もし、今、一遍さんが私の前にいらっしゃったら、教えを乞い、一緒に遊行の旅にでかけるかもしれません。

 仏教の本来の(インド直伝の仏教の考え)教えは並みの人間には実践の難しいものです。我ら凡夫は『貪り』、『瞋り』(いかり)、『愚かさ』のような悟りを妨げる煩悩をどうしても払しょくできません。それを払しょくし悟りを得るためには修業をしなければならないし、悟りを得た後も「実践」をしなければなりません。
 はたしてそのようなことが中世の庶民、下層民にできますでしょうか。これは今に生きるこの私とて同じことです。

 では庶民下層民凡夫は救われないのでしょうか?

 「いいや、必ず、お救い下さるぞ!」

 と自信を持って行動実践されたのがこの一遍様でした。中世の時代においてこのような一遍様はどれほど輝く存在であられたことでしょう。

 あの世のことは知らず、現世において一遍様によって苦しみが消滅、いや消滅しないまでも軽減された方が多くいたであろうことは確かです。まことにこの時代にあって、ありがたいお方でありました。

 最後に一遍さん、そして中世に生きた人々に捧げる意味で

 『南無阿弥陀仏』、『南無阿弥陀仏』、『南無阿弥陀仏』、三遍唱えて今日のブログを終わりたいと思います。

やまさん中世を歩く 最終回 すべては南無阿弥陀仏に


 我が町の南の山のふもとに廃寺がある。廃寺であるから今は何もない。行ってみると田圃だった農地のようになっている。
 この農地が以前から寺跡とわかっていたわけではない。昭和29年(1954年)に耕作中に瓦や礎石が見つかったとある。
 そして言い伝え、あるいは古文書から、大昔にこの辺りにあった「河辺寺」ではないかと推定されるようになった。
 創建はかなり古いと思われる。サイトで調べた発掘調査資料を少し見てみよう。

 ここクリック

 寺の名は「河辺寺」、こうべと読んでいる。時代様式の瓦の出土から創建は奈良時代と説明されている。

 下は私が撮った写真である。礎石が一定間隔を持って長方形状に並んでいる。
  
  この廃寺に私が注目したのは一遍聖絵を読んだからであった。原文で読みにくいがちょっと見ていただこう。

 正応2年、この年は一遍さんの亡くなる年でもあるが、この年、讃岐(香川県)より「阿波にうつり給」、とある。右の白い線を引いてあるのがそれである。阿波に入ったが、その阿波で地名が出てくる、そこにとどまったのであるが、その地名が左の白い線、「大鳥の里河邊(辺)」といふ・・ この地名今のどこだろう?

 岩波文庫「一遍聖絵」の校注者、大橋俊雄(クリック)氏によれば、大鳥の里河辺は徳島県麻植郡鴨島町敷地字宮北、に比定されている。

 ここは我が地元である。正応2年(1289年)、一遍さんがなくなる2か月前にこの地に来て滞在しているのある。もちろん念仏行、教化であろう。
 しかし、この地にたどり着くのは一遍さんにとってかなりきついものだったに違いない。病気が進み、死期の近いのを悟った一遍さんは、幾ばくならずして自分は尽き果てるであろうと、周りに漏らす。
 この川辺寺についた6月1日は病悩し、寝食も普通でなかったという。
 それでも念仏行、教化は行われた。

 今の河辺廃寺跡の遠景、農地、小高い丘、道路が盛り土されコンクリートで堰あげされたようになっている。往時の寺を偲ぶよすがとてない。

 これでは妄想のしようもないので、まず道路、鉄塔、電信柱、電線、近代的な構造物は消し去ると・・・・
 
 おお、いい具合になってきた。そして、寺、踊念仏の一団、お堂などを入れると・・・・・・
 「中世河辺寺」の出来上がり。

 この後、ここを出発した一遍さんに残された日々は多くなかった。淡路を経て、兵庫にたどり着きそこで亡くなる。8月23日、我が町川辺寺で6月初めにいた時から数えて3ヵ月にも満たなかった。
 兵庫の観音堂での一遍臨終の様子
 
