2011年1月31日月曜日

早くもカレンダーの月めくり、はやい

 今日で一月も終わり、ついこの間だと思った柱にかけたカレンダーもめくられ、明日から二月。はやい!
 どこかで一月はいぬ、二月は逃げる、三月は去る。と聞いたことがある。(頭韻を踏んで語呂がいい?) どんどん月日がたち、あっという間に新年度か!。新年度から新しい道が開けるのだったらいいが、新年度になっても相も変らぬ・・・・・
 いやいや、二月、三月でめどをつけねば。

 徳島のハローワークへいって、検索してちょっとおどろいた。
 なんと!検索パソコン、印刷機、最新式のまっさらぴんぴんになっているではないか。
 検索もしやすくなり、画面も見やすい。一番いいのは、プリントがすぐできることだ。古い型のパソコンはプリントにずいぶん時間がかかるのがあった。プリントアウトがあまり遅いので、故障ではないかと思ったぐらいだったが、新式は気持ちよいくらいスムーズではやい。画面の切り替えも早い。
 土曜日、行ったとき、工事で今日は休みますと出ていて、空振りだったのを思い出した。
 あ、この新式パソコンを入れるためだったのだ。と納得。

 正午過ぎ、Jメイトへ行く。お邪魔をするのが本意ではない、用事を済ませたら、ちょっとご挨拶して帰る。

 二軒屋駅で列車を待つ。待合室のごみ箱に、高校の教科書、ノート一式が捨ててあった。
 なんだろ?
 卒業と同時に、本ともおさらばか、もしそうなら、どんな高校生活を送っていたんだろ。これから本と縁のない人生を送るのだろうか。
 なんかさびしいな、寒々するなあ。
 
 本日の読売新聞をみてると、拳固の一面広告が、よくみるとワンピースのなにやら、これ広告?いったい何の?写メールにとって拡大しても、よくは飲み込めない。CM料かなりするんじゃないかな。ワンピさんのブログを読んでなかったら、見逃すところじゃ。



ありゃ、きれいに撮れてなかった。
ぼやけてわからん

2011年1月30日日曜日

腕に残るある痕跡

 みなさん、お風呂へ入ったとき、ちょっと腕をみてください。皮膚になにか痕跡は残っていませんか。いえ、傷痕とかではなくて。
 私には薄くなったけど右腕に十円玉大のが2つ、左腕には小豆粒大のが2つ痕跡があります。これは疱瘡の接種あとなんです。わたしら子供の時は、じいちゃん、ばあちゃん含めてみんなこの疱瘡接種あとがありました。子供のうちに何年か間をあけて2回(幼稚園と小学校高学年かな?)全員が強制的にしましたから、学童期以上の国民はみんなこの痕跡があったとみていいでしょう。
 
 しかし、いつの頃からか疱瘡接種もしなくなったみたいで、若い人にはそんな痕跡もない。みんなつるっとしたきれいなもんです。なんで、昔は、わざわざ一生残るような痕跡を強制的につけたのか。その疱瘡接種の意味もしらないでしょうね。
 一緒に温泉なんかに浸かっていると、
 「年配の人って、腕にみんなおできの跡がある人が多いね。」
 ぐらいにしか思ってないのではないでしょうか。

 今はもうかえりみられない、ちょっと醜い痕跡をとどめた疱瘡接種。しかし、近代においてこれが発見されたときは、人類にとって福音でした。
 もし、疱瘡接種(以下、種痘を使う)がなければ、今生きている日本人の数代前の祖先は、多くが乳児・幼児期に死亡し、多くの日本人がこの世に存在していなかったことになります。それくらい大切な種痘だったのです。

 「あばたもえくぼ」という慣用句があります。好意を持っていて、ひいき目にみると欠点も美点に見えるという、昔から言い古されてきた句なんですけれども、みなさん、ちょっと考えてみてくださいよ。そんじゅそこらにあばたっています?せいぜいニキビ跡でしょう。あばたというにはね程遠いし、これは違いますよ。
 ほんとのあばたは、疱瘡(天然痘)にかかり、なんとか一命をとりとめたが、ひどい痘疹の後遺症のため皮膚が醜く、月の表面のように凸凹えぐれたり、ひきっつたりしたものなんです。だから、今の人で、あばたがある人は皆無といっていいでしょう。
 
 実は、私の曾祖母は私が5歳まで生きていたんですけど、この疱瘡によるあばたがありました。なくなったとき86歳ぐらいだったから、1870年頃の生まれです。明治のごく初期、田舎にはまだ種痘が普及していなくて、幼児期に罹ったのだろうと思います。

 今、鳥インフルエンザ、そして人間のインフルエンザも流行してますね。伝染性であっという間に広がり、恐ろしい症状をもたらし、時には、多くの人の命を奪う。疫病といい、最近はパンデミックとも言われています。
 人類史上、もっとも最強、最悪な疫病は、この疱瘡(天然痘)ではなかったかと思われます。私も、本の受け売りだから断言はできませんが、まず、免疫抵抗力のない人が接触したら(空気、接触で伝染する)100%罹る。そして、大流行の場合によって差はあるが、罹患者の半数以上が死亡する場合もある。まったく処女地である新大陸にこの天然痘が持ち込まれたとき、原住民の一種族が全滅したといわれています。

 それは日本でも同じことでした。江戸中期以後日本の人口は増えないんですが、原因として、間引きや堕胎など出産忌避とならんで、幼児の天然痘による死亡が大きかったのではないかと思っています。
 先日、文化の森の文書館の資料に次の古文書の一文を見つけました。これは名西郡高原村の元木家の1808~1860年、江戸後期、の日記の中に書かれてある幼児の天然痘による死亡に関する文です。

 『疱瘡追々流行仕、国中都ておもく村ニより七歩死半より三・四歩、当郷忠吉娘磯吉娘十二相果申候』

 天然痘が大流行し、村によっては子供の70~30%も死亡したことが記録され、身近な近所の娘であろう、2名が死んだことも書かれている。
 生まれて大人になるまでの間にかなりの確率で天然痘で死亡したのである。疫病による幼児のこのような大量死が人口が増えなかった大きな原因であるのもうなずける。

 やまさんの推理では、当時、疱瘡(天然痘)はかからざるを得ない通過儀礼のようなものだろうとおもわれるのです。(わたしが子供の時は、はしかなんかはまだそうでした)、そして死亡率が高いため、半数、よくて2~3割は、疱瘡のため死神に取っていかれると人々も考えたんじゃないかなと思うのです。
 昔は子供も全員育つ可能性が低かったので、我々は今よりたくさん子供を作りました。そしてやはりその中の何人かは、疱瘡や他の病気で死にました。多くの兄弟のなかでそのような運命を背負った子供を、「死に坊」と呼んだりしてました。悲しい話です。

 こどもならだれでも通過し、それが命の別れを決める疱瘡。その宿命に福音が現れます。疱瘡の撲滅につながる予防医療が幕末の長崎からもたらされます。英国のジェンナーによって始められた種痘です。驚くべき効果を発揮し、種痘を受けた子供で死ぬことはなくなります。
 種痘普及と同じくして人口は大きく増加しはじめます。子供の疱瘡死が激減したのが大きな原因であろうと思います。

 この種痘による幼児死亡の減少は、もっと知られていいと思うのですが、種痘も廃止になった今、関心を寄せる人もいません。
 風呂に入ったとき、年配の人の腕にある痕跡を見て、人類最強・最悪の天然痘の恐ろしさ、そして種痘の恩恵を想いだし、今、私がここにいるのは、先祖が種痘によって生き延びたからかもしれないなあ、と考えてみてください。

幕末、徳島で初めて種痘を行った人
もちろん、長崎からこの技術を持ち帰った。
この間、眉山に登ったとき、麓にあったので撮った。

幕末、これによってどれだけの子供が死なずに済んだか。その子だけでなく、未来の子孫の我々まで。
恩恵は計り知れないほど大きいはずだが、
ひっそりと遠慮がちに石碑。訪れるひともいない。 

日曜の朝ニュースを聞きながらの雑感

〇 噴火続く。長引く可能性も
 一昨日のブログでも取り上げたが、かなり心配である。日本は繊細な山や渓谷が美しく、多くの滝、きれいな湧き水、いたるところにある温泉、日本に生まれた喜びを感じますが、これは火山地形あってのこと、すばらしい自然と引き換えの災害も甘受しなければならないのか。できるだけ人知で被害を最小限にしたいもの、天災プラス人災にならぬようにしなければ。

