2011年10月21日金曜日

最期の様態(ざま)

 リビアの独裁者が追い詰められてとうとう殺された。新政府としては旧悪・罪を白日の下に明かすため、生け捕り、裁判を望んでいたようであるが、多くの国民にかなり憎悪されていたようで、それはできなかったそうである。

 穴倉に潜んでいたのを引きずり出され、怪我を負いながらも、命乞いをしたという報道も一部なされている。
 でも、まあ、これは、新しい権力を持った者が流したかもしれぬ報道でわからない。新しい為政者としては旧悪の独裁者はできるだけ卑怯に惨めに死んでくれた方が何かと都合がよいからである。

 「穴倉に潜み引きずり出され・・・」というと、日本では平安時代末の平治の乱で権力を握った信西入道と、穴倉ではないが炭小屋に潜み引きずり出された忠臣蔵の吉良上野介を思い出す。
 どちらも生きて助かりたいという行動である。
 しかし、日本では武士道の死生観によれば
 「卑怯未練な最後のザマ」
 として見られることが多い。

 吉良上野介の最期についてはいくつもの異説が存在する。本当はどうかはわからない。ただこの爺さんかなり憎まれていた(歌舞伎、講談などほとんど作り話のせいで)ので、一番卑怯未練な死にザマに仕立て上げられたのではないかと、私は推測している。ちょっと気の毒である。

 リビアの独裁者の殺害についてはその後の報道を見ていると、遺体を辱めたり、引きずり回したりしているようである。最期はなぶり殺しに近いものだったのではないだろうか。

 国民性の違いか、広く普及した仏教の影響か、日本においては、極悪と憎まれた人、反逆者、戦い敗れた者、であってもなぶり殺しや遺体の辱めは行われない。
 遺体に面と向かって、さらに損傷をくわえることはもちろん

 「ざまあ、見さらせ!」

 などとののしることもない。

 しかし、ここ20年間に起こった各国の独裁者の最期を見ると、日本のような国は特殊ではないかという気がしてくる。

 悪人であったにもかかわらず死者に対する礼節。そして最後の悪あがきを卑怯未練と見る日本人の心情。世界ではマイナーなのである。

 私としては、前者の「悪人であったにもかかわらず死者に対する礼節。」これは大切であり持ち続けて欲しいと思うが、後者の「悪あがきを卑怯未練と見る日本人の心情。」には納得できないものがある。
 生きたいとあらゆる手段を講ずるのは自然である。それがどんなにブザマであっても。それが嫌な人は自裁というか自決すればいいのであって、人のことをとやかく言うべきではない。

 というのも、私の最期もそう遠くない未来にあるが、とてもでないが潔い最期は迎えられないと思うからである。かなりブザマになるのはミエミエである。
 

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