2011年11月28日月曜日

神頼み


 「神」とは何ぞや?なんどと哲学的なことを考えるつもりも、また私にはその能力もありはしない。まあ、普段思っていることをとりとめもなく書き散らします。敬虔な人からは

 「この罰当たりの、ウンコ垂れめ!」

 とお叱りをうけるかもしれませんがお許しください。

 「神」ってまずいつから存在するんだろ?どこの民族でも人の存在以前ということでは共通してるが、宇宙より前か?となると日本神話などでは神の出現と宇宙の創生が同時であるようだ。
 旧約聖書では神は宇宙以前に存在してて『光あれ!』と命じて宇宙ができたみたいだ。

 どちらにしろ神が人間を作ったんだからそれ以前のことはあまり気にしなくていい。

 なぜか人は「神は善意に人や世界を作った。」と固く信じている。悪がきが粘土で作ったでくの坊の人型を気まぐれでグシャっと潰すような作られ方はしていないと端(はな)から思っている。
 そうであるから人は神を頼りにする。病気、貧困、そのほか諸々の不幸も頼られる。最大の不可避の苦しみである「死」も頼ろうとする。

 さて「神」と書いてきたが(英語なら単数、複数がわかるが)それが唯一つなのか、大勢いらっしゃるのかがここでちょっと問題になる。

 ただ一人の神ならば、
 「なぜ全知全能である神なのに人に不幸をもたらすのか?」
 「なぜ困ったときに助けに来てくれないのか?」
 と人々は疑問を持つ。
 さらには
 「悪いことをしたのに平穏に幸福に天寿を全うする人がいる一方、落ち度もないのに不幸になったり死んでいかねばならぬ人がいるのは不条理じゃないのか?」 
 と思う。

 この点一神教の経典はさすが大勢の神を蹴倒して最後に生き残っただけあって非常にうまい説明がされている。
 「神は試練をお与えになっていらっしゃるのだ。」
 「この世では悪の報いは来なくても最後の審判の日に裁かれ罪の公平は保たれるのだ。」

 何もわざわざ試練を与えるため「この世」を作り、苦しめなくてもよさそうなものと思うが、試練なく平坦に天国に招き入れたんじゃあ、「この世」も「人の誕生」もなく初めっから永遠に「天国」で飼い殺しもつまらない。

 「水戸黄門」のドラマで悪人バラをさんざんっぱらし放題にさせて、最後に「印籠」を出すから面白いのであって、最初っから「印籠」をだして解決じゃ面白くない。それと一緒かもしれない。

 また悪を逃れ笑う人、やられっぱなしの不幸な人には
 「神は見ていらっしゃる、最後の審判にすべては公平になる」

 なるほど。かなり納得できる説明ではありませんか。
 一神教は唯一神であるため、説明・説得にほころびを見せてはいけません。どのような突込みにもちゃんと納得できる言葉があります。
 さすがうまいなあ~と思う言葉は次のような言葉です。
 悪魔が
 「空腹なものが食べれるように神ならばこの石をパンに変えてみたらどうだ?」
 というと
 「人はパンのみにて生きるに非ず。」

 更に悪魔が
 「ここから飛び降りて見ろ、神が助けてくれて無事なはずだぞ!」
 というと
 「神を試してはならない」

 ああいえばこういう話はごまんと用意されていて、悪魔も無神論者も言い負かされてしまいます。

 なんか唯一神の方が神頼みのし甲斐がありそうですが、唯一神との一対一の契約ですから、破ったり逆らったりすると、逃れる道はありません。
 とはいえ弱い存在の人間ということは神もご存知ですから、「悔い改め」も用意されています。
 「悔い改めよ、さらば救われん!」
 しかし、なんか常に原罪をしょってびくびくしてるようで、私などは耐えられそうにありません。

 その点多神教は威力のある神もいれば、宇宙の創生だの、あの世の管理などには全く無関係な威力のない神まで大勢います。
 年寄っておしっこを漏らさぬよう頼める神だとか、ボケ封じの神だとか、もっぱら現世利益ですが職掌が細分化されているから、頼む方もそれに応じてたくさんの神を信心します。

 「あの病院、あのくすりは効かないから今日はこっちにしよう。」

 とかいって病院、薬のはしごをするように気軽に信心を乗り換えることもできます。

 多神教世界の中にあってあれこれたくさんの神頼みをしてるうちにポックリ逝くほうが私には向いてるような気がします。

2 件のコメント:

Unknown さんのコメント...

私はよく考えると、神様にお願いしたことは一度もないです。たぶん、存在しないと思っているからだと思います。大いなる意識みたいなものはあると思いますが、ただそれだけです。何をせえとも、してほしいとも思いませんです。神さまにいろいろお頼みする人の気がしれないです。こういう人って珍しいのかな、そんなことないですよね?(?_?)

yamasan さんのコメント...

まあ多神教世界にあっては占いを信じるようなもの、占いなど信じない人もたくさんいますから、しんさまのような人は珍しくありませんよ。
 中世一神教世界であればしんさまは無神論、私は邪教、異端でしんさまと一緒に火あぶりの棒が2本立つことでしょう。

 でも幅広く考えればしんさまの考えも多神教かも、
ローマの万神殿(パンティオン)には多数の神と並んで
 「まだ発見されていない異教の神」
 などもいましたから、その伝でいけば
 「無神論者のための守り神」
 もいますよ。
 なにせ地中海多神教世界には盗人の神様もいるくらいですから
 そんなの糞くらえ!とののしれば、
 「神の冒涜者のための守り神」
 なんかがいてね。
 私が神官ならしんさまはりっぱな無神教徒、これもわが多神教の一つじゃといいます。