〇 大雪つづき寒波もしばらく居座る
 大雪の被害も出ている。被害は出なくても屋根の雪下ろしや、除雪で大変。近年、寡雪でスキー場が困るといっていたが、降ればいいもんでもない。雪国でも降雪には程度があるよね。
 空に向かって、「節度を知れ!」といっても仕方ないか。
 まさか!「北越雪譜」を読んだたたりか。
 でも着実に春に向かって進んでいる。光はもう春。2月3日は旧暦の正月・節分、翌日は春が立つ。

〇 エジプト、大規模デモ、現政権が持つか?
 政府に対する不満から大規模なデモが起きている。暴力的ではなく、治安組織も強権的ではないので、今のところ見ていてそう心配はしていない。でも政府が倒れるかもしれないなあ。
 それにしても、日本国民の被統治能力の高さ。悪く言えば、なにをされても怒らない従順さ。ほとほと感心しますわ。
 一方的に消費税上げようとするわ。金のかかる地デジに勝手に切り替えビンボー人がTVを見えなくするわ。政府はやりたい放題。政府はなんといったか?「日本国民は理性的だから、理由を言えば納得する」
 ああああああ、なんという優しい国民。みんな衣食足りてるんですね。日本に生まれてよかったね(これ皮肉ですよ)。よその国の食うや食わずの大衆に、さらなる負担を政府が強いれば、暴動ですわ。

〇 日本、サッカーでアジア1位に
 昨夜は見られませんでしたが、朝のニュースで知りました。よかった。素直に喜びます。画面では日本全国の昨夜の観戦風景を流してました。みんな全員浮かれてましたね。
 でも、そのあとに、また、某ドあつかまし大国の監視船がS諸島に、という小さなニュース。
 ほら見たことか!
 「パンとサーカスにうつつをぬかし滅びたローマと同じじゃ」とやまさんにいわれないようしてほしい。

 やっぱりね一合弱のハイボールを飲んだばっかりに早朝から、頭痛。耳鳴り。気分がよくない。テレビニュースもイライラすることばかり。
 今日は朝ももちろん寒いが、昼もせいぜい1~2度までしか上がらない。大温泉に入ってゆっくりしてぬくもりたいが、600両いるし、芋こぎかもしれないな。
 もう少しして、ちょっと気温が上がったら、徳島へいってウロチョロするか。じっとしとるよりぬくい。
 どっか、ぬくいとこ、おまへんか。

2011年1月29日土曜日

ハイボールをちびちびやりながら

 今、ハイボールをちびちびやりながら、ブログ、やってます。
 まことにアルコールには弱いので、一合弱のグラス一杯で十分すぎるほど酔います。
 トンガラシ風呂からでて気持ちいいところで、酔いも回ってきてます。後で大抵、頭痛くなります。

 でも、今日は少し酔いたい気分です。どうして?理由もないんです。ただ、ひどく寒くて、
 ストーブだけでは、心まであたたかくなりませんよね。

 静かです。雪でも降ってるのかな。
 
 外をのぞいたけど降ってなかったです。真っ暗で風もなくほんとに音がしません。

 明日は気温が上がらず、寒い一日となりそうです。
 みなさん、明日はなにをしましょう。

今日は津田から海を

  今日も気温の低い一日でした。
 家で冬眠していても健康によくないし、暖房光熱費もかかるので、今日も真冬の海を求めて東奔西走の東奔をすることにしました。ところでどこにしようか。鳴門。うーん、蒸気賃が700円もいるから、やめよう。徳島市の津田はどうじゃろ、素通りしたことはあるが、津田から海なんぞ見たことがない。ここなら、定期で徳島へ行き、自転車で行ける。金かかれへんわ。決めた。そういやあ、「津田の海岸」てきいたことあるぞ。松の一本か白浜が畳一畳くらい残っているかもしれん。

 午前11時徳島駅の前に立ちました。近くに置いてある自転車を引っ張り出し、出発だが、その前に、行ったことのない市内の寺を見学するつもりで、眉山麓に行く。
 瑞巌寺という寺。
 インターネットで調べると、本尊が、「キリシタン灯籠」とあった。
 「えー、本尊が灯籠?ほんまかいな。ほんまだったら、めずらしい。」
 灯籠は灯籠、燈明をあげるものだろう。これが本尊になるのかな。神道ではアニミズムもある。だから器物も御神体になるが、仏教では聞いたことがない。ましてキリシタンでは愚像崇拝禁止じゃ。わからん。

 境内に入って、聞くと奥は拝観料がいるとのこと、当然、やめる。入り口で写真を撮る。


瑞巌寺という名前は仙台・松島の名刹と同じ名前。
 こちらも幽玄枯淡の風情を感じる。
 庭園を見たかったが、有料とのことで見なかった。





 
瑞巌寺を出てまっすぐ突き進むと紺屋町から仲ノ町、県庁前から津田への道、道なりに行くが、
 遠いよお~
 自転車のペダルは重い。
必死で漕ぎ、何とか津田漁港へ




 
漁港の先に海が開ける。
潮の香がする。

カモメが波にちゃぷちゃぷ浮かんでいる。

せっかく来たので津田の山の方の狸の祠を見る。下の写真がそれである。




 津田の海岸なんかどこにもなかったなあ。と振り返り、はっと、気づく。白砂青松の海岸は同じ津田でも、讃岐の津田じゃった。
 








  

2011年1月28日金曜日

地獄の口が開く

 今、夕方の4時50分。4時過ぎ西へ歩いていてある天文現象を見た。その話の前に次の絵をご覧ください。
 15~16世紀に活躍したボッシュの油絵である。
 上は「狂女フリート」
 下は「地獄」
 である。
どちらの絵も上部は炎で赤く染まっており、陰気で幻想的な絵と相まって不気味さを醸し出している。
 
 地獄は、普段はこの世界と峻別され、決して行き来することができない。
 もし、その境界が突破された時、その割れ目からは地獄の業火が吹き出し、亡者や魑魅魍魎どもがこの世に湧きだし恐ろしい世界となる。

 この2枚の絵は、この世にまさに、地獄が現出した世界を表している。

 なぜ今日、このような絵なのか。

 何日か前から報道されているが、今日のお昼のニュースではトップ扱いだった
「新燃岳の噴火」   
 である。

 かなりの噴火で、降灰は大規模に及んでおり、被害が出ている。このままおさまるかどうかはわからない。

 実は、私をひどくおびえさせているのは2年前に読んだ石黒耀の火山小説『死都日本』の影響である。

 内容はフィクションだが、火山学者から、九州全域を壊滅させる大噴火は今までにもあり、これからもある。そしてこのような被害の大噴火はいつ起こっても不思議ではないといわれた。ありうべき噴火の小説である。

 この小説の大噴火もこの新燃岳の場所である。
 不吉な予感を感じる。


 『死都日本』は科学的データに忠実に書かれている。この付近は超巨大カルデラが隠れていて、千年単位だが、大噴火を起こす。縄文時代から数えると日本人の歴史は一万年以上だから、過去において我々の先祖が何回か体験している。
 その被害規模は一つの民族を絶滅の縁にもたらすほど深刻なものとなる。事実、縄文文化は絶滅こそ免れたものの衰退し大きく変化する。
 
 小説の大噴火は、阿蘇以南の九州、3県に壊滅的被害をもたらす。特に宮崎、鹿児島両県は大火砕流でほぼ全滅する。身の毛もよだつような恐ろしい被害が記述されている。
 この小説が恐ろしいのは、何度も言うが、科学的に全く正しく、いつ起こるかもしれないことである。数千年単位とはいえ、昨日今日かもしれないのである。

 今、夜に入った新燃岳は火口から真っ赤な溶岩を噴き上げている。夜に入って天を覆うばかりの黒雲の噴煙は目立たないが、その黒雲は雷光をはためかせ、真っ赤な火口めがけて稲妻が走る。
 まさに上のボッシュの地獄の口が開いた世界の到来を思わせる。

黙示録のようなカタストロフィの予兆でなければいいんですが。

 それで私が見た夕方の天文現象である。おそらく高空の非常に細かい火山の噴煙の影響と思われる現象が次の写真である。
 晴れているのに空は白く、ぼんやりしている。太陽はまぶしさを失い、やけに白っぽい。そして太陽の直径の何十倍もの白い大きな円がぼんやりした太陽を取り巻いている。
 国家(中国では天子)に凶事が起こるとき
 「白虹日を貫く」
 と言われた、具体的にどんな天文現象だろう?これがそうだというわけではないが、不吉な天文現象のような気がする。
 はずれてくれることを祈る。

