午前11時過ぎ御座船川の岸辺にある訓練所を我が愛用自転車キーコキーコ号に乗って吉野川市に向かって出発した。距離はおよそ27キロ。もう廃棄にしてもよいようなおんぼろ自転車でペダルを踏むたびにキーコキーコと哀れげな音をたてる。
でもね、自分の肉体もちゅうぶる(中古)になってくると同病相哀れむのかどうか三か月、駅から訓練所まで運んでくれたこいつに愛着を感じるようになった。とても見捨てるわけにはいかない。我が家まで乗って帰ることに決めていた。
風もなく気温も低めで長距離サイクリングにはいいかもしれないと出発したが、ぼろ自転車であるうえ変速が壊れていて固定してあるためかペダルがいつも重い。西大工町から南の山際の脇道に入ったあたりで増々ペダルは重く感じるようになった。そのうち足がだるいような脱力感を感じるようになり、しばらく山の斜面にある神社の石段で休んだ。
佐古をゆっくりすすみ蔵本に入ったあたりでペダルを踏むのが苦痛になり、押して歩き出した。信号が変わりつつある交差点を押しながら足を速めたとき、足に激痛が。筋肉が妙な方向に浪打、けいれんを起こしたのである。引きずるように渡り、止まってふくらはぎを触るとけいれんしている。「うーん」と唸るほど痛かった。靴を脱ぎ足の指を上方に弓なりに手で引っ張り上げたら激痛はおさまったが、後、筋肉痛が残る。
もう限界、なんとか蔵本駅の駐輪場に自転車を止め、列車で帰ることにした。近くのお世話になった先生の所へ寄る予定もあったので自転車ではなく徒歩で訪問する。
時とともに体力は着実に落ちている。8月末、今とは逆に家から自転車で徳島まで来たときはこんなことはなかった。
鮎喰の川越えることができない。自転車は後日、またここから乗って帰ることにする。
そういえば若い時二元論について考えたな、と思い出す。
まだ少し足の筋肉痛がある状態で駅で列車を待つ間、うんと若い時、精神と肉体の二元論について考えたことを思い出した。
高校時代、もっとも魅力を感じた思想家はデカルトであった。数学的な明晰さの思考方法は演繹法。懐疑から究極導かれるのは「自己」そして自由な精神世界。一点の曇りのない彼の思想に心酔した。
とはいえせいぜい田舎の高校の書庫にある青少年向けの思想入門書を読んでの理解だから、浅薄なものですよ。
肉体や物質から全くはなれ、次元の違う「精神世界」が存在することを教えられ、確信したのはこの時でした。まあ、いまから考えると若い人が罹るはしかのようなもんですかね。肉体や物質的なものを軽蔑し、高尚な精神世界に遊ぶことを夢見たんですわ。二元的対立と考えたため独立した精神世界が眼前にあると思ったのです。デカルトいうところの「広がりも、重さもない」世界。
肉体から離れた世界って「精神世界」なんていってたけど、今から考えるとそれって「天国」のようなもんですね。ただデカルトはさすが数学者だけあって、推論を駆使し納得できる考え方で精神世界を説明したため、宗教の匂いはまったくなかった。
精神世界の魅力に惑わされました。その当時はね。
いまどうか?待合から列車に乗っても考えている。さっきは足の痙攣で一時だが激痛、年老いて体はあちこちが痛む。暮らしの窮屈さが肉体を苦しめる。二元論の一つの元である精神世界は今も厳然として私の中にあるのであろうか?ブルンブルンと首を振る。
私の内部?糞尿がたまり、60年にわたる体の肉は少しずつ腐臭を放ちだしている。精神世界がもっともありそうな場所である頭も長年にわたる澱、滓がたまりふつふつとメタンが発生している。このどぶのような部分に精神世界はあるのか?今はとても信じられない。
もし精神世界に自由に飛翔できたと思える人がいるなら、それは若い人や病気や肉の苦痛、生活苦から自由な人ではないのか。
結局、私にとって精神世界は二元的なものではなく、あるとしてもそれは肉体という牢獄に閉じ込められ、常に肉体の存在する世間から拷問をうけ悲鳴を上げ、気絶する弱いものである。
それは最近、とみに小さくなり、末期を示している。やがては完全に消滅するのだろう。
列車の中では考えることが多い。それでは、老いつつある今、考えてこなかった「宗教世界」あるいは「神の世界」はどうなんだろう?
とこれまでは考えられない。下車駅について客がおりはじめたわ。降りにゃ。
デカルトさん |
6 件のコメント:
3ヶ月お疲れ様でした。
yamasanの毎朝作ってくださったコーヒーは非常においしかったです。
また、喫茶店復活するようでしたら、飲みに行きますんでご報告をお願いします♪
あと、体をいたわって下さい。
子供も機会があったら会ってやってください。
自転車の移動お疲れ様です。
足はどうですか?
寒いので筋肉が強張りやすいですので
くれぐれもお気を付けてくださいね。
やまさんデカルト読んでたんですか、すごいな。私は学術的な本はほとんど読んでいませんのでよくわかりませんが、精神世界は瞑想をして、自分の意識で実体験するほうが早くてよくわかると思います。純粋意識(想念の源)を体験すれば自分が無拘束で無限の存在であると実感できます。理論は体験がないと意味がないとまでは言いませんが、TM瞑想を29年間やっている私から言わせていただけば片手落ちといったところでしょうか。また肉体の死は、人が服を着替えるみたいなものだと思っています。なんてね。
足は、どうですか?お大事に。今日、9時30分に鴨島に筆記と、面接に行きます。場所がわからないので、早めに家を出ます。
27キロの距離を自転車で…O_O;
す、すげぇ!!
お体は大丈夫ですか?
無理をなさらず、ゆっくり休養をとってくださいね^^
3ヶ月間、お疲れ様でした♪
そして、お世話になりました!とっても楽しい時間が過ごせました^^
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