「第二章、シーン1、テイク1・・・・・」
と、映画監督が使う「カチンコ」をカチッと鳴らすと
生前の女優の、今日の葬儀に流すであろうことを意識したテープが流れだした。
ちょっと意外であったが、みんなは聞きながら涙した。私も、苦しい息の下、彼女の遺言ともいえるこのテープを聞いて目が潤んできた。
わたしは、悲しさ以上になんともいえない感動をおぼえました。
「立派な女優人生であったんだな!」
女優を演じきった、と過去形でなく、死後も女優を演じ続けるという、進行形、未来形で語られる凄さを感じます。
演出と露骨に言ってしまえば失礼ですが、カチッと音をさせ「カチンコ」で始まった最後のテープは、女優の旦那も「第二幕」と言ったように、死後のこの女優の演技の始まりの合図でした。
人は「演技」というものを虚・嘘と考え、それが舞台やスクリーン、TV画面から離れて実生活でなされることに価値を置きません。胡散臭い、だますものと思っています。
「くさい芝居は止めやぁ~」
言われかねません。
この人々の涙を誘ったテープも、演出、最期の演技と言われては、何か薄っぺらで嘘っぽくなってしまいます。
しかし、本当に「芸」を持った「大女優」ならばたとえ、「一世一代の最後の演技」と言われても、この薄っぺらで嘘っぽい、というのは当たっていないと思うのです。
そして、昨日の葬儀のこのテープは、それなのです。
私は近松門左衛門が言ったとされる「虚実皮膜論」を思い浮かべました。
「芸というものは実と虚との間が皮膜のように薄いものであり、虚にして虚にあらず実にして実にあらず、であるということを意味しています。」
そしてこういうことも言っています。
「虚(うそ)にして虚にあらず、実にして実にあらず、この間に慰(なぐさみ)が有るもの也」
虚(演技)と実(現実)は非常に薄い膜の表と裏のように分離できぬほど密接に存在するものであるということでしょうか。
私はそれ以上に、虚と実、裏と表、は実はどちらがどちらかと言い切れぬものがあると思うのです。
俳優や演技とおよそ関係のない実直な実生活が「下手な人生の芝居」であるかもしれず、「芸」と言われるものをもって演じたものが「見事な人生の芝居」かもしれません。
ともかくこの人、もう大女優の名を冠してもいいと思いますが、死後にまで残る演技、そして見事な人生を演じたといえます。
このように奥さんは葬儀を通して大女優を演じましたが、旦那もなかなかの
「役者やのぉ~」
です。ただし、奥さんとは方向性が違うみたいで、ゴシップネタの演技をしようとしています。
今日発売の女性週刊誌の広告です。
なになに
夫の裏切り、ハワイ旅行
パパと呼ぶ女児と美人女性・・・
もう一つの顔が・・・
ふむふむなるほど
こりゃあ、旦那の第二幕も面白そう。
あることないことこれだからゴシップ週刊誌はやめれんわ~
これも虚実皮膜(きょじつひにく)論じゃ。
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