黒点は太陽、露出過多で暗転してる。























この時刻だと赤みががらなければならないが、全体に白っぽく異常。
 高空に多量の微粒子の浮遊を感じる。

































『死都日本』、講談社からでてます。科学的な小説で、起こるかもしれない前提に書かれています。興味のある方は読んでみてください。

2011年1月27日木曜日

立ち読みは知識盗人か、でもね~

 本を読みたいときは、図書館の本を利用することにしている。しかし、話題の新刊などは図書館にはない。しばらくして買い揃える本もあるが、予算の関係ですべてはそろわない。
 わたしが読みたいな、と思うような新刊は、一般的に人気がない本で、まず、購入予定はない。リクエストをしたこともあるが、リクエスト用紙に記入しただけで、いつも却下なのだろう、入りましたと連絡はない。
 そこで、新書ぐらいの軽い内容の本だと、立ち読みをさせていただいている。もちろん、これは犯罪行為ではない。しかし、薄い新書とはいえ、一冊読むのは度を越していることも承知している。まあ新書だから大雑把な読みで出来るだけ早く終わらせるようにはしているが、それでも数十分はかかる。まことに申し訳ない思いではいるのですが
 
 私も2~30歳代の小遣いが潤沢にあった時期は、少しでも気に入った本は迷わずジャカスカ買いました。
 しかし、今現在、800円ぽっちの新書でも、恥ずかしい話ですが、それだけあったら生活費にと考え、私にとって本の購入などはありうべからざる贅沢になってしまいました

 今日も、とある本屋で、面白く、どうしても読みたい新刊の新書を見つけました。大冊だったらあきらめますが、薄い新書だったので、大雑把の要点読みで最後の頁まで立ち読みしてしまいました。

 あつかましい、知識盗人だ。といわれそうですね。でも、周りを見てみると時間の長短はあっても、みんな立ち読みしてる。
 それにこども本コーナーだけど、ベンチがあって坐り読みしてる子もいる。
 しかし、最近、足腰が弱くなって、立ち読みも苦行になってきつつある。今日もだんだん腰が痛くなり、ほとんど斜め読みでさっさと終わった。

 読み終わっていうのもなんですが、真新しいことはなかったですわ。唯一の新発見は、シーボルトが文政十年、大阪角座で歌舞伎、「妹背山女庭訓」を観劇したことぐらい。
 へ~、鎖国時代にようそんなことができたな。
 まあ、たいしたことごわへん。シーボルトはんは、江戸城奥深くの幕府の文書館ともいえる紅葉山文庫にも入ってますから。
 お前は忍者か。
 
 最近、新書を出版するところが多くて、新書とはいえ、内容はどこかで読んだようなものが多い。いい新書は少なくなってきている。 

北越雪譜その3 雪男

 ようやく「北越雪譜」を読み終えた。
 ところで今日は1月26日。24節気の大寒から立春までが、一年のうちで一番寒い時期に当たっているが、今日明日がちょうどその時期の中日、寒極まるこの頃である。そのとおり今日は昼でも気温が上がらなかったが、夜に入ってグッと冷え込んできている。
 わたしのファンヒータは壊れて、電気店に持っていったまままだ帰ってこない。冷える夜どうしようかと困っていたら、昨日、ある人の好意で石油ストーブがうちにやってきた。
 で、今、パソコンの横で赤々燃えて、たっぷりぷりぷり赤外線を輻射している。あったかい。よかった。

 暖房もない寒い中、ブログで北越雪譜の中のさむ~い話をしてもシャレにならない。自虐ネタになりそうである。
 しかし、今夜はストーブが静かに燃え、充分暖かく、いま、上にのせたやかんがシュンシュンいいだした。
 湧いたやかんのお湯でお茶を入れ、やかんを下した後にスルメか餅を焼いて食べたいが、どちらもない。お茶だけすすり、赤々燃える芯を横にみながら、雪国の奇談をご紹介します。

 夜話としての雪国奇談の中で一番人気のあるのは、「雪女」の話ではないだろうか。雪舞い、寒風吹きすさぶ夜、暖かくした部屋で聞く、怖いけどロマンある「雪女」のはなしぐらいふさわしいものはないだろう。
 しかし、江戸期に書かれたこの本の中には雪女の話はない。雪中の幽霊の話はあるが、「雪女」のようなロマンのある話ではない。「雪女」の話は、民話をもとにした小泉八雲の創作で明治以後の小説に書かれた話である。

 雪女の話はないが、ヒマラヤの雪男(イェティーともいうらしい)とそっくりな異獣の話が載っている。                                                                                                          


 上が本の挿絵を直接撮影したものである。江戸時代の木版挿絵である。ちょっと見にくいが、今現在でもテレビなどの「世界とんでも不思議ニュース」で時々取りあげられている雪男になんとよく似ていることか。本にはこう書かれている。

 近くに寄ってみると猿に似ているが猿ではない。頭の毛は長く、背まで垂れている。毛の色は半分白い。背丈は大人より高い。顔は猿に似ているが赤くはない。目が大きく、眼光するどい。
 この異獣に会った男はびっくりし、山刀を握り身構えるが、害意はなさそうで、男が持っていた握り飯か何かを指さし、ねだる様子。投げ与えれば、うれしげに食った。
 「わしは、いそぐから行くぞ。帰り、欲しければ、また、飯をやろう。」
 と異獣に向かって言うと、お礼のつもりか、男の持っていた重い荷物を軽々持ち、里近くまで運んで姿を消したとある。上の挿絵はその男の荷物を運んでいるところである。

 まさに雪男である。ヒマラヤの雪男は人に対して害意はあるのだろうか?こちら我が国の雪男は、害意は感じられない。人になれていて、恩を知りそれを返す律義さがある。
 そう思ってみるとこの挿絵の雪男も毛がモシャモモシャしていて、着ぐるみみたいで可愛げがある。

 そのほかこの本には、雪国の珍談、奇談、面白い風俗、満載です。全部紹介できないのが残念です。
 
この「北越雪譜」、岩波の文庫本にあります。原文ですが、江戸も末期。かなり現代文に近いため、読むのにさほど困難はないと思います。
 さむい冬の夜、つれづれに、読まれてはいかがでしょうか。 

2011年1月26日水曜日

深夜の観戦に大興奮

 昨夜、12時前にアルコールも少し入り、気持ちよくなったところで寝ようとパソコンの電源を落とした。最後のニュースをやってるかなとBSテレビをつけたら、サッカーの日韓戦をやっている。
 韓国はオリンピックでも強いし、対日本戦となれば選手、応援、国あげて大ハッスルして実力が倍増するのはいつものことなので、韓国勝利かな?という予感で布団に入って、ぼんやり見てました。
  
 ところが、ギッチョンチョン!押され気味だが、いい勝負をしてます。
 「おおおおおお、いけるかも。」
 点で日本リードしたあたりから眠気、吹っ飛びました。
 「こりは、勝てるかも」
 目がらんらん、応援に熱が入り始めました。

 逃げ切るかと思われたが、韓国も、さるもの、ひっかくもの。スコーン。ひょいえー!同点。
 PK戦。
 わたし、内心、結果は、あかんと思いました。
 このような、シュッチュエーションで韓国に敗れるのは、いつもの悪夢。
 日本選手って、いつもマナーいいし、男は黙って仕事する、の職人芸の国。
 古武士のような、正義を何より重んじ、口数少なく、求道者タイプの選手ばかり。
 だけど、ど厚かましい、勝てば何でもありの世界では、このような美徳は悔しいけど通じまへん、互角だと弱い。

 しかし、手に汗にぎり、卒倒寸前の興奮も短くけり。あっという間に
 日本勝利
 あの、守護神、だれ、男あげたわ。すんません、私、選手の顔も名前もよう覚えてません。
 はなし、変わるけど、サッカーのコステューム、古武士の直垂にしてもらえんじゃろか。せめて儀式用だけでも。かっこええよ。
直垂です
 
 いいねえ。サッカーでもこの間の若鷲・航空自衛隊でも、国旗を背負い、使命に燃えるおとこって最高。右翼でないけど、応援声援をおしまへんわ。金はようださんけど。

おかげで寝不足になりました。
  

2011年1月25日火曜日

セミナー参加

  本日、約2か月ぶりに前の訓練生と机を並べて講義を受けたり、グループディスカッションをしたりしました。しばらくぶりでお会いしたことも懐かしかったんですが、たまたま今日の午後、このように机を並べてセミナーを受講してると、

 「あ、Jメイトでも、そういえば、彼とは隣同士一緒に机を並べて訓練したな。」

 との感慨で、3か月にわたった学校の既視感(デジャブ)もよみがえり、なつかしさも一入。
年老いたら、

 昔をなつかしがる。さびしがる。出しゃばりたがる。くどうなる。おまけに死にともながる。

 とはよく言ったもので、年老いてさびしんぼうのやまさんは、嬉しいぐらいなつかしがりました。
 
 ディスカッションでは、上述の、でしゃばりたがる、くどうなる、を実践して、みんながあきれるほど、ぐだぐだとしょうもないことを言ったのではないかと、家に帰って反省してます。

