2011年12月2日金曜日
クリスマス企画 その1 最後の言葉
初めに断わっておきますが私はキリスト教徒ではありません。そのため「聖書」に対し宗教的な思い入れはありません。
聖書をあまり知らない人でもクリスマスは聖書に書かれたキリスト降誕日に基づくものであることは誰も知っているでしょう。信者なら教祖の降誕祭を盛大に祝うというのはわかりますが、ことクリスマスに関しては信者以外の人も世界的に行事として受け入れているようです。
今月はどこもかしこもクリスマス一色です。そんなにキリスト教徒がいるわけはないが、宗教色を抜いた行事として我々日本人は楽しんでいます。
そのクリスマス月間、信者でない私が一つの「読み物」として聖書を読み、感想をつづろうと思い立ちました。この聖書というのは私のブログでは「新約聖書」に限定しておきます。
読むのなら「原典」でといいたいところですが、これは私には歯が立ちません。ところで聖書の原典っていったい何語かわかりますか?
旧約聖書の言葉のヘブライ語か当時のパレスチナで話されていた口語のアラム語のどちらかと思われるでしょうが違います。原典はギリシャ語なんです。
当然、古典ギリシャ語なんてちんぷんかんぷん。しかし、少しでも原典に近い言葉と思い、同じ印欧語の英語で1611年に書かれたジェームズ国王欽定訳「聖書」を読むことにしました。1611年ですから英語の語彙、文法は学校で習った近代英語と変わりません。むしろシンプルな語で、現代語のように語彙数も多くありませんので現代の時事英文より読みやすいかもしれません。
さて、今日とりあげるのは、十字架刑に処せられたキリストの今わの際の言葉です。
十字架刑による処刑というと日本の時代劇に出てくる「磔」(はりつけ)のイメージがありますが、死に至らしめる方法が全然違います。
磔は十字架にかけられますが、二本の槍それぞれで左右の脇腹から肩にかけて貫き通して死に至らしめます。かなりむごいですが絶命までの時間は短いです。
ところがキリストが処せられた十字架刑は手足を十字架に釘付けにし、自分の体重をその釘付けの手で支えるもので非常に苦しみます。そのまま死ぬまで待つのですから絶命までに時間がかかります。
最後はおそらく極限の苦しみの末、呼吸困難か心臓まひで死にます。なかなか死なない時は足の骨を打ち砕きます。すると全体重が手肩にかかり、呼吸困難をもたらし死が早まります。
日本の磔と比べても苦しみは長く続く残虐な刑なのです。(映画「パッション」より)
キリストの最期の詳細については事実上、聖書しか頼るものはありません。教祖の最期を記した経典ですから、客観的に見て真実かどうか、疑問がつきますが、ほかに文献資料がない以上、これを手掛かりに考えざるを得ないでしょう。
幸いなことにキリストの言葉・事績を書きとめた福音書というのが4つありますから比較検討ができます。
その4つある福音書の2つは十字架上のキリストの最期の言葉が同じです。次のような言葉です。
Jesus cried out with a loud voice ,saying "Eli, Eli,lama sabachthani?" that is,"My God ,My God,why have You forsaken Me?"
この My God ,My God,why have You forsaken Me? が問題となります。かんたんな英文で他に訳しようもない言葉です。
「我が神、我が神、なぜ私をお見捨てになったのですか?」
聖書を読んで初めてこの言葉を知ったときは正直、驚きました。キリストは全人類の罪を一身に負って十字架に上がったと聞いていましたから、気高く、父なる神を信じ、昇天したと思っていました。それがこのような弱音とも思える言葉を残していたとは意外でした。
おそらくキリスト教徒もこの言葉の解釈には迷ったと思います。信者でもない私のような考えがもっとも率直であると思うのですが、信者はそのような「弱音」とも見えるようには解釈しなかったのではないでしょうか?
キリストが今わの際に吐いた弱音と認めれば、神に対する懐疑が芽生えかねません。多分そうならないような複雑な解釈がなされているのでしょう。
しかし、私のようにこの言葉を弱音と見る人は日本人には結構いるみたいです。三島由紀夫はこのキリストの最期の言葉をモチーフに短編小説を書いています。
ほとんどキリスト教に帰依する寸前だった元武士の妻が外人の神父からこの最後の言葉を聞いて猛然と決意を翻す場面があります。
「今わの際にそんな卑怯未練な弱音を吐く教祖など武士の妻として受け入れられませぬ!」
卑怯未練なかどうかはおくとして、いくら生涯にわたって決意の人であったにしても断末魔の苦しみの中、そのような言葉が出てくるのは人間としては自然な気がします。
でもキリストは神の子で人間じゃないんですね。そうなれば自然率直にはこの最後の言葉は受け入れられず、神の子としてふさわしい解釈をしなければならないんでしょうね。
私なんかは人間の弱さを持ったキリストの方が魅力的だと思いますが、どうでしょう。
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4 件のコメント:
キリスト、神様、仏様 よく最近 母親にそんなこと言うと罰が当たるよと注意されますが、この世に神様、仏様ているんでしょうか?仕事が見つからず、つい人のせいにしてしまいがちですが、こういう状況を招いたのは、自分自身が悪いからと思います。
辛抱、我慢、協調性、チャレンジ精神が足りないからと思います。
まあいると信じる人にはいるだろうし、いないと思う人にはいないものでしょう。
宗教に救いを求めて安楽になればいいけど、私の場合はまだ信心にも救いを求めることにも踏みきれません。
てるさんの言うように何事も自分の「業」によって状況を招くというのはかなり納得できます。でもこれも仏教的な考えですね。
キリスト教はあまり勉強していないので、ほとんどわかりませんが、私の中ではミステリーのままで進展がないです。
「キリストは全人類の罪を一身に負って十字架に上がった」とよく言いますが、そんなことを何でしたのだろうかと不思議でなりません。その時にチャラになっても、愚かな人類はその後もどんどん罪を犯していくでしょうし、そもそもなんでキリストさんがそんなことする必要があるのでしょうか?そんなことせんでええという神からの戒めのような気もします。結局その後人類は、神の名のもとに争いと殺戮を繰り返し今日に至っていますよね。神さまもいい迷惑だと思います。(*_*)(^_^.)
宗教を信じるのに一向に向上しないのは、まったくおっしゃる通りです。
宗教的な視点で聖書を読むのではなく文学読み物として読もうと思っております。ダビンチコードという本にはキリストはマグダラのマリアと結婚していたとありますが、それを匂わせるような記述がないか探して見ようかと・・・
信者でないから客観的に見れるかもしれません。
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