前に寓意画風の下手くそ漫画イラストで六道輪廻図の「天道」「修羅道」「地獄道」をとりあげたのを思い出しました。
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今日は絵巻物「餓鬼草子」を読みましたので六道輪廻の「餓鬼道」に関する話になると思います。
ところで今日の最新のリビアからの動画ニュース、見ましたか?
カダフィ大佐と思われる血まみれの老人を大勢が取り囲み、小突き回し、引きずるように歩かされています。この後、リンチで処刑されるのでしょう。今のところ処刑の映像は入っていませんが。
この動画に私は永遠に闘争に駆り立てられる「修羅道」の世界と、決して満たされることのない無限の欲望を持ち苦しむ「餓鬼道」の世界を見ました。
この映像は命のやり取りであるためどぎついものですが、命のやり取りというような極端なものではなく、金、資産、名誉、愛情で考えれば、このような闘争、癒されることのない欲望は、日常我々のまわりにあふれています。
そこかしこに小さな「修羅道世界」「餓鬼道世界」が展開しています。生きている限り逃れられぬ「業」なのでしょうか。
さてそれでは餓鬼草子を開いてみます。
まず、餓鬼とはこのようなものです。
ザンバラの髪、ぎょろついた異様な光をたたえた目、永遠の苦痛、苦悩にゆがみ、しかし、狙うものを見た時のほくそえみを見せる顔。異様に膨れた腹。
餓鬼は癒されることのない無限の食欲を持っています。宿命として人は絶対食べないものを食べることを運命づけられています。
下は胎児の便、お産の胞衣を食べる餓鬼。
次は糞便を食べる餓鬼。
ようも、ようも、こんな気色の悪いのばかり食べるもんじゃ、と思うが、餓鬼の喉をよ~っく見て欲しい。いずれの餓鬼ものどは針のように細い、いくら食べたくてものどを通らないのである。ただし、ウンコだけは食べれたってか!ああ~!因果は廻る小車の・・・輪廻の轟音がきこえるわ~
下の二枚は続き。
上図の糞べらに魅せられて、いったいどないして使うねん(おそらく肛門のまわりに付いたウンコをヘラでこそげ落とすんでしょうなぁ)、と研究したい気もしますが、それはまたの機会にということで次に行きます。
下はもっと気色の悪い餓鬼。好んで墓場をうろつき、屍体がだあ~い好き、という奴。で、究極の食通、カニバリズム(屍体人肉嗜食)かというと、そうでもなく、単にうろつき、屍体をもてあそぶだけの変わったやつである。二枚続き絵。
平安末の葬法がよくわかる。銭のない者は遺棄に近い風葬。鳥葬、あるいは犬葬?箱に納められているのはまだよいほうか?
石の五輪の塔、卒塔婆の墓は貴族か金持ちであろう。
次の図は人の輪廻転生の恐ろしさ、業の深さを思いやらずにはいられない餓鬼の図です。
右は徳の高い僧侶、左の女の餓鬼は
「なんと!この僧侶の母なのです。」
子の僧侶によって後世を弔われ、その法力によって蓮の䑓・うてなに転生(天道に)してもよさそうだと思うのだが、実際は生前の「業」に引かれ「餓鬼道」に落ちてしまった。
修業を積んだ僧のためこの母の餓鬼が見えるのである。対坐していったいどうしようというのか?
いくら死んで餓鬼道に落ちたとはいえ、母を思う子の心情を思うとこのままではやりきれない、悲しすぎる!
そこでこの絵巻は、次のような展開を見せる。
子の僧侶は仏にすがり、言うままに供養したところ、食物を与えても火にならず、母は存分に食べられた、食べられたことは食べられたのだが・・・・・・・・・・・・・・・・・・
私はこの結末の絵を見た時、かなりの衝撃を受けました。
人の「業」のあまりの深さに。
芥川龍之介の「蜘蛛の糸」という短編小説をご存知でしょうか。その最後で主人公カンダタは極楽へ上がれたかもしれぬ唯一の糸を自らの行為によって断ち切ってしまいました。
まさにそれと同じ行為をこの母の餓鬼はしたのです。「餓鬼道」から上へ上がれたチャンスは潰えてしまいました。この次の世も餓鬼道以下となるでしょう。それを知っている子の僧侶の悲しそうな顔が印象的です。
この絵巻はそのような説明はありませんが、この母の餓鬼図は見るものにそのことを暗示させます。
「業」は自分の力ではどうにもできぬところがあると聞きます。「わかっちゃいるけどやめられない」というものでしょうか。
われら凡夫は業から逃れられぬものなのでしょうか。しかし、そうだと、悲しすぎます。永遠に六道を輪廻せざるを得ないのでしょうか。
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