 講師の先生は、面接の第一印象は、みめかたち、が重要なポイントになると強調していました。ということは?
 おろかなやまさん、ここではっとする。
 胸にまでなんなんとしようかという白髭、わが身を振り返る。

 「仙人の養成セミナーでないのだから、こりゃ、場違いじゃ~。」

 でも講師の先生も、他の受講生たちも、充分寛容で、年長者に尊敬の念をもっていて、一番よくしゃべって、場をかき回したやまさんを大目に見てくれました。

 でも、このセミナーでもっとも身に着けなければいけない態度は、人の話をよく聴き、それに対して、自分の意見をはっきり言うということにあるとおもうのです。その意見が間違っているとか、おかしいとかいうのは一義ではありません。
 ディスカッションでほとんど発言しないグループがいたのは残念な気がします。我々のグループは最高齢だったのか、みなさん遠慮なく意見を出し合い、各グループの中での発言の多さはダントツでした。なにせ、他のグループのディスカッションが終わっても、うちがいつも最後。うちが終わるのを、先生、切り上げの目安にしてましたもの。

 講師の先生は、さすがだな。と思いました。わたしの発言で妙な方向に捻じ曲げられたかもしれない結論を、
 うま~く、まとめていました。

 私はこういうのは初めて受けたのですが、もっと切羽詰まった、チャリン、チャリンという白刃の音が聞こえるくらい、真剣なセミナーを想像してましたが、暖房のきいた快適な講義室の雰囲気にあわせるかのような、春めく、のどかな、ゆったりしたものでした。

2011年1月24日月曜日

やまさん、かいよねす

 早朝、持病が少し出たが、幸い緊急外来のお世話にならずに治まって。
 
 ホッ

 でも、おかげで寝不足。おまけに年齢のせいか、寒さによるものなのか、足、腰、肩が痛くもあるような、だるくもあるような、何とも言えない不快感が一日付きまとった。
 こんな日は、天気もひどいもので、家から外へ出たとたんにぱらぱら雨に降られ、急いで傘を取りに戻り、歩き出したが、風もあり、曇って寒く、先ほど少し濡れた顔や手が刺すように冷たい。

 お米がないので買いに来たが、スーパーも入っているショッピングモールの中は結構暖かいので、ベンチに腰掛ける。睡眠不足か手足のだるさが頭にも上ったのか、あたまがぼんやりして、
 うとうと、そしてしばらくだが昏睡。はっとして目覚め、目的の
 買米にスーパーの中に入る。

 「糴」 なんかすごく難しそうな字ですね。大昔、通信教育で日本史の勉強した時に出てきた不思議な文字を思い出しました。
 これ1字で、「米を買い入れる」という意味になるんです。読み方は、テキ、または訓で、かいよね。(米、よねを買うから)

 で、やまさん、スーパーで、糴す。

 平成の大御代に生まれた喜びを感じなければなりませんね。貧乏人のやまさんでも食べようと思えば、毎日でも白米が食べられます。
 今から100年にもならないちょっと昔、米が買えなくて米騒動が起こりました。昭和の初めの頃も白米飯は贅沢。「おしん」では大根飯でしたね。昭和30年代でも首相が
 「貧乏人は麦を食え」って言ってました。やまさんの子供時代は米と麦の混合飯を食べてました。

 ずっと昔から日本人は米の飯が食べられることが食生活の究極の目的でした。つい50年ほど前までは、これが夢であり、希望でした。

 「ああ、米が買え、毎日、おまんまが食べられてありがたい。」
ちょっと昔の日本人ならそう思ったでしょう。

 そんなふうに思えば、米を買うことに特別の感慨が湧いてきます。
 貧乏人のやまさんは、安いコメを買うべきなんでしょうが、貧乏を体験したある人が
 「米は、少し高くてもおいしいコメを買う方がいい、なぜなら、おいしいコメだといろいろなおかずなしでも食べられるから、結果、安くつく。」
 と聞いて無理して銘柄を買うことにしてます。

 ぱんぱかぱーん。華は越後の~、新潟こしひかり、を買いました。

 5キロ袋をかかえて、撫でるとちょっとジーンとします。
 歴史上、このコメは、ただの食糧ではなく、富、しあわせ、金銭、だったのです。

 とはいえ、今日は白米を炊飯しませんでした。手作りのコロッケを5つもらい、それで腹が膨れました。足りない分はスパゲッチを解凍して食べます。うちの家でもコメの消費は落ちてます。

 追伸
 糶」これ上の字と少し違います。こちらの意味は、米を売る、という意味になります。チョウ、と読みます。

2011年1月23日日曜日

親鸞と赤ふんどし

親鸞展
 本日、無料の招待券をもらったので、そごうで開催中の「親鸞展」を見に来た。信徒でもないし、自ら進んで入場券を買ったわけでもないので、熱のこもった鑑賞にはならなかった。入場口で当日券の値段をみてびっくり!大枚800両!うわっ、高い。
 値段で判断するのは貧乏人の悪い癖。
 「それだけの価値があるかもしれん、気合を入れて、見ようか。」

 しかし、展示物の大半は、古文書も絹本着色の掛け軸、絵巻物の類、精巧なコピー。本物ではない。もうそれがわかると途端に興味は半減以下。コピーならその気になれば、県立図書館あたりで、文書(もんじょ)も絵巻物、掛け軸のコピーもいくらでも見られる。まあ縮小版だから多少見にくいし、自分で多くの収蔵図書資料から探さねばならないから、このようにまとめて展示してくれれば便利なことは事実だ。でも人が多くて落ち着いて見ていられない。
 というわけで、歴史好きのやまさんとしては、かなりおざなりに見ました。

 鎌倉時代、仏教は庶民の間に浸透し、新宗派がいくつかできる。その開祖が活躍するのも鎌倉時代である。
 親鸞は浄土真宗を開く。この宗派が他の鎌倉仏教の宗派と違うところは、公式に肉食妻帯を認めたことである。親鸞も正式に結婚し子供もできる。そのため現在までこの宗派のトップは代々その子孫が世襲している。
 浄土真宗の教義についてはまったく知らず、あれこれ言うことはできないが、鎌倉時代に肉食妻帯を認めたのは、この時代にしてはモダンな宗教だなという気がする。キリスト教でも牧師さんの妻帯が認められるのは、プロテスタントの宗派が起こってからだから、西洋でも16世紀になってからである。日本の方が300年ほど早い。
 
 また、展示の聞きかじりだから、以下、私だけの感想かもしれない。それは、親鸞の言葉を聞いていると、聖書の「原罪」(生まれながら持っている罪)に近い考えを持っていたのではないかと思う。
 彼は悪人こそ真っ先に阿弥陀如来によって救われるべきだという「悪人正機説」をとなえる。有名な
 
 「善人なほもて往生とぐ、いわんや悪人をや。」
 
 このもとになっているのは人は皆、罪びとである。という考えがあるような気がする。
 
 「そのようなすべてにわたり罪を背負った人を救うのが阿弥陀如来である。その中にあってもっとも罪が大きいと自覚している罪人こそ、原罪を背負っているにもかかわらず、自分は善人であると思っている人より、より阿弥陀様の悲願に近く、救いの本願として真っ先に救われる人である。」
 
 と、このようなお考えではないのかと思いました。

 鎌倉宗派の祖師は、この他、法然、日蓮、道元、栄西、一遍らがいる。
 この中で、一遍については、その語録や、有名な「一遍上人絵伝」のコピー本を私は家に持っていて、昔、読んで少し勉強したことがある。その生き方、宗教的な実践にひかれるものもある。 
 しかし、親鸞については正直、今日、展示会をちらっと見た以上には興味がない。
 信徒のみなさん、ごめんなさい。

若鷲ふんどし隊
 日本の空を守る若き兵士たち。
 帝国陸海軍の時代、白銀の翼にうちまたがって空を駆け巡る若者を「若鷲」と呼んでいたような記憶がある。この言葉には、気高く、りりしい、若い空の防人のイメージがある。今日、親鸞展をみるまえに新町橋で人だかりがしているので、見ると、若鷲たち、航空自衛隊のパイロットたちが寒中水泳をやってました。
 
 真っ裸で赤いふんどし一丁をきりりとしめ、新町橋の欄干からドッポン!
 
