徳島線と高徳線の合流する高架下に小さな寺がある。寺のすぐそばは、広くなった川、岸、雑草の生い茂った土手、遊歩の小道、がある。高架が上を通っているため昼でも暗い感じがする場所であり、人もほとんどいない。寺の敷地は広くないのだが、墓地があり、それがかなり大きな面積をしめている。
寂寥を感じさせる、人少ない場所だが、私はこういう場所は大好きなので、よくこの辺を歩く。ちょっと行ったところに東屋もあり、腰掛けて本を読んだりもしている。
遊歩道が車道に入って終わるところに墓地の入り口がある。入り口付近は真新しい、立派な御影石の大きな墓が多い。
今日は少し墓地の中に入った。中の方には苔むした小さな墓がある。御影石のような立派な石ではなく、砂岩とか、普通の山の中の岩の露頭から切り出したような石である。
小さな舟形をした墓は正面に「南無・・・・・」の名号が彫られている。
江戸時代の墓だ。
墓を見学したり、散策する人は私以外あまりいないだろう。何か宗教的な意図をもっているわけではない。そして明治以降の墓には全然興味がない。
ふるい墓の横に掘られている年号を確かめるためだ。確かめてどうするわけでもないが、歴史好きの私にとって、江戸時代、数十もあるたくさんの元号を確かめ、西暦に頭の中で直し、
「あ、この年は、富士の噴火があった。」
「おお、この年は永代橋が崩落してたくさんの水死人がでた年じゃ」
など歴史上の事件なども思い浮かべるのが古い墓石散策の楽しみである。
江戸時代はだいたい150年前に終わった。慶応の年号で4年が最後である。
石でつくられた墓は何千年でもなくならない。永続させるため石でつくる。子子孫孫祭られることを願っているのだろう。
ところがたかだか150年前におわった江戸時代であるが、江戸時代の年号のある墓には無縁墓(だれも祭ってくれない墓)が多い。
一つ例をあげよう、今日見た無縁墓の一つに「弘化元年」というのがあった。西暦1844年である。今から167年前であるが、もう祭る人はいない。この墓で供養される人の子孫は今もいるかもしれないが、墓の祭祀をする子孫は絶えたのだろう。
無縁墓になればたとえその敷地が畳半畳ほどであっても、『土一升、金一升』の現代で、そのままには置いてはくれない。
「墓地整理」で縁故人を探し、一応、手続きに則って「公告」し、無縁墓だから誰も現れなかったら、そのまま取りのけられ、捨てられる、と管理者(寺など)はしたいだろうが、遺骨もあることなので、
「そりゃあ、あんまりだわ!」
というので、一か所にあつめられ、形ばかりの供養塔を建てられることが多い。
そして、更地にしてまた新家の墓が建てられる。現世のことだから、これで誰か銭儲けができるのかもしらん。
この墓地でも江戸期の墓石が多く積み重なった無縁の墓石が供養塔のまわりにある。
仏教では悠久と思われてる「宇宙」でさえ、数十億か数百億年か知らないが(未来仏である弥勒菩薩が56億7千万年後に衆生救済に現れるというから、それ以上だろう)、「劫」が尽きて「消滅」する。
まして人の作った墓など世々を経れば、拝む人も絶え、さらに進めば、苔むし、石でさえ風化は免れえない。それがカタチある世の「法」である。
以前、TVコマーシャルの墓の宣伝に
「墓を作りましょう、墓のない人生は、まさに、はかない(墓無い) 」
などというふざけたのがあったが、墓でも人の肉体と一緒でなくなるものである。早いか遅いかの違いでしかない。
「墓でさえ、はかない!」
ふと、一遍上人の次の言葉が思い浮かんできた。
「一代の聖教(しょうぎょう)みな尽きて、南無阿弥陀仏になりはてぬ」
一つの無縁墓石が目に入った。瘡のように表面を苔が覆っているが、墓石の正面に彫られた文字は読み取れる。そこには、「・・・なりはてぬ。」と一遍上人が言ったように「南無阿弥陀仏」と名号があった。
急に空が暗くなってきた。と、大ガラスが供養塔のてっぺんにとまり、ギャアギャア騒ぎだした。カラスの子育ての時期で、縄張りに私が入ってきたので威嚇しているのだろうか、カラスにせかされるようその場を離れた。
1 件のコメント:
カラスを見るといつも感じる事は、人間の馬鹿さ加減をあざ笑っているように思えるのですが、今回の映像からも感じした。人類が作り上げたバビロニアの宝くじ文明を足蹴にするかのごとく、てっぺんで嘲笑いし飛び去っていく。私たちが大切にしているものって、ナンセンスなものが多々あるんですよね。お墓がそうだとはいいませんが・・・・。
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