彼も公費の長崎留学である。この地における学問の費用、滞在の生活費が給付されている。まあ、目的も立場もちょっと違うが、我々もこの間まで職業訓練のためIT技術を三か月学んだ。そして毎月生活給付金として10~12万頂いた。彼も学び技術・スキルを身に着けることを条件に公費をもらうことにおいては我々と似ている。
彼がいくらぐらい給付されたのか、興味がある。どこかに書いてあるかと日記を読み進んだが、自身については記載されていない。ただ、土佐の藩費留学生の上人(上士か)は月当たり8両プラス3人扶持であると記載されている。彼もこれくらいはもらっていただろうと推測される。当時の物価など考えるとかなり余裕のある、はっきり言えばおぼっちゃまの学生生活が送れる金額である。また実家から携えていった金子、また時々の仕送りもあったとおもわれる。
日記を読むといろいろなものの購入、酒宴、おいしい物を食べたこと、が頻繁に出てくる。読んでいて涎が出そうな美味なものが多い。けっして貧乏学生ではない。
ちょっとおかしかったのは、友達に誘われて丸山へ行っていることである。丸山はこの時代の遊郭、現代風に言えば売春宿だが当時、そんな下品で不道徳な意味合いはない。究極売春行為はするが、それを抜きにすると今で言ったら、銀座の超高級クラブと社交クラブとが合わさったようのものです。なにせ日本の三大遊郭の江戸吉原、京都島原、長崎丸山と並んで称され、位の高い花魁がいた幕府公認の高級花街ですから。
彼、友に誘われしぶしぶ行ったことを匂わせるように書いてますが、相方の遊女が、「初」という名で16歳、まあまあの美人、などと書いてますから、まんざらでもなかったんでしょうね。もちろんお話だけで終わるはずありません。やることはきちんとやってチップもはずんだのでは。いい留学生活ですね。
ここで当時の青年たちに最もインパクトを与えた近代科学技術とはどんなものか、考えてみた。ペリー来航以来衝撃を与えた科学技術は数多くあろうが、私は二つを思い浮かべた。大小二つである。
大は蒸気船、いや蒸気汽船の軍艦である。ペリーをはじめとして外国の直接の脅威は、蒸気で自在に動き、射程の長く精度の良い大砲を搭載した船として幕末日本に現れた。当時のハイテクの塊である。幕府、藩にこれに対抗しうる軍船、大砲は全くなかった。
清国のような大国がこの軍艦を中心とした兵力に負けたこともあり、日本人はこのまま手を拱いていれば亡国の憂き目にあうと考えたに違いない。このハイテクな軍艦、兵器も含め、手に入れて、操作法を習得し、できれば製作したいという希望者が長崎に集まった。幕府により海軍伝習所ができたのもここ長崎である。青年達は、海に火輪を浮かべることを夢見たのである。
では小さいほうはどうか、大に劣らずインパクトを与えたのは写真術である。まるでそっくりそのまま実物を吸い取ったような正確な写真を初めてみた人は仰天したに違いない。この写真術も長崎が中心で長崎在住の上野彦馬により日本人が写真を扱い、撮れるようになった。
この写真術は純粋な化学薬品、そして化学の知識が必要とされ、極めることはそのまま化学の研究になる。上野彦馬も化学の勉強の末、写真家として大成している。
幕末、化学という言葉はまだ生まれておらず、舎密(せいみ)と呼ばれていた。ケミカルに漢字を当てたのである。長井の日記を読むと「舎密開宗」という化学の本のことが書かれている。化学的な知識を勉強していたのであろう。彼の本業は医学であるが、日記の中で写真術に並々ならぬ興味を示している。しかし写真家を夢想したわけではあるまい、写真を通してそれと深く結びついた化学に興味があったのであろう。のち、彼は医学者としてよりも化学者として有名になり、エフェドリンを抽出発見するのである。
当時の写真 |
3 件のコメント:
ここ2,3日、大変寒い日が続いており、ほとんど冬眠状態で活動休止です。
ほんとうに冬眠したい。春まで。えさの心配もしなくていいし、熊ややまねのように巣籠りしたい気分です。
しゃきっとする方法ないかしらね。
エフェドリンの開発で、多くの民が楽になったのでしょうね。
長井氏の事を後世にもっと伝えたいです!
引き続き長崎日記よろしくお願いします。
長崎には技術があった…それを伝え、現代に残した偉人もそれに比例する如く居た。
しかし時が経つにつれ、忘れ去られる。
今は衰退した技術も、昔は異常な程のハイテク。
今の革新的な技術の開発者も、300年ほど後には…と考えると少し残念な気がしますねぇ…。
その時代の人間に生まれてたら、遊郭とか行ってみたかったなぁ…。
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