 海水パンツでなく、赤ふんどしだよ。
 
 ああ、伝統じゃ!日本男児じゃ!かっこいい!
飛び込む前の自衛隊の若者。パイロットと整備士のグループ

川から上がればさすが寒そう。
携帯動画も撮りました



若鷲のみなさん、任務ご苦労様です。日本のためがんばってくださいね。

2011年1月22日土曜日

海を求めて東へ東へ、そこには

 今日も比較的穏やかで朝から晴れてたので、洗濯を終わり、干すと、徳島へ向かいました。駅近に置いてある自転車に乗り換え、裁判所の前の道をひたすら東へ。

 東へ東へ行けば、沖の洲海岸に行きつく。沖の洲海岸から紀伊水道を眺めるつもりだ。確か30年も前に沖の洲まできて泳いだことがある。あの時は二輪原動機で来たのを思い出した。その時以来沖の洲海岸から海を見たことはない。

 少し行くと福島橋を渡る。この橋には人柱伝説がある。その説明案内板を読む。
人柱などという、おどろおどろしい風習が昔はあったんですね。
 昔の木造の橋は嵐や大水に脆弱でした。竜神か何か他の神様かしれませんが、橋を守るため人身御供を捧げたのです。

 説明にはこうあります。
 早朝、一番にこの橋を通る人に白羽の矢をたて犠牲となってもらうと、
 で、最初に通った人は、諸国巡礼の六部、因果を含め泣く泣く納得してもらったって。
ひどい、ひどい、ひどすぎる。身寄りのない他国者の巡礼というところに何か作為を感じる。どこからも文句の出ない人を選んだんじゃないか?
 でもこれ、あくまでも伝説、いくら昔でもちょっと信じられない。

 必死で自転車を漕ぐがなかなか海に到達しない。ようやくまっすぐな東への道の終点は
 えーっ、高さ4メートル近い防潮堤。海へ行けない!

お城の城壁のような巨大な壁
海は切り離され、近づけない。
沖の洲海岸は?
打ち寄せる波は?
白砂青松なんぞは夢のまた夢、
豊穣の海を求めての小さな旅の終点が
これか?
地の果てには、大海がある。幼き頃の世界観
見るも無残なコンクリートの壁。
豊かな海へは行けず、
行き、行きて、果ては牢獄の壁か。







あちこち壁を探し、ようやくのぼり場所を見つけよじ登り、海を見るが、海岸はない。
 波消しブロックが延々つづく。








沖の洲とは、吉野川河口付近に堆積した砂が沖合流によって、沖に砂州や干潟が平べったく形成されたもの。
 その名前が地名にもなったのだが、今、砂州、干潟どころか海岸もなくなっている。

 ああ、30年のこの変化。




埋め立て工事の完成図が埋め立て工事現場に立っていた。
 コンクリートの無機的な街が出来上がる。

 図の①も②も③も④も埋め立てられる。

 ④の場所はまだ埋め立て途中で、沖の洲海岸の面影が残っていた。カモメの群れが何となく侘しい。


これが④の場所











自然はどんどん消えていく、万人が幸福になることなら、仕方ないんですかね。でも、ほんとにいいの。

練習に動画を投稿しました

 Jメイトで習ったことも時がたつとだんだん忘れていきます。まして還暦を迎えると忘れる度合いも甚だしくなります。
 今日は、昨日の夕方、たまたま撮った動画があるので、やり方を思い出しながら投稿しました。
 皆さんは簡単だろうと思われますが、手順がもたついたり、忘れたりしてて3回やり直しました。

 徳島そごう前を通りかかったら、テレビ中継をやってましたので携帯動画で撮りました。
 携帯動画とはいえ、普通は音声もかなり聞き取れるのですが、この日、某政党の女性候補が知事選立候補を決意して、その決意演説を駅前に停めた選挙カーのラウドスピーカーでながしています。天までとどけの大音量で、ワンワン言ってて動画が聞き取れないと思います。
 

2011年1月21日金曜日

入試科目に思うこと

 遠く離れたところにいる甥からメールがあった。今年、高校三年で、共通一次を受けたとのことで、先日、私からその首尾を問うメールを送っていた。その結果であるが、地理Bと政経は、学内トップとのことであった。(私は知らなかったが、テスト問題、後で学校で答え合わせをするらしい。昔は共通一次なんてなかったから、受験してすぐ成績などわからなかった。)
 「おお、さすが、私の甥じゃ。やりよるわい。」
 しかし、そのあとのメールの文面がよくない。
  「数学、英語はよくなかったけれど・・・・・」
 こらこら、一番、大事な教科だぞ。
 私らの時、大学入試は、理系の大学は、数学、英語は必修。文系は英語が必修。あとの科目は、専攻や好みに合わせ選択であった。だから「英語」、「数学」は高校の教科の中で最重要科目であった。特に「英語」はどんな大学でも入試科目にないということはなかった。
 「あちゃー、致命的なんちゃあうんか?」
 しかし、甥の母親(私の妹)の説明によれば、最近は英語、数学は必ずしも入試に要求されないそうである。英語も数学もその他のいろいろな科目と同じ一科目であり、どの教科も優劣なく、その中から随意に数科目選ぶとのことである。
 まあ、難関大学なんかは今でも英語や数学は必修なのだろうが、一般の大学では英語でなくても好きな教科を選べられるようになった。昔だと英語の試験の関門を通らず、大学に入れることは考えられなかったから、時代も変わったものである。
 だから共通テストが高得点の任意の教科を使用して入学審査に出願できるそうである。結構なことなのか、それとも基礎科目である英語・数学おろそかにして大学生の学力低下が進んでしまうのか、どうなんだろう。
 甥が志望の大学に入れることを祈っている。

 甥の話はここまで。次はその重要教科といわれる英語、数学についてである。最近の入試では、多くの大学でこの教科の必修を外しているのは先に述べたとおりである。もし、これが英語、数学を軽視しているのなら、とんでもないことである。
  いくら最近の大学に高度な専門性など求めていないといっても、最高学府である大学には、数学、英語を学習や研究の手段として使いこなせる人材を育成してほしい。
 
 英語については、最近の大学の中には、学内では英語による授業や課外でも会話を取り入れている学校があると聞く。大学の外でも、今は英会話スクールが大流行りである。確かに、英語が聞き取れて、自分の言いたいことを自由に話すことができる英会話ができることはいいことであり、国際化の時代、このような若者が増えることは必要である。
 しかし、大学では、英文の専門書を読んで理解したり、英文で文章、レポート、やがて英語の論文を書くことができるように勉強してほしい。最近、流行らないやり方かもしれないし、学生には嫌がられるかもしれないが、大学の英語はこのようにあるべきだと思うのである。
 会話などは、大学でなくても勉強できる。大学の教員が行う英会話の授業より、街にたくさんある駅前留学学校の授業の方がより速いスキルアップができる。さらには、実際に外国人と日常の中で話しするのが一番いい。要するに大学でこのような会話力のスキルアップしなければならないような必然性はないのである。
 大学でなければできないことといえば、将来研究を行うための基礎力、専門性を高めるための基礎力、学術発表のための基礎力などであろう。それらのまた基礎となるのが、英文の専門書の読書。英文での小論文の作成である。これらのことは大学時代にみっちり・しっかりやっておかなければ、そのほかではなかなかできないものである。はっきりいって英会話などはいつでもどこでもできる。

 数学についても、文系の志望者は全く勉強しなくなると聞くが、これもおかしいと思う。たとえ入試になくても、数学は勉強すべきものである。
 論理的な思考力を磨くのにこれほどふさわしい勉強はない。あいまいさはなく、間違いのない思考、推論のみが正へと通じており、それらの思考・推論をかさね、より高度に高度に真正なものへと到達するやり方は、哲学ににている。
 理系での数学は手段として用いられることが多い。文系ではこのようにツールとしては用いられないだけに、より純粋に論理・思考・推論を磨くために数学は勉強されるべきだと思うのである。

年齢は関係ないですよ、学習歴も関係ないですよ、そして、急がなくてもいいですよ、勉強の王道は
言語学と数学です。
やまさんも、ぼちぼち、ゆるゆると英語(言語学的アプローチから入っていきたいな)、数学はずっと勉強していきたいです。
  

 







2011年1月20日木曜日

北越雪譜その2

 今日は大寒、これから立春までの二週間くらいが一年で一番寒い。私の住んでいるところは四国で太平洋側だから、寒いといっても乾燥した季節風が吹いて、乾燥し、朝晩冷え込むだけである。早朝は氷が張り、時たま季節風が強くなると雪も降るが、おおむね寒中は好天が続く。
 しかし、今読んでる「北越雪譜」の地方である越後の魚沼郡は日本の最深雪地帯である。冬は東北地方に近く、内陸にあるため気温も低く、日本海側にあり、後ろに脊梁山脈を背負っているため、曇天か大雪でほとんど太陽を拝めない日々が続く。