 一遍さんは常々言っていた、わが教えは我、一代限り、書いたものは破棄せよと。

 すべてが南無阿弥陀仏に収斂し、その他のものは一切、虚仮であるとの、お教えであろうか

一代の聖教みな尽きて南無阿弥陀仏になりはてぬ

 まことに潔い、信じること一筋の聖さまでございました。

 今回を持ちまして一遍様とともに歩んだ「やまさん中世を歩く」も終わらせていただきます。

2012年3月25日日曜日

春風のいたずら


 昨日から腰のヘルニアが再発し、激痛で動きが取れない。足もしびれている。外へ出ようと思ったが今日は杖がいる。
 杖を突きながらヒョコヒョコ外へ出る。

 戸をあけて外へ出たとたん、物凄い突風にあおられて転びそうになった。風が強く吹いている。庭を見るとどこから飛ばされてきたのだろう破れ傘が落ちている。
 また庭の隅に置いてあったバケツも庭の反対の方に転がっている。
 
 春は風の強い季節でもある。今日の風はかなり強くいろんなものを吹き飛ばす力を持っている。春風はちょいとしたいたずらをする。

 こんないたずらならまあ、いいかもしれないが、いろんなものを吹き飛ばされる、いや吹き飛ばされるのはいい。逆に我が家へ吹き飛ばして来るのが時としていたずらではなくなる。

 春の風の強い日、やまさんが庭へ出ると、どこかから

 『桃色のフリルの超セクシーな女性ズロース』

 が飛んできて落ちていたとしよう。

 「これ、どうしよう?」

 処理に困ってしまい。一瞬考える。皆さんならどうします。とりあえず自分の庭にあるモノだからそのままというわけにもいかず、拾って一旦家の中へ入ろうとしたとき、つまんだ手元をじっと見る視線が・・・・・・・・・・

 「あ、近所の金棒引きのババアだ!」 

 その日から、近所の態度がよそよそしくなり、妙な噂が・・・・・・・
 
 「ああ、破れ傘でよかった。春風さん、みょ~なものを吹き飛ばしてくるいたずらはやめてね。」

 今日は実は家の南の方にある「廃寺」へブログの写真を撮りに行こうと思っていました、いよいよ「やまさん中世を歩く」の最終回を作ろうと思っていたのですが、腰の痛みで杖を突いているので遠くまで行けません。そのため最終回ブログは今日はできませんでした。
 
 それでも近くのスーパに食料を買いに杖をついていきました。道は乾燥して埃が舞い、強風にあおられ目の中に埃が入ってきました。
 目が痛い。それでなくても花粉症で粘膜という粘膜が充血してるのに・・・

 「大げさなことにならねばいいが」

 目をこすりながら家に帰って来ました。

 風が吹けば桶屋が儲かるというけれど、得する人もいるのかしら、と思いながら目薬が沁みた目の痛みと、腰の激痛に耐えるやまさんでした。

やまさん中世を歩く 番外編 エピソード2 二人のその後


 中世旅日記も終わりが近づいておりますが、何年も旅をしてきたお二人の今後が気になるところです。お二人とは蔵本太郎信一さま、情事姫のことです。
 この旅日記、終焉の地は決まっております。わが家から南へわずか2キロばかり言ったある廃寺です。お二人もご一緒にこの阿波国、麻植ごおりのこの地まで旅をされました。そこで

 「はい、解散~」

 でそれぞれ別の人生を・・・・・ではあまりにも味気ないので、妄想から生まれたキャラお二人、ここは阿波国でもありますので、お二人にふさわしい妄想ロマンを用意しました。
 ただし、このロマンは途中までで、結論はどうかこれをお読みの皆様でお選び下さい。
 それでは「やまさん中世を歩く、エピソード2」、始まり始まり・・・・・・・

 さて、旅の終わりの地は、ここ阿波の国、麻植ゴオリ、お二人は一遍さんとずっと一緒に旅をしてまいっております。

 考えれば不思議なことではございませんか。情事姫は都にいられぬ事情があり、全国の霊場を参拝しているから、一遍様ご一行と行動を共にし、ずっと一緒についてくるのはわかるのですが、太郎のぶかず様は歴とした鎌倉御家人、それにこの阿波国の名東郡に広大な荘園もお持ちです。なぜに捨て聖のように一遍様について回っているのでしょうか。

 実は、太郎のぶかず様は、身に覚えのない「謀反」の罪を着せられて、幕府より追討令が出されているのでございます。
 もとよりいわれのない罪ございますので、鎌倉へ参りまして身の潔白を証明なされば良いと思うのですが、政事(まつりごと)の世界は、「質実剛健」「単純にして剛毅」な鎌倉武士の美徳とは違うものでございます。
 鎌倉の政事の中心にあっては、魑魅魍魎のような権力亡者が跋扈し、正義が通るようなところではなくなっていたのでございます。

