『科学の常識が非常識となる。』あるいは逆に『科学の非常識が常識となる。』こんな革命的な大転換はそう何度も起こるものではない。もし起これば、1世紀に一度あるかないかの科学上の大事件となる。
と、ここでちょっと話を逸脱させていただきますが、皆さん、数学はお好きでしたか?
「そういうおまえは?」
で、私のことを話しますと「好きでした。」しかし、数学的な理解は極めて遅く、学校での数学の成績は非常に悪いものでした。好きであることと、それが身について自在に扱えることとは違うんですね。
ご存じのとおり科学や経済理論なんかは高等数学が扱えなければ、文字を知らずに文学をやるようなもので、お手上げ状態になります。
専門的にやりたくても数学が出来ねば、科学の専門のまさにその門へ入ることもできません。
それでも科学や経済が好きというものはどうすればいいのでしょう。教養としてやる分にはさして難しい数学はいらないでしょうが、専門分野となればそうもいきますまい。
「まあ、科学を専門にやることなど、ぼく、
せんもん、といって諦めるこっちゃな。」
でも科学分野はいろいろあります。数学の苦手な人むきの専門分野だって探せばあります。
たとえば「科学史」。え、それって歴史学だから人文系じゃないのと言われそうですが、一応これも科学の広い分野の一つです。
経済にも言えます。経済理論の高等数学が苦手な場合、経済史の専門分野だと何とかなります。
そういうわけで数学が苦手だけど何とか科学の専門の門を叩きたいと思っていた私は、「科学史」をやりたいと思ったのです。
勧める人もいて11年ほど前、「徳島科学史研究会」(ずいぶんマイナーな会だけどあったんですよ)に入りました。恥ずかしい話だけど会費が2年目から納められなくなり1年でやめましたが。
まあやめずにそこでコツコツ勉強と研究を続けていれば、今まで10年あったから、もしかすると小さな研究発表も一つぐらいはできたかもしれませんね。
考えれば中学の時読んだジュニア向けに書かれた「相対性理論」の話があまりにも面白く、このような教養普及本をその後も読み漁りました。そのため数学に裏打ちされていない科学のまあいわば「雑学」のような半端な知識は自分でも驚くほど増えていきました。
だからある意味、数学のあまりいらない幅広い科学的事件、その関連性を扱う「科学史」は向いていたのかもしれませんね。ただ、何事にもコツコツやるのが嫌いな私は1年でやめ、全くものになりませんでした。
閑話休題(それはさておき)
その科学史では最初にいった「常識と非常識」の逆転するような革命的な変革をコペルニクス的転回とよんだりしました。天動説から地動説へだから確かにそうですね。
科学史ではこれに匹敵するような衝撃的な科学常識の変革が20世紀初頭に起こります。アインシュタインの「一般・特殊相対性理論」です。
そしてそのアインシュタインのとなえた説が時間をかけてようやく常識になりました。ところがちょうど100年たってこの常識が破られるかもしれない衝撃的な実験結果が先日出てきました。
『素粒子ニュートリノが光より速い』
これについては実験の精度が問題視されてますが、かなり綿密な検証もされているみたいで、反論もしっかりしなければいけません。
いまのところ「?」のついたままです。
しかし、もし、光より速いとなると、今までの科学常識を壊す科学史上の大変革になることは間違いありません。
下は今日のニュースよりとった図です。
どうなることか目が離せません。
コスモスに思う
自転車で秋の野道を散策しながらとりとめもないことを考えた。
『素粒子の世界とは人間の意識構造である』という言葉、そして
『マクロコスモス(物質世界)とミクロコスモス(意識世界)はリンクしており共鳴・投影しているということみたいです。』
という言葉は何故か強く魅かれる。難しくて理解の埒外のようであるが、なんだかわかりそうな気がする。
ちょっと意味は違うかもしれないが「曼荼羅宇宙」をわかるというか実体感するのは理屈やそれにもとずく理解ではあるまいと思う。
「悟り」なんかは決して理屈の上での理解ではあるまい。それと同じようなものではないだろうか。
最近はあまり流行らないが、左脳の理解、右脳の理解というのがあるが、理屈によらない悟りなんかは、この右脳の理解に近いのではないだろうか。
「わかりそうな気がする。」と思うのは、誰しも「仏性」、大胆に言い換えるならば「悟性」をもっているからだろうか。
実はミクロの中に広大無辺なマクロの世界があるという、「入れ子構造」はもっとも魅力的な考えだ。
まったく脈絡もなくあれこれ考えが湧いてくる。
ふと見ると畑が鮮やかにピンクに輝いている。
一面のコスモス畑だ。
ここにもCosmos(秩序ある宇宙・コスモス花)がある。
写真に撮る。