 今でももちろん豪雪地帯だが、江戸時代はもっと気温が低かったみたいで、今以上のドカ雪であった。本の中に1~2丈積もるのも稀でないと述べている。一丈は約3メートルなので、3~6メートルの積雪である。
 雪国越後の中でも、著者の鈴木牧之がいた魚沼郡塩沢は頸城郡高田(今の上越市の内陸部)とならんで積雪の多いところである。世界的にもこれだけ雪の降る所はない。ふつう気温が下がれば空気中の水蒸気も減るし、海や陸からの蒸発も減る。そのため冬はそれほど降水量は多くならない。シベリア、北極はこのため降雪は至って少ない。ところがこの地方は特異な地理的条件のため、九州や四国の夏の集中豪雨の月にまさるとも劣らない量の降水がある。気温が低く、シベリア気団の中でのこの量の降水は、当然、ドカ雪となる。

 先の頸城郡高田(上越市の内陸部)は城下町でもあり、江戸時代かなり大きな町であったが、大雪で埋もれることがあった。
 まあ、3~6メートルの積雪に町が覆われるのを想像してみてください。大げさではなく次のような話が残っています。
 飛脚が高田の町と思われるところにやってきたが、見渡すばかりの雪原のみ、ようやく、探しあげ、掘るようにして、飛脚の用をはたせた。飛脚は探し来る次の人の為に、杭に立札を打ち付け、見えるように雪原に挿し込んだ。
 「この下に高田あり」


 

 次にこの本の中に入っている面白い話で、実際に著者、鈴木牧之が体験したお話を紹介します。

「雪に座頭を降らす」
 
 座頭とは江戸時代のある職業の人です。盲人の職業集団の中のある階層を指す者でした。江戸時代目の不自由な人は職業がほとんど決められていました。琵琶、三味線、琴などの演奏家、あん摩や針などの治療師です。この話の中の座頭は、あん摩マッサージ師です。

 著者が友と連れ立ち、年越しの夜、かなり裕福な家を訪問し、もてなされていた。主人ばかりか主婦、若嫁、娘なども混じり、酒など酌み交わしながら歓談となった。婦女子がいて、こわごわ鬼の話を聞いてきた。地方によっては大みそかの夜は昔から「鬼やらい」といって厄を払うため鬼追いをする風習があったのである。この地方ではなかったようだが、そのような風習の話題となり、続いていろいろな鬼の話題となったのである。友人は婦女子がこわごわ聞くので興に乗ったか、悪乗りか、ますます、鬼のことを言いたてた。
  
 「外を鬼どもが徘徊してるに違いない。それ、そこの明かり窓から覗くかもしれんぞ。」

 とおどしているまさにその時、人々のすわっている後ろにこの地方の特有の人の背より高い位置にある、明かり窓より、バリバリ、ドドド、ザザザー、と物凄い音をたてて、雪とともに座頭が上から降ってきた。(と著者は表現している)
 さあ、ときが時だけに、驚いたのなんの、原文で再現すると
 「女はみな唖といひてうつぶしておびえまどい、男はみな立ち上がりておどろきけり」

 鬼ではなく福一という座頭・あん摩であることがわかり、主人、著者、友人ら男どもは、落ち着き、やがて笑いとなり、福一に怪我はないかなど、訪ねる余裕も出た。
 しかし、心臓も止まるかと驚いたあるじの妻は、腹立てて、原文によれば(江戸の当時とて、今から見ると差別的な言い方であるが)
 「めでたき大みそかの夜に、盲(メクラと訓じている)が窓よりふりこみしはいまはしきことなり、とくとく、出で行けとてしたたかに叱りければ・・・」
 と立腹が収まらない。そして、蹴破った高窓は正月の吉方にあたり、実に縁起が悪いと、よけい腹立てる。

 福一はかなり機転のきくあん摩だったみたいで、このままでは、悪印象が残ってしまうと懸念したのであろう、即興で次のめでたい歌を作り、詠った。

「吉方より福一というこめくら (米蔵と小メクラとかける が入りてしりもちつくはめでたし」 
 で一同感心し、福一は褒められ土産までもらったとある

 もちろんこれは体験に基づく実話である。家の座敷にいて、上から人が降ってくる話は、この地方ならではの話である。屋根の雪下ろしなどで、往来の道が家の軒よりも高くなったため、転んだ人は、なんと、人の家の一階に降ってくるのである。  

2011年1月19日水曜日

北越雪譜その1

 「北越雪譜」がようやく半分読めた。
 これは江戸・天保期(1830~1840年頃)、越後の国、今の新潟県・塩沢にいた鈴木牧之によって書かれた本である。内容は、雪国越後の特異で珍しい風俗、地誌、雪国ならではの事件、事故、そのほか人文地理全般にわたっている。
 昔にさかのぼればさかのぼるほど人々は、都の風俗を尊び、田舎の風俗を卑しんできた。貴族しかり、武士でさえも地方より都の文化をもてはやした。江戸時代でも、いわゆる文人という人々は、(まあ、文筆家または文化人ですかね、)同じように江戸や京都の文化、風俗を最上とした。地方の文化や風俗などには見るべきものはないと思われていた。ましてそのような地方の文化、風俗が本にされ出版されることなどはなかった。
 しかし、江戸も後期、天保時代になると地方の経済が発展し、地方にまで幅広い階層に教育が普及し、そしてそれに伴い地方人に多くの文人が輩出する。
 そして以前は考えられなかった地方人が自分の地方の文化を本にして出版することができるようになったのである。
 この「北越雪譜」がそうである。出版は江戸においてなされたが、越後の辺鄙な僻地ともいえる塩沢の問屋で質屋の商人兼文人の鈴木牧之が著者である。そしてこの本は、江戸には珍しい話が満載された本としてベストセラーになる。地方文化の隆盛が本になって結実してくるのがこの時代である。

 江戸の後期、越後(新潟)で有名な文人は小林一茶、良寛がいます。この二人は俳句、和歌を作っていたので今でも知っている人は多いです。しかし、鈴木牧之は散文、随筆のたぐいなので知る人は今でこそ少ないですが、読んでいて面白い本で、出版と同時に江戸で大評判になったのも納得できます。

 盛りだくさんの内容については、全部は無理なので面白い話をいくつか次の機会に紹介しようと思っています。最後に一つだけこの話を・・・

  越後には天然ガスが噴出してるって知ってました?この本によるとこの時代、天然ガスが噴出し、燃え上がることもとっくに知ってました。驚きなのは、管様のもので(竹か何か筒を作り)引っ張り、着火し、それで、天然ガスが噴出する池の水をその火で温め、有料の温泉を作っていたことです。
 それって、今の重油でボイラを沸かすスーパー銭湯と変わりないですね。よく誤解されてますが、燃やしたのは石油だろうというんですが、石油は常温ではガソリンのように、パッと燃えません。すぐ火をつけて燃えるのは天然ガスです。同時に石油も出ますが。

 話、変わりますが、温泉に含まれるのは鉱物イオン、いわゆるミネラル、これらはすべて無機物なんですが、成分に石油のもととなる有機物が入った温泉があるのご存知ですか?こんな温泉めったにありません、特異な匂いがあります。
 私は入りました。珍しいので皆さんも機会があったらぜひ入ってください。それは日本最北の温泉、豊富温泉とその近くの稚内温泉です。
 上記の江戸時代の越後の天然ガス温泉も、噴出する池の水を使ってるから、有機物の入った珍しい温泉ではないかと推測されますが、昔の話なので分かりません。
 この有機物温泉、たいへん薬効あります。

2011年1月18日火曜日

暖房器がめげて、やまさん、夜、ジョイメイトの前をてくてく

 今日は寒中の満月。
 寒い北風が中天にある孤独な月を吹き、ものみな凍てつくこの夜。
 皆さんはさぞ暖かくしてお過ごしでしょうね。

 頼みだったファンヒータが故障して、やまさんは寒さに凍えております。エアコンがあるんですが、電気代を5000円以内に抑えるため、意地でもつけておりません。ホットカーペットの上でおかっこまり、して小さな座卓に夏用の布団をかけその上にパソコンを持ってきてブログをしたり読書をしております。背中を丸め毛布を肩からかけてますが、寒い、肩がこる。

 この間から読み進んでいない「北越雪譜」を読み始める。江戸期天保時代の越後雪国の鈴木牧之の書で、雪国の風俗、珍しい話を集めたものです。全編さむ~い、話ばかり。
 いまこの環境で読んでるとリアル感たっぷりで仮想現実が楽しめます。
 しんしん、周りは冷え、どこかから隙間風まで、雪こそないがやまさんの部屋は北国とも雪国ともいえます。「吹雪で凍死」の話になんかうんと現実味を感じます。
 「おー、この部屋が、北国、越後じゃ」

