まずこの鳥居は次のような願いが込められている。
海上の安全祈願である
そしてこの寄進の時代は
天保2年(西暦1831年)である。
そして私が注目したのはその下の願主のお国と町の名である。ちょっと読みにくいかもしれないが
奥州・松前とある。
厳密にいうと松前は蝦夷地であり、奥州ではない。日本の旧国名(60余ある)の埒外である。しかし、松前には徳川幕藩体制にしっかり組み込まれた「松前藩」があった。このような寄進では、旧国名が名乗れないことを嫌って、陸奥国の最奥ということで「奥州(陸奥)」と名乗ったのであろう。
なぜ、西国の阿波の鳴門にこのような日本の北方蝦夷地の商人の寄進があるのか?
蝦夷松前までははるか遠く、行ったり来たりは大変不便であったろうに・・と思うのはあくまで陸路の話であり、船の航路だと事情は違ってくる。
江戸初期のころから、上方(主に大坂)から船で瀬戸内海を西進し、下関から日本海に入り、対馬海流に沿って日本海岸を北上し蝦夷まで行くルートは開発されていた。
そのルートによって上方の商品、蝦夷地の産物は活発に交易されていたのである。(もちろん最終地の取引ばかりでなく、途中の北陸、出羽との取引も盛んであった。
そのルートの交易船が「北前船」(弁財船)であった。
この鳴門の地からは、特産の藍、塩、藁製品などが積み込まれ、また北方や蝦夷地からは、塩鮭、昆布、ニシンの絞めカス(藍等の肥料になる)が運ばれてきた。遠隔地交易だけに儲けも大きかったに違いない。
この松前の藤屋喜兵衛という人も交易で儲けた商人であり、その財力の証がこの石の大鳥居の寄進であった。
北前船は単なる運送業者ではない。自分の才覚で荷を選び、買って積み込み、寄港地で売るのである。船の上に蔵を浮かべて移動しながら商う商人である。
その北前船の商人の才覚、進取の気性、パイオニア精神は以前から注目していたが、この寄進鳥居を見て
北前船の航路を追う旅に出発した。
今回はその旅の副産物である温泉の紹介であるから、北前船の話は別の機会に譲るが、行ったルートをあげておきます。
上記の地図の深浦の近くで入った温泉がその名も
「不老不死温泉」
海岸の磯を利用して露天を掘ってある。お湯につかっていると打ち寄せる波のしぶきがかかる。
ここは日本海に向かって西向きの海岸であるため、沈む夕日が見られる。ちょうど入ったのは夕方、日も沈んでいたが、まだ西の空は夕日の茜色の残照が残っていた。
下は不老不死温泉のホームページです
2 件のコメント:
鳥居から「不老不死温泉」ですか、不老不死にはなりたくないですが、この温泉は入ってみたくなりました。鉄分が多いみたいですね。東北温泉めぐりの際には必ず入れておきます。(^_^;)
東北は温泉の宝庫です。いつか行ってください。
この後も「湯けむり旅情」で東北の温泉をあと一つ紹介しますので、よかったら今後の参考にしてください。
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