2011年11月22日火曜日

歩きながら考えたこと


 夜のウォーキングに行って先ほど帰ってきた。ウォーキングにはこれからの季節はよい。少し寒いくらいのほうが汗は書かないし、歩くうちにあったまってくるから寒い時期が最適である。ただし風があるといけない。強い北風は勘弁してほしい。

 夜のとばりが心を内向きにして考えさせるのか、きゅっと引き締まるような今夜の寒さが脳の働きを活発にするのか、はたまた歩いての運動が脳の血の巡りをよくするのか、考えながらあるいた。

 「俺はマニュアル的な仕事は全くできない。農作業なども無理。放浪癖があり、定住が嫌い。財産など作ろうと思ったことがない。蓄えもないし、する気もない。」

 今日のブログで弥生と縄文を対比させて少し書いたが、こんな自分を振り返ると

 「俺って、典型的な縄文人じゃ」

 ご存知のように縄文人は狩猟採集の民族、小規模は別として、弥生人のように大規模な水田、畑作仕事で糧を得るのとは真逆の自然任せの放浪生活である。
 このような生活をしていれば弥生人のように土地を囲い込み「私有地」としたり、自分が生きるに必要以上の蓄えをしたりはしないだろう。

 「そう考えると、今の社会のように、土地私有制があり、持てる人には天文学的な数量の金、動産を所有することができるという制度は、弥生時代生まれた社会制度と同じ流れである。」

 「いま弥生の流れをくむ人々は、不動産、金、動産を所有する人々であるとするなら、それがない人は縄文の流れをくむ人々か?」

 「さらにくわえて、定住する家もなし、放浪する人は、ほぼ縄文人の直系か?」

 そう言い切れば歴史の美しい叙事詩的な話になろうが、縄文の精神がそのまま今に残って流れているとはちょっと言い難い。

 弥生のエスタブリッシュの根本原理は現代まで通して流れており、金持ち、上層の人々に共通するものである。ゆえにそれらの人々は弥生の流れをくむとある意味言えるだろう。

 しかし、縄文人はもっとモノに対し純粋であったはずだ。今の持たざる人、定住できない人、放浪する人は縄文人のようにモノに執着せず、純粋といえるか?乏しさ、不自由に痛めつけられているため、よけいにモノに貪欲になっているのではないだろうか。

 もしそれらの人々が縄文人の血をひくものとするなら、そうなったのは、歴史をさかのぼれば、弥生人が土地を開拓し、縄文人の生活圏を奪い、敗残弱小民族として、追い詰め、みじめな被差別者として扱ったからではないのだろうか。

 確かな根拠はないが、歴史上現れる、山岳民族(サンカ)、放浪を主とした遊芸人、農業に従事しない被差別民、などは圧伏された縄文人の末裔かもしれない。

 よく日本人はまじめでコツコツ働くというが、この美徳も弥生人のものであろう。縄文人はどうだったのだろう?
 2000年以上圧伏された縄文の血は

 「今、俺の中に流れているのかもしれない。」

 などと妄想に近いことを考えていると、

 「ほれ!もう一周して家に着いた。風呂入って寝ます。」

4 件のコメント:

Unknown さんのコメント...

やまさん公営住宅に住んで家を処分したら、しばらくは優雅な生活ができるし、縄文人にもう一息のところまでに行けると思いますすが、大きなお世話でしょうか?(((^_^;)

てるゆき さんのコメント...

自由人すばらしいですね。いろんな所にいきたいですね。是非連れてってください。

yamasan さんのコメント...

>>しんさま

 いよいよ終わりが近づいたら縄文人らしく巡礼の旅に出て行路病死人で旅に死すのもいいなと思い、ジョージ君に云ったら

 「末期、その体力がないかもしれんよ」

 といわれ、そうだなあとおもいました。気力体力のあるうちに終焉を迎えるにはギリシャのエピクロス派のような最後がいいかもと思いますね。

yamasan さんのコメント...

なかなか自由人になんてなれないですよ。たいていは悪あがきに終わるもの、でも生きてるうちは悪あがきでもしなければ!

 久しぶりに一年前作ったホムペを見ました。言ってることは一年前と変わらない、進歩がないなあと思います。
 こんな繰り言の繰り返しだとあと100年生きてもしょうがない。
 下がホムペです
http://music.geocities.jp/qqjkm776/