 実は本を読み始めたもののあまりの寒さのため一時中断、ホンマに凍死する。それで、妙な体操して体を温める方法を考えましたが、温まる前にへたばり本を読むどころでなくなるので、これは却下。しばらく、なんかいい方法はないかとたくらむ。
 「おおそうじゃ、ええことを思いついた。」
 本を読むにはうってつけのシュチュエーション!移動図書館。
 「わははは、鴨島から文化の森までの定期をもっとるんじゃ。」
 「列車で何度も往復したら、中はぬくいし、本が読める。金もかからん。」
 
 さっそく午後6時20分の列車に乗り、暖かい中、読書しました。列車のゴトンゴトンって揺れるリズム、読書に持って来いと思ったことありませんか。バスや車で読書する人はいませんが、列車での読書家は多いです。
 キヨスクの中で本の売り上げ、結構あるんですよ、それからみても列車で、いや、列車のみで読み進むファンはたくさんいます。
 徳島に着くとすぐ阿南行が待ってました。それに飛び乗り二軒屋駅で降りて引き返すつもりです。二軒屋駅で降り待合室へ、3~4日前にもお遍路さんが寝ていたが今日も寝てる。で、折り返しの時刻表を見て
 「ガーン!」
 「それはナイジェリア」
 なんと、あと1時間5分しなければ徳島行はない。下車客が散った待合室は閑散として、寒さが募ってくる。ベンチにはお遍路さんが寝袋の中に顔も入れエジプトのミイラのようになって寝ている。ここでは一時間も待てない。寒いし、
 「よし、富田駅まで歩こう、ぬくもるし、そのうち富田で乗る上りの時刻も来るだろう。」

 夜の徳島を富田に向けて歩き始めました。二つ目の自動車禁止の踏切を渡り御座船川沿いを行くと
 「あーら、おなつかしや」
 訓練校が。
  まだ下の店は開いてました。道の反対側の交番には若いお巡りさんが何人か暇そうにしてたので、
 「こんばんわ」
 というと
 「どこか、お探しですか」
 「いいえ、散歩です」
 「お気をつけて」
 寒い夜は、誰かと話したい。

  
夜、ずいぶん歩いたのでおかげでぬくもりました。
 富田から列車に乗り家に帰ったのは9時20分、読書より運動ができました。

 ブログで読んだ本の内容も書きたいのですが、家に帰ったら寒いです。もうキーを打つ手も凍えそうです。
 お風呂に入って今日はこれで終わりにします。

 

よくないことは続いて起こるもの

 今朝も寒い。しかし、ファンヒーターが故障したためあったまらない。ホットカーペットでは、へばりついたまま動けない。エアコンはあるが熱量は劣る。
 昨夜からよくないことが続いている。
 玉ねぎを切らずに指を切ったこと
 ファンヒーターの故障
 
 このヒーターまだ買って2か月とちょっと、もちろん保証期間内で午前中に買ったとこへ持っていくつもりだが、いつ直るのかわからない。
 点火してもすぐに消える。何回やっても同じ。故障の表示が出る。ずいぶん安く買って、その時は得したなあ、と思ったが結果的に損した気がする。聞いたことのないメーカーなので、保証期間内とはいえ、どのような修理サービスをするのだろう。販売店が直すわけないし。

 実はこのファンヒーター8500円で買ったのです。安い!と衝動買いしましたが、あとで友人に言うと、「うーん、それは・・・・・・・・・」と後の言葉がなかったです。たぶん、安すぎて品質は下どころか、すぐ故障してもおかしくないといいたかったんだろうと思います。わたしも値段からちょっとそのような予感がしないでもありませんでした。

 最悪のこれからの展開は
 
 名もないメーカー、または、とっくにつぶれていたため、在庫を安く放出、いまさら保障修理といっても、できない。一応販売店が一義に責任持つから、まったく、おざなりに修理したふりをし、また、すぐ、故障、故障、故障・・・・・・・・・やまさんあきらめる。

 寒い中、満足な暖房がないため、布団にくるまり、寝てるのが多くなる。
 寒さと寝てるのからだんだん無気力になり、増々何もしないで寝る。
 玉ねぎを切らず指切った傷が化膿する。
 貧乏だからすべがなく、じっと寝る。
 体のあちこちが変調をきたし死亡
 寒い時期だから、腐敗が進まず、ミイラ化する。
 数か月後、ごうを煮やし押し入った集金人に発見される。

こうはなりたくない!

2011年1月17日月曜日

けがじゃ、げがじゃ、どないしょう

明日、一日食べれるよう、さっき肉じゃがつくってました。切れない包丁で玉ねぎの丸い部分を押し切りしてたら、
 つる、ぴゅー、ぐさっ、
中指の先、血がどpppっぱー
 稗田阿礼(8世紀の人、古事記の語り部、ひえだのあれい、と読む)ひえーだのあれー
 やまさん、真っ青、どないしょう
妙な菌が入って、えらいことに、なりはすまいか。オロナインしか、ない!
痛い

小松島今昔

 今日も寒いことは寒いが、ここ2~3日の寒さと比べれば穏やかな冬の日である。このところ太陽の光の明るさがぐんと増してきた。気温はまだまだ低いが「春は光から来る」というのもうなづけます。日が暮れるのも目に見えて遅くなってきています。
私の影のコントラストがはっきりしている。光はこのところ強さを増しつつあります。
 一陽来復、春は、光からやってくる。







わりと穏やかな日なので、正午過ぎに南小松島の駅前に立つ。
 大橋を渡れば、港。大きい船は今はいない。海上保安庁の船が停泊している。












昔、ここから阿摂航路の船が出てた。
昭和40年ころまでは、集団就職に出発する中学生たちを見送った。紙テープを長く引いて、あきつ丸は出て行った。
 喜び、別れの悲しみ、ゆめ、希望が交差するところであった。
 今は、すべてが夢のよう。
 あの時の紅顔の少年は、いま、どうしているだろう。

賑やかな小松島沿線、趣のある木造の小松島駅、港駅で出発を待つ列車、そのデッキを縫うように威勢よく売り歩いたチッカ売りのおばちゃん、みんな、みんな消えてしまった。
 よせてはかえす波だけが昔と変わらない。 




えーっ、ここまでかわったのか!
日赤病院までない。広大な更地の隅に某福祉法人の幼稚園がたっている。
しらなんだ、小松島よ、どこまで変わるのか。






旧日赤跡地から南を見るとこれだけは昔と変わらぬ「日の峰神社」
 参拝登山を決意する。







山頂、神社に参拝










頂上から勝浦川の方を眺める。










先ほどの岸壁が真下に。
古い港町の面影はない。









反対側は大神子海岸、白砂青松がまだ残っている。開発と称する破壊はやめてほしい。









山を下りて、昔の小松島線の線路の跡が遊歩道になっているので歩いていたら、巨大な建物が、これが新しい日赤とか。
 いま、羽振りの良いのは病院、福祉施設ばかりというのでは、小松島も困る。お上も新産業を考えているのでしょうが、目立たない。残念。




旧線路沿いには猫が多い。餌をもらいなれているのか、私の顔を見ると
「ねう、ねう、ねう」
とかわいらしく鳴く。
 私の思い込みかもしれないが、港町とさびれた街には、多くの野良猫が似合う。





交通安全の木偶の坊が。
ちゃんと服を着て立っていた。
小松島はこんなデコンボウがあちこちにある。
 見ていてさびしい気持ちになるのはなぜだろう。





中田駅まで歩きもう一度登った山を遠くから参拝、手を合わす。








呼んでも帰らぬ昔の小松島、過去は意味ないものなのか、年寄りの繰り言か、
栄枯盛衰も一炊の夢、私は長く生きすぎたのかなあ。
 なぜか、港町十三番地。

2011年1月16日日曜日

真冬日の一日

 お仕事を持っておられる方も、今日は休日の人が多いと思います。が、こんな寒い日の休日、どのように過ごされているのでしょうか。活発に動かれて休日を楽しんでいるんでしょうね。熊のように動かず冬眠してる人はいないでしょうか。
 
 私なんか、このところ毎日休日で、勤労社会人に対しちょっと後ろめたいですが、しかし農耕社会が始まった数千年前から、だいたい真冬は農業ができない季節であります。作物は実らないし、雪にふりこめられたりしましたから、囲炉裏などの火のそばにみんな集まって、茶のみ話をしました。
 