 この最後の旅の地は正応2年(1289年)でございましたが、それを遡ること4年前、弘安8年に鎌倉を揺るがす政変、霜月騒動が起こったのでございます。  (霜月騒動についてはここクリック)

 前に太郎のぶかず様のご紹介で触れましたが、弘安年間、鎌倉の政事の中心は安達泰盛様でございました。このブログで恩賞奉行になっておられる方でございます(ここクリック)

 このお方は、恩賞奉行も務めた鎌倉の中枢にあっては、古武士の美徳を有する、公平な方でございました。この太郎のぶかず様もそのようなお方ですので、尊敬しこころを寄せておりました。結果、それが、あらぬ謀反の罪を着せられてうち滅ぼされた安達泰盛様の与党(一味同心)と見られてしまったのでございます。

 鎌倉の合戦で泰盛様が討死なさると、その跡を襲った権力の亡者どもは、泰盛様に与すると思われる武士のリストを作り、追討令を全国に発したのでございます。
 この時のぶかず様は京都におられましたが、即日、国元では阿波守護の軍勢が押し寄せ、広大な領地は没収、奥様は同国の豪族の娘であったため、里元に連れ戻されたのでございます。
 この日から太郎のぶかず様は、謀反人、さて、どうしたのでございましょうか。

 のぶかず様は、鎌倉へ出向き、通らぬまでも身の潔白を申し立て、かなわぬなら腹切ってでも、と思い立ったのでございます。
 それを必死で止めたのはほかならぬ情事姫でございました。

 「理非をわきまえぬ悪人どもが巣食う鎌倉へ行けば汚名を着せられ、申し訳も聞かばこそ、即、打ち首、さらされるのは火を見るより明らか、それよりかは、どうか、落人となってお逃げくださいませ。やがて時運めぐらば潔白を明かすときも来ましょう。それまではふつつかながら、この私がお世話いたします。」

 で、それから足かけ満4年、世を避けるように一遍様一向に見え隠れしつつ後を追っての落人の旅でございます。

 しかし、ここ太郎のぶかず様の故郷、阿波では謀反人の御詮議は厳しく、この終焉の地からいかにしようかと思い悩んでいるお二人でございます。

 その時、一変笑人さまがこのように言われたのでございます。


  一変笑人さまのお教えのようにお二人はここより西に5里ほど行き、山あいから流れる穴吹川を遡り、平家の里に向かうことにしたのですが・・・・・・・・・・・・

 さて、ここからのお話しの結末は皆さんそれぞれの選択方式にしております。
 次のサイトにお飛びくださいまして、皆さんのお好きな結末をお選び下さい。

 ここクリック

 それではこれを持ってエピソード2、読み切りとさせていただきます。

2012年3月24日土曜日

やまさん中世を歩く 番外編 エピソード1

 夜もしんしんと更けてまいりました。お二人が焚火を囲んで何やらしんみり、お話をしております。今夜は番外編としてお二人のお話しから世にも悲しい夜話しをお送りいたします。

 我等が旅をしていてときどき見かける子供の集団、そしてそれを取り囲む厳しい顔をした大人、だいたいは畿内(京阪神地方から)から東国へ向かう一団である。

 「さて、これをなんと見る?」


 これは、東国へ子供たちが売られていくところである。中世は人身売買が認められていた社会でもあったのである。
 育てられない親から幾ばくかの金を支払って買ったもの、孤児を引き取ったもの、さらには
 「人さらい」
 今でいうと誘拐である。ただし、この時代であっても「人さらいは」御法度!許されぬことだが、自力救済が優先され、治安警察権など無きに等しいこの時代、されわれたら、子供を力ずくで取り返さぬ限り、誰も助けてはくれない。

 これらの子供は東国などの、この時代、開墾が進み、労働力を欲していた国に連れて行かれ、売られたのである。

 さてここに一人の母親が登場する。京都で夫婦と一人息子と楽しく暮らしていた。これが母親である。
 夫婦と子供で旅をしていたが、何かのひょうしに夫に行き遅れて母子2人になってしまった。その隙に子供は人さらいにされわれてしまった。半狂乱になって夫婦は子を探したが見つからぬ。やがて夫はそのままなくなってしまった。
 しかし、母親は必死になって探し回った。その結果、東国へ売られていく子供の中によく似た子供がいると聞き、東国へと母親は追いかけていった。

 これ、このような子供であったのだろう。
 下がこの子ども、上の方はもう少し大きい子ども、大きい子どもなので上はさらわれたのではなく親に売られたのかもしれない。髪型がずいぶんと現代的だがこんな頭もこの時代の子供の格好である。大きい子どもは鼻筋の通ったジャニーズ系の顔をしている。いまならジャニーズ事務所に売り込めるのだが・・おっと!今は人身売買はないか!

