日本の水車 |
中世ドイツの歌詞 |
若い時より今のほうが歌詞の意味がしみじみ理解出来る。全体をいろどっているのは、無常感と抗しがたい定めへの嘆き、あすはしかとはわからぬ身のせつなさ。である。しかし、それゆえに今を生きるよろこび、特に色恋のよろこびを歌い上げている。刹那の人生だからこそおおいに楽しもうという讃歌に、わたしには聞こえる。
運命に流され漂う中世人は、この世を、浮いた世(浮き流される世)と憂き世をかけて「浮世」と表現している。
浮世であるから運命を水のながれのようにとらえた中世人は、人生を「うたかた」(水の泡)ともとらえた。
この中世末期、宇治、淀にはかなり有名な水車がありました。人の世を水の流れととらえる中世人はこのくるくるまわる水車にも変転し転生する人の運命を重ねた。
「ただ何事もかごとも、夢幻や水の泡、」
「思い廻せば小車の、わずかなりける浮世かな」
「宇治の川瀬の水車、何と浮世を廻るらう」
「閑吟集」から
何週間か前、中世ドイツの歌の歌詞を見ていて、(もちろん日本語訳ですよ) おなじ中世人の心情の共通性を感じました。要約すると
「全てのものは運命に支配されるもので、運命の女神の持つ車輪の前にはすべて服従しなければならない。」
抗いがたい運命、そして運命をまわす車輪。閑吟集の歌詞の心情に似てはいませんか。
このドイツの中世歌謡、ラテン語で書かれています。ヨーロッパの古典語ですね。その古い歌詞に1936年、オルフが曲をつけました。
閑吟集の小歌は歌として聴かれませんが、ドイツの中世歌謡はそういうわけで聴けます。曲を入れておきますので、運命の車輪の廻る音をお聴きください。
1 件のコメント:
運命ってあります?
実はどうなのか模索中です。
良い時は無いように思いますし、悪い時はあるように思います。
まだ、人間が出来てないからですかね?
何かは、あるような気がします。
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