「冬は忙しくしている人よりのんびりしている人が多かったんじゃ。」

「寒い冬は太古から、ゆっくりが自然のリズムじゃ。」
 
と、都合の良いように自分に言い聞かせ納得してます。

 私の住まいする吉野川市では今日は昼でも零度を上回ることはなかったみたいで、影になるところの氷や雪は一日解けませんでした。これは

「真冬日」

 といい、最高気温が0度を下回る日がそうですが、南国徳島ではめったやたらとおきません。ちなみに「冬日」は最低気温が0度を下回る日でこちらは一冬に何回もおきます。

 午後10時半ぐらいまで家でファンヒータ、ホットカーペットで暖をとり、ぼんやりしてたんですが、
 「いかん、いかん、こんなことしてたら、灯油と電気代が勿体ない」
 昼前に、徳島のSデパートに行く。
 中をうろうろ、本屋で立ち読み。
 そうそう、デパートに行く前、駅前の歩道ですごい人を見ました。

宗教的修業か、哲学的瞑想か、0度に近い外気で風もある中、結跏趺坐(仏道修行のあぐらの一種)してる青年がいました。
 黒のカンカン帽をかぶり、紋の入った黒羽織、素足の足裏を膝にのせて手は印を結んでいるようです。
 
 格好だけから見ると、大正ロマンの時代、バイオリン一丁持って自ら伴奏しながら歌った演歌師を彷彿とさせます。
 次のように
 「ラメちゃんたら、ギッチョンチョンでパイのパイのパイ、電車に自動車楽しいな~」
 と歌ってました。

 でも彼は瞑想。なんだろ、端正なお顔の青年です。
 ん~、謎だ。









 夕方、家の近くを散歩してたら、いつもと違い、あまりの低温にこんな現象が

右下の霧状のものは公園の噴水、それが左上にある柳の枝に昇華して、氷の水晶のような数珠玉になってくっついている。
 お正月の薬玉みたいになってる。
 これがおおがかりになると樹氷になる。



 












 上空の極低温のため、水蒸気が非常に細かな氷の粒となり、無数に浮遊してるため、光が散乱して白く一面にひかっている。
 左の白く輝くのがそれである。


 よるごはんは、すきやきにしました。ぬくもって、おいしかった。
あと、トンガラシチンキの入った自家風呂に入って、一日終わります。

う~、さぶっ

 今午前9時半、もっと早くから起きてたが、さむーて、布団から思い切って出られん。ぐずぐず、うとうと、毛布にくるまってると、あったこうて、気持ちがええ。
 こんなんではいかんと、エイヤーと思い切って布団から飛び出たものの、ファンヒーターが点火するまでの間、
 「うー、うー、うー、うー、うー」
 と、あまりの寒さのため、不随意にうめきが知らず知らずもれてくる。
 「おまえは、消防車か!」
 「それにしても、なんちゅう寒さじゃ」

 歳いっての寒さはこたえる。地球温暖化といってさわいどるが、
 「びんぼう人と、年寄りは暑い方がマシじゃ」
 19世紀のヨーロッパの印象派の画家のように常夏のタヒチあたりで、腰巻だけの美女に囲まれて老後を過ごせたら極楽じゃ、と不埒なことを考えても一向に暖かくならん。
 「ゴー」
 と、ようやく温風が吹き出し少しあったまる。

 今年はずいぶん寒い年のような気がするが、60年人生を振り返れば、それでも私が子供の頃がこの冬より寒かった。分厚い氷が毎日のように張ってました。
 思い出すのは、私が小学校6年の一月、気象史に残る寒波・豪雪で、後の世の人はこれを指して
 「38豪雪」 (昭和38年)
 地軸を揺るがす大寒波、と言われたものです。え、大げさですって?なにをおっしゃるうさぎさん!ほんとなんです。北半球の北極をまわるジェット気流の波動が見たことない形に変化し、それにつられてわずかですが地軸も揺れたんです。あとで知りましたが。
 日本列島は連日大雪、北陸の列車はなんと一週間雪に閉じ込められ、雪崩の被害、屋根の崩落事故多発。静岡の焼津港に氷が張った。1月17日の新聞の見出しは
 「日本列島凍る」
 でした。
 学校へ通う道は大雪がつもり大変でしたが、12歳の時のやまさんは元気でした。おお喜びで走り回ったのを覚えてます。
 最高、この地方で30センチ以上積もりました。
 この昭和38年1月から3月にかけて四国の鴨島でも北陸地方のようでした。
 誰やらん、かまくらも作ってましたもの。

おお、ようやと、ぬくうなってきたわ。

2011年1月15日土曜日

はなは、いぇちぃごぅぉ~の ゆき~つばぁ~きぃ~

 今、午後10時40分、外を覗いたら真っ白けっけ。雪じゃ
 梅酒一合でほとんど酔わない。見ると5パーセント濃度、でもこれくらいが頭が痛くなくてちょうどよい。
 で、気分いいとこで、一人カラオケ、
 ほんでも、カラオケ機械、前世紀の85年の馬鹿でかいレーザーデスク、しばらくぶりに動かしたら、映像だけで音がでん!こりゃ困ったが、
 インターネットですることにした。
小林幸子の「雪椿」



 このサビの部分
 「はなはぁ~ いぇちぃごぅぉ~の ゆきぃ~つぶぁ~き~」
 のとこが一番好き。
 
  明日は寒くなるのは確定的。調べたらうちの地域、最低気温はマイナス3度、最高気温はプラス1度、平均気温はマイナス1度。
 ひえ~ ここは北海道か。
 こんな日の未明に持病が起きたらと、不吉な予感。
 今晩は安眠できるかな。

そろそろ、お布団に入ってねますわ。水道凍れへんかいなぁ、心配がいろいろあります。
 

雪降る夜、すべなき者は、ひざをかかえて、一人寝の子守唄。

 今、午後の6時半、明るいうちは雨かみぞれだったのが、暗くなって雪に変わって、風も加わり横殴りの雪、大雪の予感を感じさせるのだが今夜から明日にかけてどうだろう。
 皆さんのところではいかがでしょうか。
 
 昼から夕方にかけて今日は寒いのと、昨日山歩きして足の筋肉痛があったのと、で4時過ぎから久しぶりに温泉に入りに行って、先ほど帰ってきました。温泉は家の風呂よりやはりぬくもりますね。
 でも今日は休日で天気が悪く、おまけにおそろしく寒いときているので、みなさん考えることはいっしょで、みーちゃん、はーちゃん、きくちゃんも、おんせん!おんせん!おんせん!おかげで中は、大入り満員。
 せっかく久方ぶりなので2時間ぐらいはくつろぎたかったのですが、湯船、そしてローマカラカラ浴場風低温湿サウナも押すな押すな、
 人ごみが嫌いなので1時間で出ました。
 もったいなー!
 
 満員電車も嫌だけど、混み合った温泉場もいいものではありません。傍若無人な人はどこにもいるようですが、裸になると節度も脱ぎ捨てる人が多くなるようで具体的には書きませんが、長くは入っていられません。

 家で暖かくして、ごろ寝します。おいしい梅酒を一合買ってきたので、アルコールに弱いやまさんですが、これは薬になる5年熟成梅酒とのことですので、雪見にちょびりんちょびりん飲みます。

 雪降る夜、梅酒一合で気分よくほろ酔いになったら、一人だけどカラオケでも歌いますわ。
 こんなとき、訓練校の仲間がそばにいればねぇ。

 
 

2011年1月14日金曜日

眉山縁起絵巻(眉山登山諸寺社詣で)

 ハローワークを出て南に歩いていたら、正面に眉山が。山頂辺りには目の錯覚か、紫雲たなびき、迦陵頻伽が舞い、妙なる音が聞こえてくる。
 霊験を求めて登ることにしました。












春日神社の横、滝薬師を参拝
ここからが登り口









少し登ると観音堂がある。










御嶽神社への石段、急こう配
この道が眉山へと続く









御嶽神社、ここから上はもう山道になる










途中に磐座のようなところがあり
展望が開ける
まだ、半分も登っていない。








上の方の森の下草は
立派なシダが









立ち枯れたままドライフラワーになっている。
アジサイの花。









一時間かけて登頂
剣山神社、まだ、お正月の飾りが









二時半だが陽はすでに傾き、杖を片手のシルエット


















山頂の広場に何やら巨大な百葉箱のようなもの、なんだ?


















底を下から見上げて納得
これ、巨大な万華鏡








城山、県庁、市の中心地、そして向こうには
紀伊水道が見える。









パゴダも参拝する










二軒屋の方に降りてくると、まず忌部神社の境内に入る。









少し下ると金毘羅さんの境内に、










天保9年の大石灯籠、ここで下りきる。
眉山登山の終点










二軒屋駅まで歩いて行きました。駅にお遍路さんが寝ていました。
霊気を受けてピンシャンと言いたいが、くたびれかえりましたわ。
明日、足の状態がおとろしい~。