新車の自転車に乗ってさっそくサイクリングに行った。国府の史跡公園である。
この史跡は国府という場所に造られているため、歴史区分でいえば「古代」の史跡である。というのも国府はその地名からもわかるように古代(奈良時代以前)に阿波国府がおかれたところである。
間の悪いことに週一回の休館日にあたっていて「埋蔵物展示館」はみられなかった。しかし、おもに古代の住居跡が公開展示されている「史跡公園」のほうは見学できた。
まず、古代住居跡の全景から。
「竪穴住居」、考えれば変なネーミングである。竪穴というから、初めて聞いたときは何か縦に深く掘られた井戸のような土中に暮らしているのかと思ったがそうではなく、土地を数十センチ掘り下げその上にほとんど屋根だけをのせる形にしたものである。
上図を見ると床が地面より低くなっており、確かに少しだけ地面を井戸のように掘りこんだ形になるから竪穴と名付けたのも納得できる。
ただ、どうでしょうか?みなさん!こんな床だと湿気が多く、薄暗く、快適であるような気がしないでしょう?
しかし、湿度や採光に問題はありますが、古代の住居はほとんど夜寝るためのもの、雨でも降らぬ限り大半は野外での活動なのです。そのため、住居は主に夜の寒さを防ぐことが大切でした。この点このような半地下式の住居は暖かかったのです。
また、真夏でも床が大地の中にありますから結構涼かったと思います。
一番の大敵は雨水でした。掘り下げ床のため水が浸入しては大変です。そのため住居は丘などのような微高地に建てられました。また、家の周りも下の図のように工夫していました。
では家の内部に入ってみましょう。
中央部の床に炉があります。寒い冬でもここで火を焚けば暖かく快適に就寝できました。
ただ薪を燃すため煙が出ますね。
煙りだしのため先ほどの三角の開口部は
上図で見てもわかりますが屋根はかなり構造的にもしっかりしており、立派な草ぶき屋根と申せましょう。葺くのは大変でした。村の人総出で屋根は作られたと思います。
材料は「葭」(よし)、萱(かや)などでした。
屋根だけ見ると竪穴住居とはいえこの間まで日本で一般的に見られた伝統的な農家の家とよく似ていました。ただ壁がなく屋根が直接地面に接しているのが違うところです。
時代が進むにつれて壁が立ち上がりのびていったのではないでしょうかこのように。
そうすれば50年前まで残っていた日本の民家とそう変わりませんね。
この竪穴住居は縄文時代、1万年前以上から奈良時代まで日本の庶民住居でありました。奈良時代の万葉集に山上憶良の「貧窮問答歌」がありますが、そこで詠われていた
「伏せ庵(いお)の、曲げ庵の・・」
というのはまさにこの竪穴住居なのです。
現代人の我々が想像しているほどこの住居は不便でも不快でもありません。当時のもっとも合理的な住居のような気がします。
一週間、縄文様式の生活をした家族がいましたが、居住環境も含め病み付きになるといってましたっけ。
よく、隠遁者の生活をすることを
「山に入って庵を結び・・・」
などといいますが、自然の材料を手に入れ、自然のまま暮らすとすれば、このような住居になるんでしょうね。
「やまさんも、ここ史跡公園の竪穴に住みつこうかな」
次回は古代の貯蔵庫、蔵となります。
4 件のコメント:
あったかそうなお風呂いいですね。僕は、今は午前中にジムのお風呂に入っています。ジムに行かない日は風呂は我慢しています。
フランス人でしたっけ?
入浴は体によくないといってましたよ。
垢を落とすと病気の抵抗力がなくなるんだって。
産湯以降風呂に入ったことない民族もいるそうです。
世界は風呂嫌いがごまんといます。
風呂に入らなくても死にません。わたしも寒いからはいるんで、ぬくい方法があれば毎夜入りません。
まるで、ピラミッドみたいです。(((^^;)
だとするとピラミッドパワーをもらえるかもしれませんね。
家を手作りって、建築基準法など七面倒なことがあって無理なのかなあ。この時代はみんな男は自分で建てたみたいですね。
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