 さて、それはともかく、母親は子供の後を追って、とうとう武蔵の国(今の東京都)あたりへ来た、探し疲れ、文字どおり半分狂ったようになっていた。
 さらに東へ行こうとすると、そこには大河が流れていた。
 日もしだいに暮れてきた。さまよい行くと、渡し場があり、船頭がいた。


 「日も暮れますよ。乗るなら早く乗ってください。」

 「これで最終便だ今日は大念仏があるから人が沢山集まる。」

渡し守(船頭)がそういうと、女は急いで船に乗った。

 向こう岸へ着くと、対岸の柳の根元で人が集まっている。何だと女が問うと、渡し守はあれは大念仏であると説明し、哀れな子供の話を聞かせる。

 京都から人買いにさらわれてきた子供がおり、病気になってこの地に捨てられ死んだ。死の間際に名前を聞いたら、

 「京都は北白河の〇〇某の一人息子である。父母と歩いていたら、父が先に行ってしまい、母親一人になったところを攫われた。自分はもう駄目だから、京都の人も歩くだろうこの道の脇に塚を作って埋めて欲しい。そこに柳を植えてくれ」

 という。

 里人は余りにも哀れな物語に、塚を作り、柳を植え、一年目の今日、一周忌の念仏を唱えることにした。

 それこそわが子の塚であると女は気付く。渡し守は女を塚に案内し弔わせる。女はこの土を掘ってもわが子を見せてくれと嘆くが、渡し守にそれは甲斐のないことであると諭される。

 やがて念仏が始まり、鉦の音と南無阿弥陀仏が寂しく響く。そこに聞こえたのは愛児が「南無阿弥陀仏」を唱える声である。尚も念仏を唱えると、子供が一瞬姿を見せる。だが東雲(朝が)来る時、母親の前にあったのは塚に茂る草に過ぎなかった。

 この後、女は我が子の幻を求め、狂女となって我が子の名を呼びながらさまよった、その声を聞くもの姿を見るもので涙せぬものはいなかったそうです。


 まことに哀れな話であります。しかし、中世には人さらいの悲しい話はたくさんあります。「山椒大夫」(安寿と厨子王)も有名な人さらいの話です。
 西洋中世でも「ハメルンの笛吹き男」、「少年十字軍」と名前はかわいらしいですが、実体はかどわかし、少年奴隷の売り飛ばしが横行していました。

 哀しい中世夜話し一巻の終わりでございます。


2012年3月23日金曜日

ひとがた・または愛着の付いたフィギュア


 MOTOちゃんのブログで他人の残していったぬいぐるみの処分に困ったいるというのを読んだ。

 残していくというのは愛着が薄れた証拠だが、以前は可愛がって愛着がついていたものに違いない。(そうでなければぬいぐるみや人形は手に入れないだろう)

 しかし愛着がなくなったとはいえ、以前は自分が愛おしんできたものを人前に触れるところに置き去る、あるいはポイするのは好ましいことではない。
 「愛玩動物捨て去り事件」、とよく似ている気がする。可愛くない、汚くなった(病気、高齢の為)、愛情がなくなった、じゃまっけになった。で、ポイする人も同じだと思う。
 
 たかがぬいぐるみ・人形の捨て去りに、そんな大げさなといわれるかもしれない。かたや命のあるもの、かたや無生物、壊れ、いらなくなったら捨てるのは当たり前、でもそうでしょうか?
 一旦、愛着の付いたものを不用意に捨て去る、置き忘れるなどということは、私がいま旅をしている中世日本人には絶対なかったと言えます。

 今日のブログはそんな一旦愛着の付いたぬいぐるみ、人形を平気で置き去り、ポイする人の為に捧げます。

 「愛着」、英語では「attachment」、英語の語源的意味は、at-(ad-)の方に向かってtouch触れる、ということであり、日本語も英語も強いあるものの付着を感じさせます。
 あるものに強い「念」が付着し離れないことを「執着」といいます。もともと中立的意味と思うのですが今は否定的意味が強いです。しかし、これは「愛着」の広義です。強い「念」が「愛情」に置き換えられれば「愛着」となります。
 そして強い「恨み、憎しみ」の「念」も愛着と同じように着きます。

