2012年3月26日月曜日

やまさん中世を歩く 最終回 すべては南無阿弥陀仏に


 我が町の南の山のふもとに廃寺がある。廃寺であるから今は何もない。行ってみると田圃だった農地のようになっている。
 この農地が以前から寺跡とわかっていたわけではない。昭和29年(1954年)に耕作中に瓦や礎石が見つかったとある。
 そして言い伝え、あるいは古文書から、大昔にこの辺りにあった「河辺寺」ではないかと推定されるようになった。
 創建はかなり古いと思われる。サイトで調べた発掘調査資料を少し見てみよう。

 ここクリック

 寺の名は「河辺寺」、こうべと読んでいる。時代様式の瓦の出土から創建は奈良時代と説明されている。

 下は私が撮った写真である。礎石が一定間隔を持って長方形状に並んでいる。
  
  この廃寺に私が注目したのは一遍聖絵を読んだからであった。原文で読みにくいがちょっと見ていただこう。

 正応2年、この年は一遍さんの亡くなる年でもあるが、この年、讃岐(香川県)より「阿波にうつり給」、とある。右の白い線を引いてあるのがそれである。阿波に入ったが、その阿波で地名が出てくる、そこにとどまったのであるが、その地名が左の白い線、「大鳥の里河邊(辺)」といふ・・ この地名今のどこだろう?

 岩波文庫「一遍聖絵」の校注者、大橋俊雄(クリック)氏によれば、大鳥の里河辺は徳島県麻植郡鴨島町敷地字宮北、に比定されている。

 ここは我が地元である。正応2年(1289年)、一遍さんがなくなる2か月前にこの地に来て滞在しているのある。もちろん念仏行、教化であろう。
 しかし、この地にたどり着くのは一遍さんにとってかなりきついものだったに違いない。病気が進み、死期の近いのを悟った一遍さんは、幾ばくならずして自分は尽き果てるであろうと、周りに漏らす。
 この川辺寺についた6月1日は病悩し、寝食も普通でなかったという。
 それでも念仏行、教化は行われた。

 今の河辺廃寺跡の遠景、農地、小高い丘、道路が盛り土されコンクリートで堰あげされたようになっている。往時の寺を偲ぶよすがとてない。

 これでは妄想のしようもないので、まず道路、鉄塔、電信柱、電線、近代的な構造物は消し去ると・・・・
 
 おお、いい具合になってきた。そして、寺、踊念仏の一団、お堂などを入れると・・・・・・
 「中世河辺寺」の出来上がり。

 この後、ここを出発した一遍さんに残された日々は多くなかった。淡路を経て、兵庫にたどり着きそこで亡くなる。8月23日、我が町川辺寺で6月初めにいた時から数えて3ヵ月にも満たなかった。
 兵庫の観音堂での一遍臨終の様子
 
 一遍さんは常々言っていた、わが教えは我、一代限り、書いたものは破棄せよと。

 すべてが南無阿弥陀仏に収斂し、その他のものは一切、虚仮であるとの、お教えであろうか

一代の聖教みな尽きて南無阿弥陀仏になりはてぬ

 まことに潔い、信じること一筋の聖さまでございました。

 今回を持ちまして一遍様とともに歩んだ「やまさん中世を歩く」も終わらせていただきます。

2 件のコメント:

Unknown さんのコメント...

「一遍聖絵」こんな古い文献が残っているんですか、この文献のお蔭で、一遍さんが阿波に来られたことが解ったんですね、すごいな~。

徳島新聞web二よりますと、
「正応二(しょうおうに)(一二八九)年(ねん)讃岐善通寺(さぬきぜんつうじ)から阿波(あわ)へ来(き)てしばらくおられたが、病(やまい)にかかって淡路(あわじ)へ移(うつ)られ、ほこでのうなった。
 「一遍上人絵伝」第十一巻、阿波(あわ)の二(に)ノ宮(みや)(大麻比古神社(おおあさひこじんじゃ)だろう)へおまいりしている図(ず)がある。」
と、ありました。神山町に二ノ宮という私が生まれた場所があるのですが、違うのかな~。

そんなことより、一遍さんの功績は全国を遊行して貴賤を問わず広く念仏を勧め、民衆の布教に努めたことだと思います。
 私も、ここらで心機一転して、全国行脚に出かけようかとちらっと考えました。念仏は「名巫亜美堕撫尽」でいきます。読み方は同じですが、こちらの字のほうが現代的でかっこいい様に思いました。

長らくの連載ありがとうございました。
ついに一遍上人の御意志を継いだ人を育てましたね。いつになるかわかりませんが小さな種が仕込まれたのは確かですね。その前に、やまさんがするかもしれないですが、この時代ですから、お互いちょっと方法論を変えて挑みたいですね。(^.^)

yamasan さんのコメント...

しんさま、あんまり歴史は好きじゃなかったのに私に付き合う形で申し訳ないですが、いろんなことをよく調べてますね。

 私はご存じのように資料に基づく「事実」と「妄想」がごちゃまぜになってわかけ分からなくなっています。しんさまのほうが実証的態度、冷静に物事を見る構えが出来てます。私よりずっと歴史を勉強する能力があると思います。

 ただこの11巻の史料の二宮は、たぶん徳新のwebが間違っていると思うのですがこの「二宮」は残念ながら淡路の(当時は一国、一宮もあった)「二宮」です。原文によればそうなっています。

 しんさま、現実に生きるのは私にとって厳しいです。数年前に親もなくなり、60を過ぎて、砂漠のようなざらざらした荒涼たる現実にポツンと一人立っているような世界に入った気がします。
 そんな中にあってこの一遍さんとたどる中世の旅は、なにかほんとに生きて旅しているようなウキウキ感をほんのちょっぴりですけど味あわせてくれました。

 ブログは終わりましたが、なにかやりきれない嫌なときこの「一遍上人絵伝」をまた広げて妄想の旅をしたいと思います。

 長々と付き合っていただいてありがとうございました。