政治や事件など生々しい話題はブログでは取り上げまいと思っていましたが、どうしても書きたくなったので一般的な話として聞き捨ててください。
法と正義の対立についての話です。
今日、国家機密漏えい罪である人が取り調べられています。顛末はまだわかりません。これが法と正義の二項対立の図式になるやらどうやらもわかりません。でもこのことに触発されて私が考えていることはありますので、この事件とはなれてみなさんも考えていただければと思います。
法と正義の対立はありうることです。でもその対立の図式がはっきりするためには法治が行われていることが大前提です。法が存在しそれに基づく統治です。古今東西、法により統治され秩序が保たれたといわれたりしますが、「法治」ということの意味での法でない場合が多いです。
一番簡単にみわける方法は、為政者によって、その法が自分の都合の良いように勝手に変え、あるいは解釈されうるか、ということです。「法」が為政者自身も縛り、恣意的に変更がされ得ないのであれば、「法」が行われているということができるでしょう。
現代国家は法治が原則でありますが、現代でも某超大国は「法治」の法が行われているとはとてもいえない状態であることはご存じのとおりです。
その前提があって正義との対立が存在しえます。
法は強制力をもち、罰則も伴います。万人が守らなければならないものです。人はそれぞれ信念を持っていますが、たいていは信念が法の前に折れる。しかし、ある人が正義の信念を持ち、多くの人がそれを正義として認めた場合。ある人がその正義の信念のためあえて法を犯せば、そこではじめて「法と正義」の対立となるのです。
ただ、二項対立といっても「法」は定義がしっかりしていてあいまいさはみじんもないように書かれています。それに比べ「正義」は人々の価値観に基づくためあいまいさをどうしても伴いますが、人々に共有される正義はあります。
正義のため法を犯した場合。たいていは正義の主張は為政者に無視され、法を犯したことで罰せられます。対立の痕跡もかき消されます。
法と正義の対立が大きな話題となること自体、かなり成熟した民主主義社会です。
ましてや、為政者が犯した人を正義と認めつつ、法治の原則から、やむを得ず罰を加える。など背反するようなことのできる為政者を持った国は世界史上まれです。ソクラテス、プラトンのいた古代民主政体のギリシャか、近代以降のフランス、イギリス、アメリカくらいなものでしょう。(英米仏は直後に特赦をあたえ罰則を停止するでしょうが)
このなかでギリシャは燦然と光輝を放っています。「法と正義」の対立のばあい必ず取りあげられるほどです。
ソクラテスの信念はゆるぎないものでしたが、合議制の裁判から死刑の判決を受けたとき「悪法も法なり」といって従容として受け入れました。弟子プラトンは、なぜソクラテスは死ななければならなかったのか、と深く考え、法と正義について哲学的な著述をしました。
このようなまれなこと、実は300年前我が日本にもあったといえば驚かれるでしょうか。
為政者は、五代将軍徳川綱吉。法を犯したものは、赤穂浪人、いわゆる四十七士。義のためにあえて幕法を犯した彼らを綱吉は内心助けるつもりだったといわれています。
そして綱吉は荻生徂徠に諮問します。徂徠は「義のよってなしたことはわたくしごとである。法を犯したことはおおやけごと、おおやけによって幕法で裁かれなければならない。」と答えます。
綱吉は、義であることを認めつつ法を厳格に適用します。為政者であっても情によって法は曲げないという、「法治」につながる信念が貫かれています。
われわれはこのようなみごとな芸当といってもいいような法と正義をあつかえる先人をもった国です。
はたしてこのような対立が起こったとき、正義と認めつつ、法は厳格に適応するということが今の政府にできるでしょうか。
輿論におもねり正義と認め罪を消す。や、正義と認めず法のみ厳格に適応する。には私は反対です。
みなさんの意見はどうですか。
2 件のコメント:
やはり、義です!
義は、正しい行いを守ることであり、人間の欲望を追求する「利」と対立する概念として考えられた(義利の辨)
が、大切だと思います。
本来、宇宙に絶対的な善悪などなく全てが中立です。あえて言えば、善とか悪とか思っている人がいるだけです。by バシャール.
人間が作った法律に大したものはありません。宇宙を統治しているのは自然法です。by マハリシ.
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