昼過ぎても曇り空のままだったが夕方から快晴になり、斜めに射す赤っぽい西日が気温の上昇とこのところの雨で生き生きした木々の緑をハッとするほど美しく輝かせる。
「夕方暗くなり、弱った西日が射すとき、なんでこんなに緑が美しくなるんだろう。」
秋の夕日も黄や赤に色づいた葉をより一層鮮やかに染め美しい。しかし、これは夕日も赤っぽいため同系統に変化した紅葉をより際立たせるためだと推測がつく。
ところが今は初夏、鮮やかな緑である。それなのに夕方美しく輝くのはなぜだろう。
「夕日の赤と緑が補色関係にあるからだろうか。新緑の中の赤いツツジが目立つのと同じかしら」
「それともプルキニェ現象だろうか」
※プルキニェ現象 色は網膜の視細胞で感知しているが、明るい場所では赤が鮮やかに遠くまで見え、青は黒ずんで見える。一方、暗い場所では青が鮮やかに遠くまで見えるのに対して、赤は黒ずんで見える。これは、桿体と呼ばれる視細胞の働きによるもので、人の目は暗くなるほど青い色に敏感になる。
「これは暗くなってくると青色系統の色がより引き立つ現象である。そのためこの系統である緑、特に深緑などがめだってくることである。」
ここまで考えて、いかにも私は詩人になれんなあ。と思う。美しさを生のまま感動とともに受け取れない自分に気づく。
「なんで、美を素直に感じないで、すぐ理屈づけるのだろう。それも陳腐な理屈ばかり」
生まれたばかりの赤ちゃんのように純粋で素直に、感動を受け取りたい。赤ちゃんは言葉を知らないから、外界を手垢のついた使い古しの「言葉」でごちゃごちゃ嘘っぽく表現することもなく、ホントに自分の美の表象を持てるに違いない。
「言葉」にした段階でもはやその「言葉」の一般概念にすでに囚われてしまっているのではなかろうか。
詩人はそんなこと百も承知だろう。だから「言葉」に自分なりの意味を新しく付与し、常に斬新な言葉を紡いでいくのだ。
詩人は既成の言葉に戦いを挑み、血を流しながら、自分の言葉を生み出しているのだ。たとえ同じ「さくら」と云ったって、詩人のそれは我々と違う言葉かもしれない。
美しい言葉を見目良く並べる「詩人もどき」はたくさんいる。それなりにうまい詩を書くだろうが、はたして既成の言葉や理屈にとらわれず超越した詩の言葉で書かれているのだろうか。
あああ、私が詩人であったなら、この夕景の美しい緑を皆さんにお届けできるのだが・・・・・・・。
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