 さて、ここからはちょっと恐ろしい話になるのですが、中世日本人はそのような「愛情、恨み、憎しみ」の念は、ひとがた、人形などに単純に「着く」のではなく、違う言葉の「憑く」と考えました。意味が難しいかもしれませんが憑依、のりうつるとでも言いましょうか・・・
 そうなるとひとがたでも、それにこたえてくれるのか、魂をもったあるモノに変身しました。たんなる物ではなくなります。

 それを「分身」のように見たんでしょうね。そのようにひとがたを見たので、自分の分身に見立てた「ひとがた」に自分の穢れや、災いを移し、それを川に流したりして、穢れ、災厄も同じように流しました。
 「雛人形」のそもそもはそれが起りだとは有名な話ですから聞いたことがおありでしょう。
 また逆にひとがたを憎い相手の分身と見立て、釘を刺して凶事を招くことも行われました。みなさん、丑の刻詣りって知ってますか?憎い相手のフィギュアを真夜中、神社の木に釘で打ち付け呪う行いです。
 中世は盛んに行われました。特にその呪いのひとがたは相手の髪の毛、愛着物を添えれば効果満点だそうです。
 今の人は、愛着のあるぬいぐるみなどを捨ててますが、中世にあれば呪う人には申し分ないアイテムということになります。

 まあ、そんなこと迷信じゃわぃ!と小馬鹿にするのが現代人の作法かもしれませんが、いったん愛着のあったものをその後、ぞんざいに扱われるのは決して気持ちの良いものではないという感覚は、中世人も現代人も同じだと思うのです。
 少なくとも処分はきちんとしてやりましょうね。

 ある日、かっては自分の愛着のあったぬいぐるみが「呪」と書いた札とともに神社の杉の木に釘づけされているのを見るのは気色のいいものではないでしょう。

 また、愛玩物には自分の体からのDNAもついていて、犯罪捜査に役立つという話も聞きます。現代の科学技術によれば、愛玩したものにたっぷりぷりぷりついた汗、皮脂、毛、フケなどからDNA、ひいてはその人の顔かたち、性向、病的傾向までわかる時代です。そんな話を聞くと中世人でなくても可愛がり、モモグリまわっていた人形、ぬいぐるみなどは不用意に捨てられませんよね。

 みなさん!こころしませう!

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2012年3月22日木曜日

やまさん中世を歩く その23 中世社会パノラマⅡ


 「やまさん中世を歩く」は次回で最終回にしようと思っています。
 そんなに長いシリーズにはするつもりではなかったのですが、元となる「一遍上人絵伝」が長大でありますので、今、まだ半分を過ぎたところです。しかし、今回でもう23回になってしまいました。

 拙劣なブログで読むに堪えないものをあまりだらだらと作り続けるのもどうかと思い、次回で強制終了させることにしました。

 最終回はどうしてもたどり着かねばならぬある場所を考えていました。そこへ行くにはまだまだ年月もかかり、長い距離を歩かねばなりません。しかし、最終回の場所に着くために大急ぎで今日は、後半の場所を通り過ぎようと思っています。

 そのため今日のブログは動画にまとめ、早足で通り過ぎました。ご了承ください。

 いよいよ次回が最終回、その最後の場所は我が家から南へわずか2キロ行った場所になります。

2012年3月21日水曜日

やまさん中世を歩く その22 中世社会パノラマ・行く人・往く人・生くる人

行く人     
 
 中世の街道には様々な人が行き交よっている。中世は封建時代でみんな土地に縛られていると思っているかもしれないがそんなことはない。定住しない人もたくさんいたのである。
 中世ヨーロッパではジプシー(ロマ)が有名だが、わが国でも傀儡。白拍子、琵琶法師、などの遊芸人、土地を通した支配を受けぬ人、逆に言えば定住を許されぬ人。その中には、乞食もいるだろう、その他、名称はよくわからないが放浪する一定の種類の人々がいた。

 このような人々はめいめい勝手に誰の規制も受けずバラバラに動いていたかというと、そんなことはない。土地を通じた支配を受けないだけで、人的な支配は受けている場合が多かった。放浪する集団、社会の中にも秩序・階層はあり、長(おさ)はいたのである。

