私の家からまっすぐ南に向かえば山につき当たる。その山の麓、少し上がったところに大楠がある。少し距離はあるが運動をかねた散歩によいので、秋、冬はここまで足を延ばす。この辺りは他にも古い神社やお寺もあり私のお好みのコースである。
去年の今頃は毎日のようにこの辺りを散歩していた。一年もたてば嗜好も徐々に変化するものなのか、それとも少しずつ体力が落ちてきているのだろうか、あまり行ってないことを思い出した。二時過ぎDVD屋さんに寄ったついでにこの大楠まで久しぶりに行ってきた。
三時前に着き、携帯写真で撮った。
この大楠、名前がある。「壇の大楠」という。人の寿命から考えると信じられないような年齢をもった古木である。樹齢、推定約1000年。よく長らく持ちこたえてきたものを例えて、風雪に耐えて何年、とかいう言い方をされるが千年この地にあって文字通り風雪に耐えてきたのである。風雪どころか千年もの間には落雷も一度や二度ではなかっただろう。
木はわれわれ動物と違って当然動けない。積極的に行動してわが身を守ることはしない。太陽と水の恵みだけ受けてじっと立って生きるしかない。
千年生き延びたのは、楠という樹種、あまり建築用材として使われない。のが幸いしたのか、また今でもこの横に小さな祠があるが、信仰の場所を象徴する木であったためだろうか。深い森の中でなく、古代中世から開けたこの地にあって千年、よくぞ人に切り倒されなかったものである。奇跡に近いのではないかとも思えてくる。
木の根方はおとな5~6人でなければ抱えられないくらい太くてどっしりしている。土地から巨大にせりあがっていく木の下方は、大きな独立した山、富士山のように裾を引いていて、よく見るとその山のふもとのように谷や山襞のようなものがある。分厚い鱗様の樹皮は一様でないさまざまな色の変化をみせ、遠くから見ると苔の生した巨岩のようにも見える。
枝とも幹とも見分けがたいものが土地からせりあがってすぐ分岐している。そしてそれらの幹もうねうねと這うように上方に伸び同じように枝か幹か見分けがたく分岐している。それらは単純に伸びているのではない、千年生きてきた苦悩を表しているかのように複雑に内部の力が蠢き、思わぬ動きがかろうじて表面の樹皮によって押しとどめられ、さまざまな方向へ延びようとするいくつもの流れが合わさってようやく何とかひとつの流れになったという形になっている。うんと上方はまるで神話に出てくる、やまたの大蛇、のように動きのある曲がり方をしている。
千年の風格を感じさせる老木である。
この老木、最近、弱ってきている。松などと比べると病害虫に強いとはいえ、人と同じで寄る年波には勝てないのであろう。写真からもわかるであろうか、葉のつき方がうんと少なくなり離れたところから見ると枯れ木のようになっているのである。御存じのように楠は常緑の木であり葉を全部落とすことはない、しかし昔、私が見たような生い茂った木の姿は見られなくなった。これは私一人の印象ではない、5月頃通りかかったとき、たぶん市役所の依頼からだろう、樹木医さんだろうか、専門家の人が木の手当てをしているところに行きあい、少し話を聞かせてもらった。かなり弱っていて枯れるかもしれない。と言っていたのである。
平安中期に生まれ、平成の御代まで1000年生きたが、生きとし生けるもの、事故・故障がなくても寿命が来れば死ぬのは定め、天の国にいる天人でさえも五衰して滅する。世界さえも劫が尽きれば消滅する。
近寄って手で愛おしむように撫でながら思っています。
「木よ、千年、よう、がんばりぬいたな。みたところ、老衰の症状がでとるが、まだ、ところどころ若枝が出て葉をつけてる。このまま死ぬんか。もうちょっとがんばろな。」
私よりはるか昔から生きてきた木であるが、まるでやまさんの老衰に合わせてくれるかのように最近年老い枯れつつある古木に限りない愛着を感じるのです。
1 件のコメント:
今日は散歩した後、言いようのない疲労感に襲われ、ゆうがた二時間ぐらい寝ました。起きるとき首の筋肉か筋が痙攣し筋肉痛。そのあと痛がだんだん強くなる、明日は首が回らないかもしれない。
年の暮れで、首が回らん!
えらいこっちゃえらいこっちゃ よーいよいよい。
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