2012年5月3日木曜日

ほのかに夢に見えたまふ


 今も昔も霊感を感じる人はいるようである。いるようである。といったのは、私はそのような類の体験をしたことがないのでどんな「感じ」かわからない。

 私はそれは体質的なものがあるんじゃないかな、と思っている。前に『脳と悟り』についての記事を読んだが、体が浮揚したような感じ、や天地が光で満たされる、あるいは至上の幸福感、また目にみえないものを強く知覚すること、に容易に達する体質を持った「脳」がある。もちろん経験や努力でそのような境地に達することもできるだろうが、要するに「容易」ではない。

 一生のうちに一度くらいはそんな「霊感」の高揚感とでもいうものを味わってみたいが、生まれつきの体質なのだろう、頑固に現実世界、眼前に見える世界から「ぶっ飛んで」は行かない。

 霊感を強く感じたり、容易に神秘的な体験をする人は、なんか素晴らしい幸福をもたらしそうに思うが、そうとも限るまい。天の配剤とでもいおうか、天賦の才能を与える神様はよく考えていて、霊感あるいは神秘的な能力には苦悩を同時に与えたようである。
 世の霊能力者や宗教の教祖などを見ても我々以上に悩んでいる。むしろ異能を持ったために苦しんだり、不幸になるケースもある。

 今も昔も・・いる。といったが、それはごく少数であって多くの人はそんな能力を持っていない、あるいはそんな能力は眠ったままか何かは知らないが、そんな体験をせずに一生を過ごす人がほとんどである。これも今も昔も同じである。

 しかし、そんな霊能力のない人でも、擬似的かも知れないが霊的あるいは神秘的体験をする方法がある。中世人はよくその方法をとった。

 今日は『石山寺縁起』の絵巻からそれを紹介します。
 まずは幾つかの絵をご覧ください。
   
 寺の本堂で祈願のためお籠り(徹夜でお祈り)をしています。褥(緑の畳)が敷かれている上の人々がそうです。
 徹夜のお籠りであっても、さすが明方近くなったら睡魔が襲ってきて眠くなります。そんな時、ついうとうと微睡(まどろ)みます。こういう時、無理に抵抗して起きてはいません。横になり、明方のまどろみに身をまかせます。

 右の立膝の男は今にも崩れかかっています。烏帽子がコロンと脱げて落ちました。左の端の女性は被きをかぶって完全に寝ています。上の男も寝ていて僧が樒の葉を口にもって行っています。何かの祈祷でしょうか。

 このように明方、まどろむとき、人々は夢うつつの状態で神や仏の言葉を聞いたり、霊感を得たのです。
 現代では、このように眠りの浅い時はいやに現実感のある夢を多く見ることが科学的にも知られていて、いくら明確な夢であってもそれは単なる夢としか見ませんが、中世の人は、明方の夢うつつの状態で見る夢を純然たる夢とは解釈しませんでした。そこには「あるもの」が降臨していると見たのです。

 覚醒中に霊感の弱い人でもこのように神社・仏閣にお籠りして明方の夢うつつの中に「あるもの」を感じ取ったのです。
 夢を見ない人はまずいません。おまけに祈る場であるお堂で夜通し起きて、明方ついうとうとすれば、まず、多くの人は何らかの夢を見るはずです。その中に「あるもの」(神・仏、亡くなった人の魂、生霊、さらには予知、運命も)を感じ取ったのです。

 上の寝ている女性は、観音様に祈っていたのでしょう。ついに明方、微睡みの中に観音様が現れました。

 このように霊感やいわゆる第六感が敏感でない人もこのような方法によって「あるもの」の示現を得たのです。

 中世が終わるとこのように神社・仏閣にお籠りして、明方のまどろみの中に神や仏そのほかに会う、というやり方は流行らなくなります。
 でも、霊感や第六感の全く働かない私から言わせれば、こういう方法を今また試してみたい気もします。

 お籠りして徹夜で祈りや瞑想をさせてくれる神社や仏閣のお堂は今、ほとんどありません。しかし、我が町の山岳宗教の中心寺「高越山寺」は本堂が泊まれるようになっているので、私の寿命があるうちに試してみたいと思いますが、さてどうなるでしょう。

 中世のこのような状況を歌った今様があります。

仏は常にいませども 現(うつつ)ならぬぞあわれなる 人の音せぬ暁に 仄(ほの)かに夢にみえたまふ

付録   
 この絵巻で技術史的な注目のからくり(機械)を発見しましたので載せておきます。鎌倉時代末にこのような動力機関があったんですね。ちょっと驚きました。
 揚水水車(自動的に水を汲みあげ高い場所に送る水車装置)です。

2 件のコメント:

Unknown さんのコメント...

中世にこのような「お籠り」という方法があったとは、おどろきですね。昔から人はいろいろやっているんですね。でも、睡眠中は死後の世界と同じですから、覚醒とはちょっと違うように思います。
 私の場合は、粛々と科学的な方法論を実践するだけですので、超簡単で家でも出来ます。瞑想は超越(三昧)が目的で、途中の領域でぐずぐずしていると幻影を見ることになるので要注意ですね。(^.^)

yamasan さんのコメント...

「途中の領域でぐずぐずしていると幻影を見ることになるので要注意です」
 というのは宗教でも同じことを言ってる宗派があります。一神教のキリスト・イスラムはそうですね。これらはそのような意識のあいまいな領域での体験は「魔」とか「悪魔」に魅入られるといってます。

 そう思うと仏教は許容の度量が広いですね。

 ま。話は中世人ですから「幻影」とは割り切らなかったんですね。
 でも今でも夢に意味を見出す人がいますね。

 瞑想、夢想、幻想、定義を知らないものにとってはあいまいです。