 このような人々が社会にいるのであるから、中世の街道は人が絶えることはなかった。

 定住する人であっても太郎のぶかず様のように京鎌倉へ所用の為旅行に出る者、また情事姫のように諸国寺社参拝の為旅行する者、乞食坊主一変(いっぺん)のように修業と称しフラフラと出歩くものも多くいた。

 このように人の行き来が多くなると、主な街道の街では、街道に面した家の間口に棚を作り、品物を並べ常時、商品を売るいわゆる「店棚」、今日の店(みせ)が生まれてくる。
 また、人を泊める専門の家もできるようになります。

 前置きはこれくらいにしてさっそくいつものキャラに登場してもらいましょう。

 弘安5年、片瀬の浜で7月くらいまでいた一遍一行は、京の方へと旅立ちます。太郎のぶかず様、情事姫さま、それとこの私、一変笑人(いっぺんしょうにん)も後について旅立ちました。

 行き行きて駿河の国に入り、霊峰富士が大きく見えるところまでやってきました。
 これが中世の富士さんです。なぜわざわざ中世の富士山と断るのか?
 皆さんよく富士を見てください。左右対称の美しい円錐形をしてますね。実は今の富士山は見たことがある人はわかるでしょうが左右対称ではありません。右のすそ野の真ん中あたりにおできのように宝永山が出来たからです。この宝永山は18世紀の初め、徳川綱吉の時代に噴火でできたものです。そのため左右対称が崩れました。
 しかし中世の富士はきれいな左右対称をしてますね。
 この3人も感動して眺めております。

 街道から街へ入ると家が立ち並んでいますがよく見ると店のような家がある。

 拡大してみましょう。あ、さすが買い物好きの女性ですね、情事姫が店を覗いています。何か買うのでしょうか。

 原始的な店が出来つつありますね。じゃあ、宿はないんでしょうか。おや、太郎のぶかず様の横の家は、もしかして宿?変わった入り口広い板屋、宿泊施設かな?

 太郎様、情事姫が疲れたといってますよ、この屋でちょっと休みませんか?

往く人   

 一遍さん一行は踊念仏を行い、またその時に紫雲がたなびき、花びらが降ったりして、だんだん人々を熱狂に巻き込んでいきます。
 そのような宗教的な熱狂の中から、進んで「往生」する者が現れました。極楽をこいねがうあまり自ら進んで往生する(つまり早い話が自殺ですな)というものです。
 この年、伊豆の三島では一行の中より7~8人が一度に往生をとげたとあります。今だと完全にカルト教団の烙印を捺されそうですね。一遍さん自身、この往生を急ぐ行為に対し、肯定も、勧めもしていませんが、人々の中にそれを「よくやった、りっぱだ」という空気がありました。

 人々は往生することを決して命を粗末にする自殺などとは考えなかったのです。このように念仏を信じ立派に往生した人は、人々から尊崇を受けました。

 次の図は一遍さんの影響を受けた「あじさか入道」という人が富士川に自ら入水して往生をとげたものです。

 往く人とは極楽へ往く人、往生をとげた人だったのです。
 実はこのように極楽をこい願うあまり往生(自殺)する作法はなんと、江戸時代まで残っていたのです(詳しくはここクリック)。 キリスト教では自殺は厳禁されていますが中世の我が国の宗教界ではこのような往生という自殺行為は許されていたのです。

生くる人  

 誤解しないように言っておきますが、往生は決して厭世的な自殺とは違います。中世の人は生きることに関してみんな必死です。厭世的な感傷から自殺などというのは現代人のものでしょう。
 どうしたら楽しく生きられるか、よりよく生きられるか、その一つの道が極楽へと再び生きかえる道だったのです。

 中世人と云えどもよほど熱狂的な人以外はみんな生を全うしております。上の図のあじさか入道のように入水して往生をとげる人もいましたが、生きて精いっぱい現世を楽しんだ人がほとんどでした。

 同じ水に浸かっていますが、こちらはザンブと水浴びし、泳いで楽しんでいる若い武士4人です。若々しい見事な肉体、生を楽しんでいるではありませんか。生きる喜びを感じる図とは思いませんか、

 次の図も見てください。おそらく社会の最下層の人々です。でもみんな必死に生きてます。
 私のよけいな説明はいらないでしょう。よくこの生きざまをご覧ください。

桜の季節がやってきた


 あと2週間もすればソメイヨシノは満開になるだろう。酒に酔い、浮かれ狂喜乱舞する者も出てくる。日本人はほんとに桜が好きだ。
 外国でも国民性である種類の花が好きという民族もあろうが、ある花を人生や死にざまに例えたりするようなことはまずない。いかに日本人が桜が好きかわかる。

