2011年1月6日木曜日

温泉小説そのⅡ

 ジュニア向けの恋愛小説というのはどのようなものであろうか、純愛を貫き、プラトニックなものに終始し、決して肉体関係までには至らない。いわゆる清い関係の男女を描くものがそうであろう。私はあまり読んだことはない。というか、ジュニア向けだからローティーンのそれも女生徒にファンが多いから、大人でこのような小説を読む人はいないだろう。
 よく知らないが、漫画にも純愛がテーマのものがあるようで、人気があり幅広い読者を獲得しているという。
 さて、以前ブログで取り上げた「伊豆の踊子」である。これもジュニア向けに推奨される作品である。小説の方は読みやすくはあるが、そう単純な純愛ものではない。しかし、旧制高校の学生である作者と踊子のそこはかとなき恋情、いや慕情かな、まてまて、好意と言っておこう、に焦点を当てると、純愛小説と読めないこともない。この「伊豆の踊子」は映画にもたびたび取り上げられていて、こちらの方は完全な純愛もの仕立てになっている。また、漫画にもなっており、小説でこの話を知る人よりも最近では、漫画本で読むひとが多いと聞く、これも純愛漫画になっているようである。
 しかし、最近本屋で立ち読みした文学解説本に刺激され少し違った視点で、何十年かぶりに読んでみた。
 著者自身が述べているようにこの小説は、事実を追って書かれている。大正7年(1918年)秋の伊豆の温泉場でであった旅芸人との出合い、同行の旅、下田での別れである。この時代温泉場から温泉場へと流す旅芸人はどのような職業だったのか、今となってはわからない。伊豆の踊子、の言葉から何か華やかな踊りのみをショーとするダンサーのようなイメージがある。しかし、この時代、旅芸人の踊子は踊り、歌ばかりか時としては春をひさぐ存在でもある。これは平安時代からの白拍子、傀儡、など遊芸人の時として遊女にもなった伝統をくむものである。
 小説の中で、峠の茶屋の婆さんが、著者の質問に答えてこう言っている。
 「あんなもの、どこで泊まるやら・・・・お客があり次第、どこでも泊まるんでございますよ・・・」
 著者も、婆さんの言葉に、はなはだしい軽蔑を含み、と書いているが、これがこの時代の人々の一般的な評価である。そしてこの泊まるという言葉の中に春を売る意味が込められているのは間違いない。それは著者自身が、その婆さんの言葉によって、踊子を私の部屋に泊まらせようと、煽り立てられたと率直に述べていることでもわかる。

 中学生の読者にはこのような解釈はちょっと無理かもしれないが、注意深い文学好きの高校生や軟派な高校生ぐらいになると、わかるはずである。
 私は、鈍感だったか、純な高校生だったのか、高校時代読んだときはこのような解釈はできなかった。
 
 この時の著者は旧制高校の2年、20歳である。森鴎外の「ヰタ・セクスアリス」などを読んでいればわかるが、この時代の20歳の青年、ましてや旧制高校の生徒であれば、ほとんどのものは性的な体験は済んでいるとみて間違いはないだろう。認可された場所における売春行為は昭和33年までは政府公認であり、違法でも、不道徳でもなかったのである。自由で仲間意識が強く、傍若無人な、いわゆるバンカラな気風を持つ旧制高校の学生が玄人の女性と遊んでいないはずがないのである。
 この時代の旅芸人の踊子のイメージ、そして旧制高校の学生の性的体験はこのようなものであったのである。

 このように踊子を自分の部屋に泊まらせたい衝動に駆られるが、最初は16歳(満年齢に読み替えて)ぐらいと思っていた踊子が、その行動がまだおぼこで幼いことを発見し、実は13歳であることを知り、その衝動の想いはなくなる。しかし深読みすれば、16歳であれば十分に性の対象として考えられたことを示唆している。
 まだ少女ともいえる13歳の踊子に対しても、声をかけられ出た宴席で求めに応じて性的なサービスをやり、汚されるのではないかと悩み、悶々としている。
 次の朝、朝湯に入っている踊子が、自分を見つけ、無邪気に真っ裸で飛出し嬉しそうに爪先立って両手を伸ばして叫んでいるのを見て、ようやく
 「ああ、子供なんだ。」
 と頭が拭われ澄んできたと書いている。

 これ以後の小説の記述にも踊子が性的サービスを行った、あるいは行い得るかについては書かれていない。しかし、この家族でやっている旅芸人の一団はそのようなサービスを行わないとも書いていない。この踊子は本当におぼこ娘なのか。小説の中では踊子の兄が
 「妹だけにはこんなことをさせたくないと思いつめていますが、そこにはまたいろんな事情がありましてね。」
 と言っている。こんなこと、という中には性的なサービスも含まれると見た方が当時の社会を考えたとき、自然である。今現在、処女であるかどうかは問題ではなく、やがて求めに応じてそのようなサービスも提供するであろう可能性が重要である。
 この小説が書かれて15年もたったころ東北地方で冷害が起こり農家は大打撃を受ける。その時、娘を遊郭へ出すことが広く行われていた。決して望ましい職業とは当時の人も思っていなかったであろうが、家計を助けるため、認められていた職業だったのである。現代の価値観から判断すべきものではない。
 踊子が旅芸人一座の華として、踊り以外に性的なサービスを行ったとしてもなんら不思議ではない。

 このように当時の旅芸人の中の踊子の実態を知った上で、この小説を鑑賞しても決してこの小説の価値を下げることにはならない。古来より、日本では遊女の中にすぐれて美しい芸や、聖なるもの清浄なるもの見てきた伝統がある。そのように考え読み直すとより深みのある味わいができると思うのであるが、どうだろう。
 

 

1 件のコメント:

yamasan さんのコメント...

 有名地の温泉は無理でも、うちの近くの冷泉にでも入って寛ぎたいんンですが、500円がもったいなくて、家の入浴剤入りの風呂に入ってます。
 別府あたりへいきたいなあ。