2010年12月14日火曜日
頃は元禄15年
今日12月14日は赤穂浪士47人が吉良邸に討ち入った日です。元禄15年ですから、西暦1702年です。最近は赤穂浪士の討ち入ったこの日を知らない人が多く、またTVや新聞、ラジオなどでも特別取り上げることも少なくなりました。
しかし昭和の時代までは毎年この日がくると関連した映画が封切られたり、TV放映があったり、また新聞、ラジオなどでも必ず取り上げられました。14日はクリスマスやお正月と同じように年中行事でした。だから昭和の時代、この日を知らない人はほとんどいませんでした。
赤穂浪士の話は主君のかたき討ちの話です。だから江戸時代この47士は忠義の鑑とみなされ称揚され続けてきたのです。武士だけでなく庶民には「忠臣蔵」の芝居を通して人気を博し、絶賛されてきたのです。
実はこの元禄時代、太平の世が続き、貨幣経済は発達し、贅沢奢侈な生活をおくる人も現れ、上方を中心に元禄文化が栄えた時代でした。武士も戦うことが本業でなくなり、行政官としての働きが重視されるようになります。こうなるとむしろ純粋な忠義は廃れる傾向にあります。このような時代に起こったのが赤穂事件でした。忠義がだんだん軽くなる一方だった世の中だったればこそ、いわば純粋な形の忠義の発露とみられる「主君の仇討」を人々は拍手喝采し褒め称えたのでした。
よくいわれるのが「家、貧しくして孝子出で、国、乱れて忠臣出づ」
封建道徳が整い君臣に忠義が行き渡っているときには、まあ逆説的なんですけれども、義士は出ないんですね。
この元禄という年号、私には親しみを感じさせるものがあります。それは私が高校生時代の頃を昭和元禄と呼んでいたからです。江戸時代は全般を通じて非常に緩やかな経済成長の時代でした。でもこの元禄時代は江戸時代の中でも例外的な高度経済成長の時代なんです。歴史の本なんかでは元禄文化の華やかさばかり目につきますが、それの裏付けとなる経済成長があったわけです。
江戸初期から始まった大河川の土木水利工事、それに付随した新田開発などで、当時のGNPの指標である米の生産がグングン伸びていきました。そのピークが元禄頃です。倍増に近い伸びだったのではと思われます。またこの少し前ですけれど金銀の鉱山の産出量もピークに達しました。結果、日本史上空前の経済規模になり、それが華やかな元禄文化を生んだのです。
昭和40、41、42、43年、私が高校生の頃、高度経済成長がピークを迎え(ゆるやかにはまだまだ続くのですが)元禄時代と同じような贅沢、奢侈が一般化し太平な世を人々は謳歌したのです。3Cの家電が庶民に手が届くようになったのもこの時代でした。(3C,すなわちカラーテレビ、クーラー、カー)、物価ももちろん上がりましたが、それを上回る勢いで所得も上がりました。成長著しい私の高校生時代でもあり、戦後日本の青春時代でもありました。その時代をさして当時、昭和元禄。
それにひきかえ今、平成22年も暮れ方、いったいなんと呼ぼう、時代末期の暗さが漂っている気がしてなりません。マイナス成長、デフレ、失業、他国からの侵略。江戸時代の最後の年号をつけて平成慶応とでも呼ぼうか。でも、慶応ってなんかセレブなネーミングだ。
過去において、悪い世相を代表するこれといった年号が思いつかない。だって明治以前は悪いことが起こったら年号を縁起直しに変えるから、悪を代表する間もなくくるくる年号が変わる。
もういっそ、一元制やめて一君主の間でも、縁起かついで景気のいい年号にしたらどうだろ。
金満元年。安楽元年。なんてどう。
江戸時代が終わり元号が明治にかわったときの落書。
うえから読むと明るく治まるだが、したから読むと治まるめい(明)江戸っ子の方言で、治まるまい。
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3 件のコメント:
私の健康のこといろいろご心配戴いて恐縮しております。
あまりくよくよ考えても仕方ないので、かなり楽天的に過ごしております。
今後のことについても少しゆっくりしてから考えようと思ってます。
年の暮れでなにかとせわしく皆さんも大変でしょうが、どうかお体に注意くださいませ。
元気で何とか生活していれば、よい年もめぐりくると信じております。
昔は、年末になると必ず、
赤穂浪士の時代劇が放送されていましたよね。
寂しいですね。。。
時代は流れても、歴史は繰り返しますね。
年号の響きは、景気回復するような年号が良いですね。
そうですね。健康第一です。健康を害すると、余計に雇ってくれにくいですね。今日、小松島の職安にいったら、西のほうで、緊急雇用が出てましたよ。
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