 今日、助任川沿いに歩いていると、桜花の第一陣といってもよい「蜂須賀桜」が満開に近くなっていた。
 
 今年は人生最後の桜かもしれないから

 「みんなと一緒に花見をしたいなぁ」

2012年3月20日火曜日

切幡観音霊験記


今日は彼岸の中日さんなので家から7キロある切幡寺へ自転車で行ってまいりました。
ここには切幡観音様がお祀りされています。
この観音様には霊験譚があります。
ある娘が即身成仏し、千手観音になったという女人往生の話です。
動画にまとめました。いつものことながら稚拙なものですがご覧ください。

詳しい霊験譚についてはここクリック  

2012年3月19日月曜日

やまさん中世を歩く その21 藤沢の片瀬の浜で


 3月1日に鎌倉入りの途中北条時宗と出会い、鎌倉の制外の場所で念仏行を行ったが、もうその翌日には現在の藤沢市の片瀬の浜に一遍一行はいた。
 ここでしばらく滞在し、道場で念仏踊りなどやっている。この道場で3月の末に極めて不思議な、現代人には信じられない現象が初めて起こった。絵巻の原文でいうと

 『・・紫雲たちて花ふりはじめけり・・』

 皆さんどう思います?疑り深い私などは、一遍さんのそばにいる誰か、演出家が「スモーク」を焚いて、用意した花びらをこっそり高所から降らしたのだと思うのですが。
 あまりの不思議さに一般の人が一遍さんに聞くと一遍さんは

 「花のことは花に聞け、紫雲のことは紫雲に聞け、わいは知らん」

 といったそうですから、一遍さんのあずかり知らぬところで誰か特殊演出をしたのかもしれません。でも聖者のまわりにこんな役割を持つ人が集まるようだとちょっとどうかな?とおもいますが、ま、ここは、絵巻の言うように信じましょう。

 下は片瀬の浜の道場での踊念仏です。

 この高床の道場で念仏踊りに熱中しております。また見る人もその熱気にのまれているようです。琵琶法師までもがやってきています。
 柱にしがみついてるガキは、ステージに上がろうとしているのか、それとも近くで見たいのか。今のロックコンサートにもこんなガキがいますね。

 この踊り狂う人、熱い吐息で見る人、そして、この場面に紫のスモークが流れ、ミラーボールの七色の小さな光の粒が花のように降ると、どんな印象を受けるでしょうか。
 私は

 「おお、これは中世のデスコじゃ、デスコじゃ」

 で、上の場面をパロディってみました。

  踊る人見る人ともにエクスタスィーになるような踊りってどんなんだったんでしょう。
  ロックコンサート会場か、はたまたデスコか、

 集団熱狂、踊りに酔いしれる人々、いくら中世とはいえ現代でいうカルト的な傾向を示していますが、実はもう一つカルト的な面がこの教団にはあるのです。とはいっても中世の宗教はどれでもそういう傾向は持っております。そのことでこの時代、この教団の良し悪しを言うつもりは毛頭ありませんのであらかじめお断りしておきます。次回はそのことについてちょっとお話ししましょう。

今日の午後

 温泉サイクリング

 某庁でさっさと用事をすませ午前中に家に帰ってきた。それにしても某庁はなんであんなに陰気で雰囲気が悪いのだろう。
 考えるに、まず、暗い。年が寄って目が薄くなっているのに、あの庁内の暗さはどうだ!廊下も暗いし、部屋も暗い。某庁が率先して省エネをやっているというが、官公庁でも国民市民に対しては、お客さまは神様です、で接しなければならない。来る客は年寄りも多いし、目の薄いものもいる。

 「もっと明るくせい!廊下の隅などはお化けが出るほどくらいではないか。」

 いっそ、一階をテナントとして貸出、パチンコ屋を入れるとよい。パチンコ屋はいつも煌々として明るいから一石三鳥くらいのメリットがある。

 それと一部の職員だが、尊大すぎる。別に本人が自覚して尊大ぶっているわけではないだろうが、パワハラと一緒で、まわりがそう思えばそうなのだ。いやしくも公僕であるのだから、国民市民に対し、そのように受け取らせるだけでもいけない。
 こういう人は吉本興業に研修に行って、ド突き漫才の殴られ役とか、ボケ役を一年間みっちりやると性根が治るかもしれない。

