2011年12月19日月曜日
年の暮れニュース雑感
地デジを受信しなくなってテレビのニュースを見ることが少なくなってきた。最近は主にパソコンでネットのニュースを見ている。
少し古くなったがニュース項目に「今年の漢字」というのがあって見ていた。今年の特徴を漢字一字で表すものだ。投票の多さで選ばれるそうで、今年選ばれた漢字は「絆」(きずな)だそうだ。
東日本大震災での経験から、助け合い、心のふれあい、お互いのいたわり、の大切さを思い人と人を結びつける「絆」が選ばれたのであろう。
人が「絆を大切に」という場合は、肉親愛、友情、隣人愛、助け合い、思いやり、などの意味でつかわれる。
この意味で今年の大災害を経験した人々を慮ってこの文字を選んだのは納得できることである。
ただし、「絆」には別の読み方、意味もあることをお忘れなく、と、天邪鬼でねじけたやまさんは思う。
この「絆」の今年の文字の発表は清水寺で行われたみたいで、ネットの動画ニュースを見ると清水寺の徳の高そうなお坊さんが大きな紙に大きな筆で書いていた。この仏教のお坊さんなどは「絆」の別の意味もよく知っているだろうなぁ。と思いながら見ていた。
「絆」は(ほだし)とも読む。本来の意味は馬の足をつなぎとめる縄。手かせ足かせ、の意味がある。転じて、人間が生きる上で出来た様々な目にみえぬ、行動ばかりか心の自由もつなぐ鎖、という意味になった。
よくいわれる「悪縁」、「しがらみ」、というのもそうだろう。切ろうとしても切れない縁、結びつきである。
「絆」(ほだし)は決して厭うべきばかりのものではない。それは(ほだし)は、上記の良い意味の「絆」に変わりうるからである。愛すべき人、愛しい我が子、これも人をつなぐ(ほだし)ともなるのである。このような絆(ほだし)は自由を束縛する目に見えぬ鎖かもしれないがそれを厭う人はあまりいないだろう。
多くの人はその(ほだし)の為につなぎとめられ、また、自由に羽ばたきたくてもできない。しかしまた多くの人はそれで満足している。人の人生はそのような(ほだし)がありその中で精いっぱい生きていくのである。
生きる上で人は誰でも(ほだし)を持っている。どこにも結わえられてない全く自由で空中に浮遊するような人はいまい。
「絆」のもう半分の意味に思いをはせていると・・・・・・
正午前、ネットニュースの速報が・・・・・・・・・
北朝鮮の金正日総書記死去
の第一報が流れた。分刻みで流れるニュースにしばらく釘づけになる。「なんで?なんで?なんで?」・・・
つづく速報はよほどあわてていたのだろうか、文字変換の間違いが
「2日前、列車内で急逝心筋梗塞で亡くなる」
おいおい、急逝、でなく急性だろうが!
ともかくこれは大ニュースである。年の暮れになって大きなニュースが出てきた。これからいったいどうなるのだろう。
普通の国ではない。核弾頭を持っていて日本の諸都市が射程に入るミサイルを持っている。おそらく照準も日本の都市に合わせているだろう。
「核を持ったまま国が崩壊する可能性がある。その混乱でどうなるのだろう。」
首領の死去がどんな影響をもたらすか、私ごときが予測することはできないが、核ミサイルがこちらを向いたままというのは確かである。
「どさくさで飛んできたらどうなるのか?」
恐ろしいことである。考えたくないが、もし大阪上空500mで炸裂したらどうなるか?いま北朝鮮が持っている核は「プルトニューム型」で威力は長崎原爆と同程度、TNT換算で2万トン余、と仮定すると。
大阪中心部は爆風熱線で壊滅、瞬時に死亡は数万人、最終的死亡者は数十万人、その十倍ほどの被害者、さらに無数の放射能被害者。
恐ろしいことである。
これは日本にとって考えうる最悪の事態である。
まあ私などは、「我々はそんなことにはなるまい」と楽観して安心したいが、少なくとも危機管理の専門家は最悪の事態を想定して対処してほしいと思う。
「史上3発目の核も日本で使われました!」がニュースにならないように祈る。
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2 件のコメント:
そうですね、「絆」という言葉は聞こえはいいですが、最悪の事態も含んでいますね。これとよく似た格言で、最近気に入ったクリシュナムルティーの言葉を思い出しましたので紹介してみます。
「もしも自分自身の生き方を観察するなら、あなたは人に従う以外の何もしていないことがわかるでしょう。この従属システムが、私たちが「生きること」と呼んでいるものです。人生は今、何の意味も持たないのです。意味はあなたがこうした権威をすべて脇にどけてしまう時にのみやってきます。」
あまりにも図星ですが、ショックングで感慨深く、そのあと落ち込んでしまいました。(^o^)/
核ミサイルの日本への照準は、北朝鮮のみならず中国、アメリカ、ロシア、等から有り余る数が充てられていると思いますので、事故も含めて発射される確率はかなり高くなっていると思います。もっと緊張を持って生きろという神の戒めか、御加護でしょうかね?(-_-) !(^^)!
いつもコメントありがとうございます。
このクリシュナムルティー先生の言葉はよくわかるというかわかっているだけにぐさりと胸に突き刺さる辛辣な言葉ですね。
「世間」というものに流され、酔生夢死の人生を終える。それではいけないとわかっているんですが・・・・
「真に生きる」とはどういうことか?多くの偉人も悩み、考えたと思います。そしてある人は世俗をたち、隠遁者、仙人として、また「禅」や瞑想に、また放浪。巡礼に求めた人もいます。
しかし世間のしがらみを断ち、恩愛の絆を切るのは並大抵でなく、また、先生の言うように従属しない心の自由もそれはデカルトの懐疑論ですべてをはぎ取って最後に残るのはなんなのか?
いろいろ考えると混乱してわかりません。そりゃそうですよね。
「真に生きるとは?」
なんて永遠の哲学のテーマではありませんか!
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