 昼からは我が家から北、5キロ、阿讃山脈のふもとにある御所の郷温泉まで今日はサイクリングを兼ねて入浴に行く。

 中央橋を渡る。向こうが土成町。

 途中、菜の花が満開だった。向こうの山の鞍部の下あたりが温泉だ。

 45分で着いたぞ。

 
 今日の新聞から気になる言葉 
 風呂からあがって久しぶりに休憩室で新聞を読む。
 気になる言葉が二つあった。

 『雪洞』、『毒蜘蛛』

 まずは「雪洞」、事故の記事にこの言葉が登場した。

 雪洞が崩れて3人重傷とある。

 さて、みなさん、この「雪洞」は2つの意味があることはご承知でしょうか。私はこのニュースの見出しをざっと見た時、このようなことを一瞬イメージしました。

 提灯屋さんの倉庫に棚積みされた「雪洞」(ぼんぼり・かざり提灯)を積めた箱が荷崩れか何かして、人を押しつぶした・・・・・

 と、しかしよく読むと「雪洞」はぼんぼりの意味ではなく、せつどう(ゆきのほこら)と読む方の意味だったのです。つまり雪のほこらが崩れて事故ったのでした。

 冷静に考えると同じ文字ではあっても後の方とわかりますが、『雪洞』という字を見ると真っ先にあの美しいひな人形かざりの雪洞をイメージしてしまいました。
 同文字で多義語の場合、自分に一番強く残っているイメージが何よりも先行するのだなあ。と思った次第です。
 多くのぼんぼりに押しつぶされて呻く人など日本開闢以来、まず一人もいまい、と苦笑するのでした。

 次は『毒蜘蛛』です。まずはこの写真をご覧ください。

 ちょっとわかりにくいですが、これは恒星(太陽)の仲間の「二重連星」です。つまり太陽系の中心の太陽が2つある恒星系なのです。我らの太陽系は中心の太陽は一つですが、銀河系宇宙の中で二重連星はめずらしくなく、むしろ一般的なものだそうです。

 しかし見るとちょっと変ですよね。左上の太陽は青白く、小さい、下の方はデカくオレンジ色をしてます。
 科学ニュースによると、上は中性子星で、なんとパートナーの方のでかい太陽を吸収し、消滅させているのだそうです。やがて大きな太陽は吸収されこの小さい中性子星一つになるそうです。

 さて問題はこのネーミングです。
 「毒蜘蛛中性子星」。
 この小さい中性子星は相手を消滅させる星である。また毒蜘蛛は仲間を捕食してやはり消滅させてしまうところから、同じ性質だということで「毒蜘蛛・・・」と呼ぶようになったと説明がある。
 まあ、普通の読者なら

 「あ、そう」

 だが、この説明では中途半端である。なんでわざわざ毒蜘蛛と名づけるのか?
 実は仲間を捕食する、などというまだるっこい説明じゃあ毒蜘蛛何とか・・というイメージが湧かない。もっと踏み込んで説明してほしかった。

 「なにを?」

 新聞には同情します。もっと踏み込んだ説明などしようものなら、「ピンクヘルメット」の女権団体のおばさまから糾弾されるかもしれないからです。

 日本在来の毒を持っている蜘蛛「女郎蜘蛛」、大阪で繁殖中の毒蜘蛛「セアカゴケグモ」いずれも毒蜘蛛は面白い性質を持っています。それは

 「交尾し終わった相手のオスをメスがムシャムシャと食べてしまうこと。」

 つまり『毒蜘蛛』という言葉のイメージには、パートナーである「夫」を食い殺す「妻」という意味が色濃くついているのです。このセアカゴケグモのゴケ(後家)という言葉にも、結婚して契ったら夫は食べられ即、後家さん(未亡人)という意味なのです。

 だから、仲良く並んでいる二重連星の一方の夫を食い殺す妻という意味で「毒蜘蛛中性子星」なのです。
 そこまで説明せねば、この毒蜘蛛の意味は正確にはなりませんが、先ほども言ったように
 「キィ~~~~、女性を偏見で見てるわ~~」と言われますから、最近は毒蜘蛛といっても、
 「仲間をね、食べちゃうんですよ」
 の説明で終わりである。

 「語」というものには多様なそして大きなイメージがついている。それを狭くするようなことはしてほしくない。